第15話:人間の時間
カチリ、と。
地下鉄のホームに、乾いた金属音が響いた。
……最悪の音だ。
この黴臭い暗闇の底で、俺が聞きたくなかった、たった一つの音。
ケンジが構えた拳銃の、撃鉄が起こされる音。
その黒い銃口は、アシュリーに抱きかかえられたマイクの、脂汗に濡れた額に、寸分の狂いもなく向けられていた。
「……どけ、アシュリー」
ケンジの声は、氷点下だった。
感情というものが一切、削ぎ落とされている。
リーダーとしての冷徹な「判断」だけが、その黒縁眼鏡の奥で不気味に燃えていた。
「何……言ってんの……?」
アシュリーは、虚ろな目でケンジを見上げた。
さっきまで『デッド』をマチェットで斬り伏せていた戦士の面影は、そこにはない。
ただ、自分の「光」が消えかけている現実を受け入れられない、一人の女がいた。
「そいつは、もう助からない」
ケンジは、仲間ではなく、『脅威』を見定める目で続けた。
「それはお前が一番わかってるはずだ。その傷は、サラの応急処置でどうにかなるものじゃない」
「ああ……神様……」
ケンジの言葉が、とどめだった。
ランタンの光の中で傷口を覗き込んでいたサラが、ついに顔を覆って泣き崩れる。
看護学生としての知識が、マイクに残された時間がないことを残酷なまでに証明していた。
「やめろ……やめろよ、ケンジ……!」
リッキーが、壁際まで後ずさり、腰を抜かしたまま首を振った。
「まだマイクだろ! なあ、俺たちの仲間だろ!」
「そうだ! こいつはまだ生きてる! 温かいんだぞ! わかるか!?」
アシュリーは、マイクを庇うように立ち上がり、再びマチェットをケンジに向けた。
「馬鹿言うな!」
ケンジが怒鳴り返す。
銃口はマイクに固定したまま、殺意にも似た視線だけがアシュリーを射抜く。
「温かい? 当たり前だ! 『デッド』に変わる瞬間が一番熱が出るんだよ! そいつのせいで、俺たち全員がここで死ぬ気か!」
「だったら……だったら、私があんたを殺す!」
「やってみろ! だが、お前が俺を殺すのが早いか、俺がこいつの頭を撃ち抜くのが早いか!」
一触即発。
仲間同士が、殺意を剥き出しにして睨み合う。
サラとリッキーの嗚咽だけが、この地獄のBGMだった。
俺は、ノアの肩を抱き寄せたまま、バールを握り直した。
ノアは、俺が渡したパイプレンチを、失神しそうな顔で握りしめている。
俺の目的は終わったんだ。 ノアの『息《薬》』は手に入れた。
こいつらが、この先どうなろうと、知ったことか。
俺は、ノアと西へ行くだけだ。
父さんの命令を、果たすだけだ。
(……そうだ。関係ない。勝手にしろ)
俺は、自分にそう言い聞かせた。
だが――俺の足は、コンクリートに縫い付けられたように、動かなかった。
ケンジの銃口。
アシュリーのマチェット。
マイクの、噛まれた足。
――パンッ!
脳内で、忌まわしい銃声がフラッシュバックする。
父さんが、母さんを撃った、あの音。
あの時、父さんはためらわなかった。
なぜだ?
母さんが、もう「母さん」じゃなかったからだ。
母さんが、ノアを食い殺そうとする『デッド』に、完全になり果てていたからだ。
(……じゃあ、こいつは?)
