第17話:揺れる火、束の間の輪
最初にして最大の危機をノアの『耳』が救ってから、丸一日が経過した。
昨日の失態がよほど堪えたのか、リッキーは、まるで贖罪でもするかのように、サラと一緒になってアシュリーに手を貸した。
悪態をつく彼女を半ば強引に説得し、マイクの体を交代で支えながら、俺たちはこの一日を歩き続けた。
だが、そのマイクの容態は、誰の目にも限界だった。
地下の闇に時間感覚が麻痺する中、俺たちは二度目の夜を迎えていた。
比較的開けた、古い車両基地のような空間で、短い休息を取っている。
ケンジが、どこからか見つけてきた錆びたドラム缶の中で、乾いた木片やゴミを燃やしていた。
パチパチと火の粉が爆ぜ、俺たちの疲弊しきった顔を、不規則に照らし出す。
この地獄の底で、火は、暖房であり、唯一の光源であり、そして、かろうじて俺たちを『人間』の集団として繋ぎ止める、原始的な『輪』だった。
俺たちは、そのドラム缶を、互いの表情が読み取れるギリギリの距離で囲んでいた。
言葉は、ない。
聞こえるのは、火が爆ぜる音と、遠いトンネルの奥から響く反響音。
そして、この集団が抱える『時限爆弾』が刻む、不吉な秒針の音だけだった。
「……う……ぁ……」
マイクだった。
アシュリーの膝に頭を乗せ、横たわっている彼の体は、毛布を何枚もかけているのに、小刻みに痙攣していた。
噛まれてから丸二日が経過し、その熱はもはや隠しようがなく、荒い呼吸が彼の喉を苦しげに行き来している。
アシュリーは、ただ黙って、マイクの汗で濡れた髪を、何度も、何度も、優しく指で梳いていた。
その横顔は、薬局で俺を睨みつけた『ワル』のそれではなく、ただ祈るしかない女の脆さをしていた。
サラが、そのマイクの様子を、自分の唇を噛み締めながら見つめている。
看護学生としての無力感が、彼女の肩を重く圧していた。
リッキーは、火から一番遠い場所で膝を抱え、ひたすら床のコンクリートを見つめている。
昨日の『デッド』の巣への恐怖が、まだその瞳に焼き付いているようだった。
俺は、自分のジャケットをノアの肩にかけ直し、熱で温まったペットボトルの水を、ゆっくりと弟の口に含ませた。
ノアは、火の光に少しだけ安心したのか、こくりとそれを飲み下したが、その視線はすぐにマイクの方へと引き寄せられていた。
その、張り詰めた沈黙を、最初に破ったのは、ケンジだった。
「……ノア、と言ったか」
ケンジは、火の向こう側から、俺ではなく、俺の隣に座るノアに、静かに問いかけた。
黒縁眼鏡の奥の瞳が、ランタンの光ではなく、揺れる炎に照らされている。
ノアの肩が、びくりと震えた。
「昨日のあれだ」
ケンジは、折れた看板槍の先で、ドラム缶の縁をコツン、と叩いた。
「『鉄の匂い』と『虫の音』。……あれは、一体何だったんだ。お前には、本当に、あの崩落の向こう側が『見えて』いたのか?」
リアリストであるケンジからの、あまりにも直接的な質問だった。
彼は、自分の理解を超える現象を、リーダーとして、分析しようとしている。
ノアは、怯えたように俺の後ろに隠れた。
俺は、ノアの背中をさすりながら、代わりに答えた。
「……見えてたんじゃない。聞こえてたんだ、こいつには」
「聞こえてた……だと?」
「ああ。昔、家族で旅行に行った帰り、ハイウェイで道に迷ったことがあったんだ。カーナビも壊れて、父さんが焦ってる時、こいつが……後部座席で地図を見ながら、父さんが見落とした、遠くの、文字が欠けた標識のこととか、ガソリンスタンドの屋根の色とかを全部覚えてて……結局、こいつの言う通りにしたら、無事に家に帰れた」
「……異常な記憶力……『サヴァン』の一種か」
ケンジが、納得したような、しないような顔で呟いた。
