第14話:光と代償
薬局から、俺たちはゴミが散乱する薄暗い路地裏へと転がり出た。
強烈な腐臭が鼻を突き、遠くで『デッド』の唸り声が響く。
「……ハァ……ハァッ……!」
アシュリーが自分のリュックを背負い直し、マイクのリュックを俺に放り投げる。
とっさに身構えたが、受け取ったそれは拍子抜けするほど軽かった。
「食料だ。……たいして残ってなかったけどね。それでも、こいつが命がけで集めたモンだ」
アシュリーは、血反吐を吐き出す代わりに、苦々しい現実を吐き出すように言った。
マイクは、アシュリーの肩にぐったりと全体重を預け、苦痛に顔を歪めている。
その太ももは、アシュリーが応急処置で縛ったTシャツの上からでも、じわりと赤黒く染まっていく。
噛まれた。
俺の脳裏に、母さんの腕を覆っていたガーゼが、あの腐った匂いと共に蘇る。
こいつは、もう助からない。
「……行くぞ」
俺は、二つのリュックを背負い直した。
一つは、今受け取った、命の対価にしてはあまりに軽い食料。
そしてもう一つが、ノアの小さなリュックに収めた、五箱もの『吸入器』。
ノアの『息』。
俺が、ここで手に入れたすべてだ。
「待ちな」
アシュリーが、マイクを支えながら壁に背を預けた。
「『デッド』が集まってきてる」
彼女がマチェットで指した路地の出口。
「……グルル……アア……」
薬局で立てた音に引き寄せられたのか、路地の出口には、さっき俺が地上に出た時よりも多くの『デッド』が集まり始めていた。
その数、10匹、いや20匹は下らない。
俺たちが入ってきた駅のシャッターまで、わずか30メートル。
だが、その距離が絶望的に遠い。
「……くそっ……!」
アシュリーが、マイクを庇うようにマチェットを構え直す。
だが、マイクを抱えたままでは戦えない。
「アシュリー……」
マイクが、震える声でささやいた。
「……俺を、置いていけ……」
「馬鹿言うんじゃないよ!」
アシュリーが、マイクの言葉を遮る。
「サラがいる! サラなら、あんたの傷を……!」
「……もう、わかるんだ……足の感覚が……熱い……」
(――手遅れだ)
俺は、リュックのストラップを握りしめた。
俺の目的は終わった。
この薬をノアに届ける。
それだけだ。
こいつらを見捨てて、俺一人で走れば、あのシャッターにたどり着けるかもしれない。
『俺を裏切るなよ』
『あんたがここで死んだら、私も詰むだろ!』
薬局でのやり取りが、脳を焼く。
ちくしょう。
(さっき、こいつは俺を助けた。だから……)
俺は、覚悟を決め、アシュリーとマイクの前に立った。
「何よ……先に行くなら行きな。弟が待ってるんだろ」
「俺が、道を作る。あんたは、そいつを引きずってでも、シャッターに走れ」
「正気かい! あの数、どうやって……!」
「――行くぞ!」
返事を待たず、路地裏から飛び出す。
一番近くにあったゴミ箱の金属製のフタをひっ掴み、それを、道の向こう側のアスファルトに、ありったけの力で投げつけた。
ガシャアアアアン!
金属音が、地獄に響き渡る。
『デッド』たちの腐った頭が一斉にそちらを向いた。
ほんの数秒。 奴らの注意が、俺たちから逸れる。
「――今だ! 行け!」
俺は、一番手前にいた『デッド』の膝裏をバールで殴りつけ、体勢を崩したそいつを突き飛ばす。
「マイク! 走るよ!」
アシュリーが、マイクの腕を引っ張り、ほとんど引きずるようにしてシャッターへと走り出す。
マイクが、噛まれた足を引きずり、苦悶の叫びを押し殺す。
遅い!
「グルアアア!」
音の発生源に獲物がいないと気づいた『デッド』が、即座に俺たちへと向き直る。
まずい、鈍重な二人に追いつかれる!
「くそっ、こっちだ、このクズども!」
俺は、バールで近くの放置車両のボンネットをガンガンと強打し、アシュリーたちとは逆方向――路地の奥へと駆け込んだ。
案の定、俊敏な俺に反応した数匹が、鈍重な二人から標的を変え、俺を追ってくる。
俺は、路地を塞ぐように放置された、錆びたセダンの下へと一気に滑り込んだ。
12歳のガキだからこそ可能な、アスファルトを背中で擦るような低い姿勢。
「グルル……アア……!」
俺を追ってきた『デッド』が、車の下の暗闇を覗き込み、腕をねじ込もうと足掻く。
俺は、車体の下をゴロ寝で移動し、反対側のタイヤの陰からバールの先端を突き出した。
そいつの腐った足首を、体重を乗せて貫く。
「グガアアア!」
『デッド』が奇声を上げ、その場に倒れ込む。
その体が、後続の『デッド』の邪魔になった。
「こっちだ、こっち!」
俺は、車の下から、さらにアスファルトをバールで叩き、音を立てて奴らのヘイトを稼ぎ続ける。
その間に、アシュリーたちがシャッターにたどり着く。
よし、時間は稼げた!
