第18話:浮遊死体(フローター)の淵
三日目の「朝」が来た。
地下の闇に、夜明けなどない。
ただ、俺の安物の腕時計が、機械的に地上の朝を告げているだけだ。
昨夜の束の間の休息で回復した体力は雀の涙ほどで、七人全員の体は、まるで鉛の服を着せられたかのように重く沈んでいた。
ケンジが、ランタンの光を拾い上げ、仲間たちに、そして自分に言い聞かせるように告げた。
「……行くぞ。感傷に浸る時間は終わりだ」
重い沈黙が、全員の覚悟を示していた。
アシュリーは、マイクの額に滲んだ脂汗を、汚れたTシャツの袖で拭う。
マイクは、荒い息を繰り返しながらも、アシュリーの手を弱々しく握り返していた。
その光景は、このカビと汚泥の闇の中で、あまりにも痛々しく、人間的すぎた。
サラは、リッキーに肩を借りて立ち上がり、泣き腫らした目をこすった。
リッキーは、昨夜の語らいで恐怖が少し和らいだのか、仲間たちを元気づけるように膝をうって無理やり起き上がる。
俺は、ノアの小さな肩を強く抱いた。
「大丈夫か、ノア」
「……うん。大丈夫」
大丈夫なはずがなかった。
ノアの体は、この淀んだ空気と寒さで小刻みに震えている。
俺は、リュックから残していた半分に割ったカロリーバーを取り出し、ノアの冷たい手に握らせた。
「食え。生き残りたかったら、無理やりにでも詰め込め」
「……イーサンは?」
「俺はいい。いいから食え」
それは願いではなく命令だった。
ノアは、乾いたそれを、義務のようにゆっくりと口に押し込んだ。
再び、鉄錆の道行きが始まった。
隊列は、「マイクを運ぶ」という、ただ一つの目的のために組み直されていた。
先頭にケンジとアシュリーが交代で斥候を務める。
そして中央に、アシュリー、サラ、リッキー、そしてケンジも時々加わって交代でマイクを支える。
そして殿に、俺とノア。
昨夜、互いの思い出を語り合ったことで、彼らの間には脆いが確かな『ギルド』の信頼関係が戻っていた。
今は、ただの仲間じゃない。
マイクの『人間』としての時間を守り抜く、一つのパーティだった。
だが、その結束を嘲笑うかのように、マイクの容態が、目に見えて悪化していた。
彼はもう、自力では一歩も歩けない。
今は交代で、その体を背負って進んでいる。
「……ハァッ……ぐ……っ!」
枕木の段差を越えるたび、マイクの喉から、激痛に耐える呻き声が漏れる。
そのたびに、アシュリーがビクリと肩を震わせ、振り返る。
「マイク、しっかりしろ!」
「……ああ……俺は……平気だ、アシュリー……」
平気なはずがなかった。
噛まれた太ももを縛った包帯は、黒ずんだ血でぐっしょりと濡れ、その傷口からは、腐敗とは違う、異常な『熱』が周囲の空気さえも歪めるように放たれている。
サラが、時折、マイクの額に触れては、絶望的な顔で首を振った。
「ダメ……熱が、下がるどころか、どんどん上がってる……!」
「鎮痛剤は!」
「もう切れたわ! 薬局で手に入れた分は、さっきので最後よ!」
ケンジが、そのやり取りに苦い顔をしつつも、あえて前方の闇を睨みつけていた。
「……アシュリー、前を向け。お前が警戒を怠ったら、全員死ぬぞ」
「……ッ!」
アシュリーは、やるせない、助けを求めるような目でケンジを睨み返したが、何も言い返せなかった。
ケンジの言うことが、この地獄での『正論』であることだけは、彼女も理解していたからだ。
彼女の背中が、怒りと絶望で張り詰めているのが、俺のいる最後尾からでもわかった。
俺は、バールを握りしめ、その後ろ姿を、そして、マイクの苦しむ姿を見つめ続けた。
(……母さんも、ああだった)
パトカーの中で、熱にうなされ、苦しんでいた母さん()。あの時、俺は母さんのために何ができた?
