第1話:予兆
「イーサン、スマホ見ながら食べないの。行儀が悪いわ」
「うるさいなー。わかってるよ、母さん」
マンハッタン郊外、クイーンズ地区。
ありふれた中流階級のダイニング。
テーブルからは、俺の母さん、キャサリン特製のミートローフの、甘酸っぱいソースの匂いが立ちのぼる。
湯気を立てるマッシュポテトの上で、ひとかけらのバターがゆっくりと溶けていく。
それが、俺たちミラー家四人の、いつもと何も変わらないはずの夕食だった。
『……各国で報告されている“進行性過激症”について、政府は冷静な対応を呼びかけていますが、マイアミ、シカゴなどの一部の都市では暴動から略奪へと発展しており……』
壁にかけられた大型テレビが、現実味のないニュースをBGMみたいに垂れ流している。
「またか。物騒な世の中になったもんだ」
NYPD(ニューヨーク市警)の制服を脱ぎ、くたびれたスウェット姿になった俺の父さん、デビッドが、マグカップのコーヒーをすすりながら忌々しげに呟いた。
「あなた、本当に大丈夫? “暴動”だなんて。警察も駆り出されるんでしょう?」
「ただのデモが過激化しただけだ。いつものことさ。それよりノア、ニンジンもちゃんと食べろよ。栄養不良で次の検査に引っかかっても知らんぞ」
「うぅ……はーい……」
ノアは、大嫌いなニンジンをフォークの先でこれでもかと突き刺しながら、不安そうにテレビを睨んでいた。
「ねぇ、父さん、これ知ってる? マイアミで、なんかヤバい病気が流行ってるって。ほら、これ」
スマホの画面を食卓に向ける。
俺が夢中になっていたのは、動画サイトで急速に再生数を伸ばしている、扇情的なゴシップチャンネルだった。
「なんか、急に人が凶暴になって、他の人に噛み付くんだってさ。ほら、このインフルエンサー、『政府は隠してる! 世界の終わりだ!』とか叫んでる」
「ああ? またお前はそういう悪趣味な動画を……」
父さんが顔をしかめたその時、切り替わった動画のサムネイルが、ノアの細い喉を「ひっ」と震わせた。
パニック映画さながらに逃げ惑う人々と、それを追いかける焦点の合わない目をした「何か」。
ノアが、俺のスマホの動画ではなく、壁のテレビに映るニュース映像をじっと見つめて、フォークを止めた。
「……あの人、変だよ」
「ん? 何がだノア」
「ニュースの隅っこの人。あの茶色いコートの人……さっきから三回も、同じ角を曲がってる……。歩き方も、おかしいよ……」
俺には、ノアが何を言っているのかさっぱりわからなかった。
だが母さんは、いつものことだというように、ため息をついた。
「もう、ノア。またそんなこと言って。ただの映像の切り替わりでしょ。あの子は空想好きなんだから」
ノアは、母さんに反論することなく、震える声でつぶやいた。
「でも……学校で友達が言ってたんだ。これ、悪魔憑きなんだって……」
その「変なこだわり」と怯えが、俺の中のイタズラ心に火をつけた。
わざと声を潜め、ノアの耳元にささやく。
「知ってたかノア? そいつらに咬まれたら、お前も悪魔の仲間になるらしいぜ」
「や、やめてよイーサン! 怖い!」
「こら、イーサン。くだらんデマでノアを怖がらせるな」
「……ちぇ」
父さんのたしなめる声が飛ぶ。
俺は口を尖らせて俯いた。どうせ、俺が悪者だ。
「そういえばキャサリン」
父さんが、ふと母さんの右腕に目を留めた。
「どうしたんだ、その腕のガーゼは」
「ああ、これ? 昨日、お隣のアボットさんに……。アパートの廊下で会ったら、なんだか朦朧としてたみたいで。いきなりガブリと……もう、びっくりしちゃった」
「……噛まれたのか」
「大げさよ、あなた。歯型がついただけ。病院でも『動物に噛まれた時と同じ』って消毒されたわ。ほら、見て」
母さんがガーゼを少しめくると、紫がかった痛々しい歯の痕が見えた。
「ただ……そう、少し熱っぽくはあるの。たぶん、そこからバイ菌でも入ったのよ。ただの風邪よ」
「……そうか。用心するに越したことはない。今夜ははやく休め」
父さんの気遣うような視線に、母さんは「ありがとう」と微笑む。