「それだけじゃない。病気でベッドにいることが多かったから、耳が、良すぎるんだ。俺たちには聞こえないような、遠くの音を拾う」
「……それで、あの『デッド』の巣を……」
ケンジは、息を呑んだ。
この10歳の、病弱な子供が、自分たちの命を救ったという事実を、ようやく咀嚼しているようだった。
「すげえ……」
それまで沈黙していたリッキーが、顔を上げた。
「マジかよ……ノア、お前、すげえ! やっぱり超能力者じゃん……!! お前がいれば、俺たち、助かるんじゃねえか!?」
「そ、そんなの、違うよぉ……!」
ノアが、その期待の重さに耐えかねたように、必死に首を横に振った。
「聞こえただけ……怖かっただけ……」
「リッキー、怖がらせちゃだめよ」
サラが、リッキーを窘め、ノアに優しく微笑みかけた。
「ありがとう、ノア。あなたのおかげで、私たちは助かったわ。本当に、ありがとう」
その、純粋な感謝の言葉に、ノアは戸惑ったように、再び俺のジャケットに顔を埋めた。
サラが、ふ、と息をつき、その視線を火に戻した。
「……でも、不思議ね。私たちも、昨日今日で集まったわけじゃないのよ」
「え?」
俺が聞き返すと、サラは、少しだけ懐かしそうな目をした。
「私たち、大学が違うの。私とケンジとリッキーはマンハッタンの私大だけど、アシュリーとマイクは、ブルックリンの市立大」
「じゃあ、なんで一緒に……」
「ネトゲーよ、ネトゲー!」
リッキーが、さっきまでの怯えが嘘のように、少しだけ声を弾ませた。
「世界的に流行ってるMMO! 俺たち、同じギルドの仲間だったんだぜ!」
「リッキー。声がでかい」
ケンジが、即座に制止する。
だが、その口元も、ほんのわずかに緩んでいるように見えた。
「ケンジが、俺たちのギルドマスターでさ。いっつも『リッキー、突っ込みすぎだ!』『そこは俺の指示を待て!』って、ゲームん中でもうるさくてさ!」
「お前が、いつもレアドロップ欲しさに突っ込んで、パーティを壊滅させるからだろうが」
ケンジが、眼鏡の奥からリッキーを睨む。
それは、この地獄では初めて見る、ただの『友人』の顔だった。
「サラは、もちろんヒーラーね。俺たちがどれだけボロボロになっても、必ず立て直してくれる、俺たちの女神なんだぜ!」
「ちょっと、リッキー! やめてよ!」
サラが、顔を赤らめてリッキーの肩を叩く。
「じゃあ、アシュリーは?」
俺は、火の向こう側で、膝のマイクをただ見つめているアシュリーに視線を送った。
「アシュリーは……」
リッキーが、炎の向こうの彼女を見て、一瞬、声を潜めた。
「……ウチのギルドの、最強のアタッカー。あいつがいたら、大抵のボスは瞬殺だった。……なあ?」
リッキーが、同意を求めるように、アシュリーに声をかけた。
アシュリーは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、マイクから離れ、揺れる炎を見つめている。
「……そうね。私が、前に出すぎて、よくマイクに怒られてた」
その声は、驚くほど静かだった。
「マイクは、いつも私の後ろ。タンク(盾役)か、ヒーラー(回復役)で。私が無茶して削られたHPを、文句言いながら回復してくれてた……。ゲームでも、現実でも、ずっと……」
アシュリーの手が、マイクの頬を、そっと撫でる。
「……こいつが、私を、見つけてくれたんだ」
「見つけた?」
「私は、昔……かなり、荒れてたから。ブルックリンでも、札付きのワルで、誰も近寄らなかった。……でも、こいつだけ。マイクだけが、私を『ワル』じゃなく、ただの『アシュリー』として見てくれた。……こいつに釣り合う人間になりたくて、必死で勉強して、同じ大学に入ったんだ」
アシュリーは、俺たちにではなく、炎の向こうの闇に語りかけるようだった。