何もできなかった。ただ、父さんが引き金を引くのを、見ていることしか。
(……今度も、そうなのか?)
ケンジはもう、マイクを『脅威』としてだけ見ているわけじゃない。
リーダーとして、この無謀な『仲間の護送』を最後までやり遂げる覚悟を決めている。
かといって、アシュリーのように『希望』を見ているわけでもない。
俺は、ただ、『執行人』として、その瞬間を待っていた。
父さんが果たした、冷徹な役割。
それを、今度は俺が果たす。
それが、このグループに同行させてもらう対価であり、ノアの『息』(薬)を手に入れた代償だと、自分に言い聞かせた。
だが、マイクが苦痛に呻くたび、アシュリーがその名を呼ぶたび、俺の胃は、冷たい鉄の塊を飲み込んだように、きりきりと痛んだ。
そして、三日目の午後。
俺たちは、この地下迷宮で、二度目の、そして最後の難所にぶつかった。
巨大な、ドーム状の空間。
古い駅のホームだった場所が、完全に水没していた。
「……嘘だろ」
ケンジが、懐中電灯の光を水面に当て、絶望的な声を漏らした。
水は、茶色く濁り、油が浮き、その奥から、汚水と腐敗の匂いが立ち上ってくる。
水深は、線路を完全に覆い隠し、ホームの半ばまで達していた。
「……地図じゃ、ここを突切るしかない。この先にある連絡通路が、ブルックリンへ抜ける唯一のルートだ」
ケンジが、湿気でよれた路線図を叩いた。
「……水の中を、歩くってこと?」
サラが、震える声で尋ねる。
「最悪だ……俺、泳げないんだよ……」
リッキーが、その場にへたり込んだ。
「それだけじゃない……水の中に、奴らがいたら……どうするんだよ……!」
「行くしかないだろ!」
ケンジが、焦りを隠さずに怒鳴った。
「マイクを抱えて、胸まで水に浸かって進む。やるしかないんだよ!」
「そんなことしたら、傷口が!」
アシュリーが、マイクの傷をかばうように叫んだ。
「この汚水に浸かったら、今度こそマイクは……!」
「もう置いていくわけにはいかないだろ! だから進むしかない! ここで立ち止まったら全員がやられる!」
ケンジが、苦渋の決断を押し通そうと、声を荒らげた。
仲間を想うがゆえの一触即発の空気が、再び二人を包む。
その時だった。
「……ダメ」
俺のジャケットを、ノアの小さな手が、強く、強く掴んでいた。
「どうした、ノア」
「……あそこ、ダメ。水の中……」
ノアは、水面を指差し、顔を真っ青にしていた。
「……水が、変な音を立ててる……」
「水?」
俺は耳を澄ませた。
チャプン、チャプン、と、水が壁に当たる音しかしない。
「違う……もっと、奥で……ゴポゴポ、って……。水の下で、誰かが『息を殺してる』……。たくさん……」
ノアが、俺の背中に顔を埋めた。
「……待ってる。僕たちが、水に入るのを、待ってる……」
その言葉が、俺たちの背筋を凍らせた。
ケンジが、懐中電灯の光を、水面の奥、闇の中へと向ける。
その時、光の輪が、一瞬だけ、水面に浮かぶ『何か』を捉えた。
それは、瓦礫ではなかった。
腐敗ガスでパンパンに膨れ上がり、水面に浮かぶ『地雷』と化した、『デッド』だった。
一体じゃない。二体、三体……。
光に反応し、そいつらが、ゆっくりと、こちらに顔を向けた。
「「「――ッ!!」」」
リッキーが、声にならない悲鳴を上げた。
「……フローター(浮遊死体)か……!」
ケンジが、絶望的に吐き捨てた。
水の中は、奴らの巣になっていたのだ。
ノアが言った通り、俺たちが水に入るのを、奴らは「待って」いた。
(詰んだ)
進むも地獄、戻るも地獄。
完全に、袋のネズミだ。