だけど、その頬は確かに赤く上気し、額には脂汗さえ滲んでいるように見えた。
俺は、その不穏な空気を振り払うように、一番聞きたいことを父さんにぶつけた。
「ねぇ父さん。今度の授業参観、来てくれるよね? 俺、社会の授業でこの街の地理について発表するんだ。父さんの分署の近所とか、すげえ調べたんだぜ」
今度こそ、という期待を必死に込める。
だけど父さんは、バツが悪そうに頭を掻いた。
「……悪い、イーサン。例の“暴動”の対応だ。明日から非常招集で、署に泊まり込みになる。手が離せそうにない」
「……じゃあ、母さんでもいい」
希望を半分にして、母さんに視線を移す。
だが、母さんはすぐには答えなかった。
その視線は、俺を通り越し、隣のノアへと注がれていた。
「ごめんね、イーサン。でも、その日はノアを病院に連れて行く日だから……。喘息の定期検診、忘れちゃダメでしょう?」
母さんは、悪びれもせずにそう言った。
まるで、それが当然の答えであるかのように。
「――ほら、ノア。ピーマンも食べなさい。体にいいわよ」
「いやだよ……だって苦いんだもん……」
(……ああ、まただ)
父さんは仕事。母さんはノア。
それが、この家の揺るぎない「日常」だった。
俺がどんなに頑張っても、どんなに「いい子」にしてても、こいつらが見ているのはノアだけだ。
込み上げる不満と疎外感が、一番タチの悪い形で爆発した。
「あーあ。まあ、いつものことだしいいけどさ」
わざと大きなため息をつき、さっきの動画をノアの目の前に突き出した。
「ほら、ノア! この人、犬みたいによだれ流して噛み付いてるぞ。血もいっぱいでてる! お前もこうなるかもな!」
「ひっ! や、やめっ……けほっ、ごほっ、けほっ!!」
恐怖が引き金となった。
ノアが顔を真っ赤にして、激しく咳き込み始める。
「ノア!」
母さんが、俺を突き飛ばすようにしてノアのそばに寄り添った。
「大丈夫、大丈夫よ……ゆっくり息して……」
手慣れた様子でジャケットのポケットから吸入器を取り出し、ノアに吸わせて背中をさする。
そして、発作が落ち着いたのを見届けると、母さんはつり上がった目で俺を睨みつけた。
「イーサン! あなたが怖がらせるからノアが発作を起こしたじゃない!」
「……俺のせいかよ」
自分でも抑えられない棘のある声が漏れた。
先に裏切ったのは、そっちだろ。
「イーサン!」
「だって、いつもそうだ! いつもノアばっかりだ!」
俺は叫んでいた。
父さんが「万が一」に備えて俺に射撃を教えることにも「物騒だから」とヒステリックに反対した母さん。
病弱な弟にかかりきりで、兄である俺をまともに見ようともしない母さん。
「どうせ俺は二の次なんだろ! ノアなんて…ノアなんて、いなければ……!」
シン、と。
アパートの空気が凍りついた。
いや、時間が止まった。
テレビのニュースの音も、食器が立てる音も、何もかもが遠くなる。
母さんが、ショックで言葉を失い、蒼白になって俺を見ている。
ノアが、大きく潤んだ瞳で、ただ、俺を見つめている。
その静寂を、暴力的なまでの轟音が引き裂いた。
「――貴様ッ!!」
ガターン!!
父さんが椅子を蹴倒し、食卓を叩いて立ち上がった。
警察官のそれではない、ただの父親としての激怒が、その巨体を震わせている。
その怒声にびくりと震え、ノアが、ついに泣き出した。
声を上げず、ただ静かに、静かに。
大きな涙の粒が、頬を伝ってテーブルの上のニンジンを濡らしていく。
その顔が、見れなかった。
俺は、父さんの怒りから、そして何よりノアの涙から逃げ出すように、食卓を飛び出した。
「くそっ!」
自分の部屋に飛び込み、ドアを思いきり蹴りつける。
(くそっ、くそっ! みんなして俺ばっかり責めやがって……! 全部! 俺が悪いんだろ!)
ベッドに顔を埋め、叫ぶ。
(こんなクソったれな世界なんて……あの動画みたいに滅んじゃえばいいんだ……!)
この時の俺は、まだ知らなかった。
この子供じみた怒りが、どれほど無意味で……そして、どれほど取り返しのつかない「最後の言葉」になるのかを。