「イーサン! 早くこっちに来な!」
アシュリーが叫びながら、シャッターの隙間に手をかける。
だが――
「くそっ、開かない! 何か詰まってる!」
ガチャガチャと金属を揺らす、焦った音。
この地獄では、その音こそが最悪の呼び水だ。
車の下で俺を掴もうとしていた『デッド』たちが、より確実な獲物がいるシャッターの方へと、再び向きを変え始めた。
(まずい……!)
俺は、車の下から転がり出ると、シャッターに向き直った『デッド』たちの背中に突進した。
「お前らの相手はこっちだ!」
一体を突き飛ばし、もう一体の頭を殴る。
だが、キリがない。
アシュリーとマイクが、二人分の体重をかけてシャッターをこじ開けようと必死になっている。
「うぐっ……あああああっ!」
マイクが、負傷した足に力を込めたせいで、激痛に叫び声を上げた。
その声が、路地の奥から最後の『デッド』まで引き寄せる!
「開いた!」
アシュリーが、マイクの体をシャッターの隙間に強引に押し込んだ。
「イーサン、今だ!」
「――行け!」
俺は、背後から迫る『デッド』の胸をバールで突き飛ばし、その反動を利用して自らもシャッターの隙間へと滑り込んだ。
アスファルトに背中をこすりつけ、転がり込む。
その直後、ガシャン! と、俺のブーツがあった場所を、無数の『デッド』の手が掴み、シャッターを激しく叩いた。
「……ハァ……ハァ……!」
地下鉄の暗闇。
カビと埃の匂い。
生きて、戻ってきた。
「おい、嘘だろ! 本当に戻ってきたのか!」
暗闇の奥から、ランタンの光と共に、ケンジたちの声がした。
ケンジ 、サラ 、リッキーが、銃やパイプを構えて駆け寄ってくる。
「……ああ、よかった……アシュリー、マイク! それに、イーサンも!」
サラが、俺の無事を見て安堵の声を上げた。
だが、俺は、サラたちの横をすり抜けた。
俺の目的地は、一つだけだ。
「……ノア!」
ランタンの光が届かない、ホームの隅。
そこに、ノアはいた。
俺のジャケットにくるまり、壁際で小さく丸まっている 。
「……イーサン……? けほっ……げほっ……!」
ノアが、俺の姿を認め、苦しげに咳き込む。
「待ってろ、今……」
俺は、リュックから『吸入器』の箱をひったくると、そのプラスチックのL字管を弟の口にねじ込んだ。
「吸え! ノア!」
プシュッ!
薬液が噴射される。
「――かっ、ヒュウッ! ……けほっ、ごほっ……」
ノアが激しくむせ返り、そして、深く、深く、空気を吸い込んだ。
さっきまでの、死にかけの笛のような音じゃない。
確かな『呼吸』の音だった。
「……イーサン……くるし……けど、さっきより……」
「喋るな。息だけしろ」
俺は、ノアの小さな背中をさすった。
全身の力が、抜けていく。
助かった。
俺が、こいつを、殺さずに済んだ――
「――ああ、神様。マイク……!」
その時、背後で、サラの絶叫が響いた。
俺は振り返った。
ランタンの光の中心で、サラがマイクの足元に崩れ落ちていた 。
「ひどい……これ、どうしたの……!」
看護学生である彼女は、マイクの傷口を一目見て、すべてを理解した。
それは、治療可能な「怪我」ではない。
人間の歯形。
まごうことなき、『デッド』の咬み傷。
「……あ……あ……」
リッキーが、その傷を見て、腰を抜かした 。
「……嘘だろ……マイク……」
アシュリーは、マイクを抱きしめたまま、ただ「ごめんね……ごめんなさい、マイク……」と、壊れた人形のように繰り返していた 。
重い沈黙が、地下鉄のホームに落ちた。
その静寂を、冷たい金属音が破った。
カチリ。
ケンジだった。
彼は、何も言わなかった。
ただ、その黒縁眼鏡の奥の瞳から一切の感情を消し、銃口を、 ――ゆっくりと、マイクの頭に向けた。
「……ケンジ?」
アシュリーが、虚ろな目でケンジを見上げる。
「……どけ、アシュリー」
ケンジの、氷のように冷たい声が響いた。
「……何……言って……」
「そいつは、もう助からない」
ケンジは、仲間ではなく、『脅威』を見定める目で続けた。
「ここで、俺たちが、終わらせる」
「――やめてよ!」
アシュリーが、マイクを庇うように絶叫した。
さっきまでデッドを叩き斬っていたマチェットを、今度は、仲間であるはずのケンジに向かって構える 。
俺は、ようやく呼吸を取り戻したノアの肩を抱き寄せ、バールを握り直した。
地獄の地上から戻ってきた俺たちを待っていたのは、安堵ではなかった。
光の輪の中で始まった、仲間同士の、新たな地獄だった。