俺は、マイクを見た。
彼は、アシュリーの腕の中で、激痛に顔を歪め、荒い息を繰り返している。
だが、その目は、まだ濁っていない。
まだ、人間の目だ。
ケンジが、引き金に指をかけた。
アシュリーが、マチェットを振りかぶる。
その、すべてが終わる、0.1秒前。
「――やめろよ」
俺の声は、自分でも驚くほど、低く、冷たく響いていた。
大学生たちの視線が、一斉に俺――12歳のガキに突き刺さる。
「……何よ、ガキ……」
アシュリーが、苛立ちを隠さずに呟く。
俺は、ノアの肩から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
バールを引きずり、ケンジとアシュリーの、その殺意のど真ん中に、割って入った。
「どけ、イーサン。お前には関係ない。弟を連れて、向こうへ行ってろ」
ケンジが、俺の肩越しに銃口を向けたまま言った。
「関係なくない」
俺は、ケンジの銃口を、真正面から睨み返した。
「……こいつは、まだ『人間』だ」
「は……?」
ケンジの眉が、わずかに動いた。
「『デッド』じゃない。まだ、人間だ。……あんたが今撃とうとしてんのは、人間だ」
「こいつは脅威だ!」
「今は違う!」
俺は叫んだ。
「今は、ただの『噛まれた人間』だ! 『デッド』とは違う!」
「同じことだ!」
「違えよ!」
俺は、バールの先端で、冷たいコンクリートの床を叩いた。
「噛まれたって、すぐには『デッド』になんかならない!」
ケンジの目が、俺を捉えた。
「……何だと?」
「俺は、見たんだ。俺の母さんも……噛まれた。でも、三日……三日は、『人間』だった。熱を出して、苦しんで……それでも、まだ、俺の母さんだった……!」
アパートで噛まれた母さん。
熱にうなされ、それでも俺たちを心配していた母さん。
そして、パトカーの中で、父さんの目の前で、ノアに襲いかかった、あの瞬間の――
「……数日は、かかるんだ。そいつが、本当に『デッド』になるまでは……!」
俺は、ケンジの目を、逸らさなかった。
「あんたが今こいつを撃ったら、それは、ただの人殺しだ。苦しんでる仲間を、殺すだけだ」
「……」
ケンジの、銃を持つ腕が、ピクリとも動かない。
彼のリアリズムと、俺が突きつけた「人間としての境界線」。
俺の、12年間の体験が導き出した「数日の猶予」という事実。
その二つが、激しく衝突していた。
「……じゃあ、どうしろって言うんだ」
ケンジが、絞り出すように言った。
「こいつが『変わった』瞬間、真っ先にアシュリーが殺されるんだぞ。それとも、お前が責任取ってくれるのか」
「……ああ」
俺は、即答していた。
「俺が、やる」
「「「え……」」」
ケンジだけじゃない。
アシュリーも、サラも、リッキーも、全員が俺を見た。
「『変わる』まで、待て」
俺は、バールを握り直した。
「『変わった』、その瞬間に。……俺が、こいつの頭を叩き割る」
俺は、アシュリーを見た。
「あんたの仲間が、まだ人間でいられる時間を、稼いでやる。……その代わり、『変わったら』、俺が殺す。……それなら、文句ないだろ」
それは、この地獄で許される、唯一の妥協案だった。
ケンジの「脅威の排除」という論理と、アシュリーの「まだ人間だ」という愛情。
その、どちらも満たす、たった一つの方法。
アシュリーは、何も言えなかった。
ただ、その目から、涙が止めどなく溢れ、床に落ちていく。
ケンジが、俺を数十秒、値踏みするように睨み続けた。
やがて、彼は、ゆっくりと銃の撃鉄を戻した。
そして、銃口を下ろした。
「……わかった」
ケンジは、アシュリーから目をそらし、俺に言った。
「……リミットは、そいつが『変わる』までだ。……もし、お前がためらったり、失敗したりしたら。その時は、俺が、お前ごと、二人まとめて撃つからな」
ケンジは、銃をホルスターに戻しながら、冷たく言い放った。
「……ああ」
俺は、バールの重みを確かめた。
俺が、やる。
父さんがやったことを。
俺が、この手で。