「マイクは、私の『光』だった。……今も、そうさ」
その言葉が、ドラム缶の火よりも強く、熱く、この冷たい空間を焦がした。
マイクが、アシュリーにとって、どれほどの存在か。彼女が、なぜ、マンハッタン(未来)ではなく、ブルックリン(現在)を選んだのか。
その理由が、痛いほどに伝わってきた。
再び、沈黙が落ちた。
今度は、ケンジが、俺を見た。
「……イーサン。お前たちは、どうするんだ」
「え?」
「俺たちは、ブルックリンに着いたら、マンハッタン橋を目指す。そこにある軍の検問所が、最後の希望だ。……だが、アシュリーは、ブルックリンで離脱する。……お前たちは、どうする。俺たちと来るか?」
それは、リーダーとしての、確認だった。
俺は、ポケットの奥深く、父さんの血でゴワゴワになった、あの絵手紙の感触を確かめた。
「……俺たちも、そこを目指す。父さんの、最後の命令だからだ」
「父親の?」
「ああ。父さんも、そこならまだ組織が機能してて保護してもらえるはずだって言ってた。でも……」
俺は、言葉を切った。
「……もし、軍もダメだったら……俺たちは、アラスカに行く」
「アラスカ!?」
リッキーとサラが、同時に素っ頓狂な声を上げた。
ケンジも、さすがに驚いた顔をしている。
「……ニューヨークから、アラスカ? 正気か」
「……父さんの、弟が、いるんだ。アラスカに。これが、その住所だ」
俺は、血塗れの手紙そのものは見せず、ポケットを叩いた。
「途方もない、話だな」
ケンジが、吐き捨てるように言った。
「……ああ。でも、前に進むしかない。俺は、こいつを、守ってくって決めたから」
俺の決意に、ケンジは、それ以上何も言わなかった。
ただ、火を見つめ、小さく頷いた。
その時だった。
「……ゲホッ……! ゴホッ……!」
マイクが、激しく咳き込んだ。
水っぽい、嫌な咳だ。
「マイク! しっかりして!」
アシュリーが、彼の体を抱き起こす。
「……さむ……い……。アシュリー……すごく、寒い……」
高熱で沸騰しているはずの体が、「寒い」と訴えている。
サラが、マイクの目元を懐中電灯で照らし、その瞳孔が、光に鈍くしか反応しないのを見て、息を呑んだ。
「……ダメ……意識が、混濁し始めてる……」
「くそっ!」
アシュリーが、マイクの手を、自分の頬に押し当てる。
「死ぬな、マイク! お前は、私を置いていかないって約束しただろ! 聞こえんのか!」
「……ああ……きこえ、る……」
マイクは、朦朧としながらも、鋼のような気力だけで、アシュリーの声に反応した。
「……おまえの、こえ……あったかい……」
その言葉を最後に、マイクは、張り詰めていた最後の気力さえ尽きたように、ぐったりと目を閉じた。
だが、呼吸は、まだ続いている。
彼は、まだ『人間』として、アシュリーの腕の中で、戦い続けていた。
誰も、眠れなかった。
俺とケンジは、交代で火の番と、トンネルの闇の見張りに立った。
俺は、バールを握りしめ、闇の奥を見つめながら、考えていた。
(……ブルックリンまで、あと一日。マイクは、持つのか……?)
父さんが母さんを撃った、あの瞬間。
あの、ためらいのない引き金。
俺は、ケンジに「俺がやる」と約束した。
だが、マイクの、あのアシュリーを見つめる目を見て、俺は、父さんと同じことができるだろうか。
ドラム缶の火が、弱々しく揺れた。
その光が、俺の隣で、いつの間にか眠りに落ちていたノアの、汚れた寝顔を照らしていた。
俺は、自分が羽織っていたユーティリティジャケットを、ノアの体に、そっとかけ直した。
この火が消える前に。
マイクの『人間』としての火が、消える前に。
俺たちは、ブルックリンにたどり着かなければならない。
俺は、バールを強く握り直し、三日目の朝が来るのを、ただ、待っていた。