ケンジが、壁に拳を叩きつける。
アシュリーも、マイクを抱えたまま、崩れ落ちそうになるのを必死で堪えている。
俺は、バールを握りしめ、必死で、別の道を探した。
その時、
「……イーサン……」
ノアが、俺の服を引っ張り、水面ではなく、『上』を指差した。
「……あそこ……」
俺が、懐中電灯で、ノアが指差す天井を照らす。
そこには、俺たちの頭上、5メートルほどの高さに、古びた鉄製のキャットウォーク(保守用通路)が、錆びた姿を晒していた。
水没したホームの、さらに上。天井の配管を点検するための、細い鉄の道。
だが、そこへ上がるためのハシゴは、途中で腐り落ちて、俺たちの手から3メートルも上にある。
「……届かない」
ケンジが、即座に否定した。
「絶望的な高さだ。俺一人ならまだしも、マイクとノアを抱えて、あんな場所にどうやって上がる!」
「……ううん」
ノアが、首を横に振った。
「……あっち……」
ノアが指差したのは、俺たちが来たトンネルの壁だった。
そこには、水没を免れた、わずかなコンクリートの足場があり、その奥に、古びた配電室の、錆びた鉄の扉があった。
「……あそこから、上がれる……。金属の音が、する……たぶん、階段かなにか……」
ノアが、壁の向こうの音を、聞いている。
「……わかった。ノアを信じる」
俺は、ケンジに言った。
「ケンジ、扉を頼む。アシュリーは、マイクを」
ケンジは、一瞬ためらったが、もはや、この10歳の子供の『耳』に賭けるしかなかった。
「……わかった。リッキー、サラ、援護しろ!」
ケンジが、扉にバールを突き立てる。
「グルルル……!」
水面の『デッド』たちが、俺たちの声に気づき、ゆっくりと、ホームによじ登ろうと、水しぶきを上げ始めた。
「早くしろ、ケンジ!」
「わかってる!」
ガアン! と、凄まじい金属音を立てて、錠前が破壊された。
ケンジが扉を蹴破る。
ノアの言った通りだった。
そこには、上階へと続く、狭い螺旋階段があった。
「アシュリー、マイクを先に行かせろ!」
「リッキー、サラ、二人でマイクを押し上げろ!」
「イーサン、殿だ! 奴らを近づけるな!」
ケンジが、ギルドマスターの顔に戻り矢継ぎ早に指示を飛ばす。
俺は、ノアを階段に押し込むと、扉の前でバールを構えた。
「グルアアア!」
ぬめった腕がホームにかかり、一体目の『デッド』が這い上がってくる。
「うおおおおっ!」
俺は、そいつの頭部にバールを叩きつけ、水の中へと蹴り落とした。
その間に、アシュリーたちが、マイクの体を必死に階段へと引きずり込んでいく。
「イーサン、今だ!」
アシュリーの声。
俺は、階段に飛び込み、ケンジと二人で、鉄の扉を力任せに閉めた。
ドン! ドン!
扉の向こう側で、『デッド』たちが、肉を求めるように鉄を叩く音が響く。
「……ハァ……ハァ……!」
俺たちは、狭く、カビ臭い階段で、荒い息を繰り返した。
「……ノア。また、お前か」
ケンジが、螺旋階段の暗闇を見上げながら、ノアに言った。
「……お前が、俺たち全員を助けた」
「……うん」
ノアは、俺の手を、強く握り返した。
螺旋階段を登り、錆びた鉄の扉を開けると、俺たちは、ノアが見つけた、あのキャットウォークに出た。
幅は、大人一人がやっと。
眼下には、俺たちの立てた音で興奮し、無数の『デッド』がうごめく、黒い水面が広がっている。
「……落ちるなよ」
ケンジが、ここで自らマイクを背負い直し、先頭に立った。
俺たちは、一列になり、壁に背中をこすりつけながら、鉄の軋む音に肝を冷やし、ゆっくりと、その死の川に架かった、一本の錆びた糸を渡り切った。