それが、ノアの『息』を手に入れた、俺の代償だった。
ケンジが、銃をホルスターに戻しかけた、その時だった。
「……待って」
ケンジの言葉を遮ったのは、アシュリーだった。
彼女は、マイクの傷口を、自分の着ていたパーカーの袖を引きちぎって、きつく縛り上げていた。
その目から、涙は消えていた。 残っていたのは、すべてを諦めたような、それでいて、すべてを決意したような、硬い光だった。
「二人とも、ありがとう」
彼女は、俺とケンジを交互に見た。
「二人には……そんな重荷を背負わせない……私は、私達は……マンハッタンには、行かない」
「――アシュリー?」
サラが、泣き濡れた目で彼女を見上げた。
「ケンジ。あんたの言う通りよ。マイクは助からない。……そしてイーサン。あんたの言う通り、こいつはまだ『人間』よ。……だから、私は決めた。マンハッタンには、行かない」
「何を馬鹿なことを言ってる!」
ケンジが、思わず彼女に詰め寄った。
「俺たちの計画を忘れたのか! この地下を通ってブルックリンに出て、そこから地上を抜けてマンハッタン橋を渡る! それが一番安全なルートだ!」
「だから、その計画通りよ」
アシュリーは、ケンジの言葉を冷静に受け止めた。
「計画通り、ブルックリンまでは、あんたたちと一緒に行く。……この地下道なら、一日か二日……かかるんでしょ」
「ああ、だが、それがどうした!」
「ブルックリンまでよ。ブルックリンで地上に出たら、私は、あんたたちと別れる。……マイクと、二人きりで」
アシュリーは、マイクの額に滲んだ汗を、優しく拭った。
「――ッ!」
ケンジが、息を呑んだ。 サラも、リッキーも、言葉を失う。
「……無駄死にだ。ブルックリンの地上は、ここより酷い地獄だぞ! 噛まれたそいつを連れて、お前一人で、何ができる!」
「……わかってる」
アシュリーは、ふ、と笑った。
それは、この地獄で初めて見る、アシュリーの穏やかな笑みだった。
「……マイクが、『人間』でいられる時間。たぶん、それが、この一日か二日。……この地下トンネルを抜けるまでが、私とあいつの、最後の『人間の時間』なのよ」
彼女は、マイクが人間として死ぬための場所を探すと言っているのだ。
マンハッタン(未来)ではなく、ブルックリン(現在)で、彼との最期を選ぶ、と。
「やだ……やだ、アシュリー!」
サラが彼女にすがりついた。
「そんなの……私たち、友達じゃない!」
「友達だからよ、サラ」
アシュリーは、サラの頭を優しく撫でた。
「あんたは、ケンジとリッキーと、検問所に行きなさい。あんたは、生きなきゃダメ」
「だが、アシュリー!」
ケンジが、なおも食い下がろうとする。
アシュリーは、彼を遮るように、マイクのそばに座り込んだ。
マイクの荒い息だけが、ホームに響く。
彼女の意志は、鋼のように硬かった。
重い、重い沈黙。
ケンジは、拳銃をホルスターに戻すと、壁を思い切り殴りつけた。
「……くそっ!」
こうして、俺たちの奇妙な集団は、二つの「時限爆弾」を抱えることになった。
一つは、いつ『デッド』に変わるかわからない、マイクという存在。
もう一つは、「ブルックリンでの離脱」という、グループの決定的な分裂。
俺は、ノアのそばに戻り、背負っていた食料のリュックを降ろした。
マイクとアシュリーが集めた、カロリーバーとペットボトルの水。
俺は、その中から一本を取り出し、ノアに渡した。
「飲め。……すぐに出発する」
ノアは、こくりと頷いた。
その目は、アシュリーとマイクの二人を、不安そうに見つめていた。
俺は、ノアの視界を遮るように、彼の前に座り込んだ。
ノアの『息』を手に入れるために、俺は地獄の薬局に飛び込んだ。
その結果、俺は、二人の大学生の「最期の時間」を、この手で守る(・・)という、新たな約束を背負い込んでしまった。
(でも……途中でもし変わってしまったとき……そのときは俺が……)
父さんの形見のリボルバーとは違う。
俺が握るバールは、今、アシュリーとマイクの運命を、重く、重く、背負っていた。




