プロローグ:託されたもの
「ハァッ…ハァッ…!」
焼けつくような痛みが、肺から喉までを逆流してくる。
もう、とっくに限界だ。
冷たい豪雨が、割れたアスファルトを叩きつける。
その音だけが、耳の中でしつこく反響している。
でも、止まれない。
止まるわけには、いかない。
握りしめたノアの――10歳の弟の手は、氷みたいに冷え切っていた。
「イーサン…もう、むり……」
か細い声が、雨音に溶けて消えそうになる。
やめろ。そんな声を出すな。
背後。
濡れたコンクリートを、何かが『引きずる』音。
シャッ……シャ……。
耳障りな摩擦音。
そして、腹の底から絞り出すような、低い唸り声。
その音は、確実に数を増しながら迫ってくる。
ニューヨーク。
父さんと母さんが死んだ、この街。
四人で笑いあった日々も、俺が「ノアなんていなければ」と最低の呪いを吐いた記憶も、全部ここに染みついている。
そんな思い出の街は、今や『デッド』と呼ばれる――奴らの狩り場に変わってしまった。
「ノア! 走れ! わかったか、絶対に足を止めるな! あのビルの角までだ!」
俺は12歳の細い腕で、弟の体を無理やり引っ張った。
だが、ノアが、ついにアスファルトの上に膝を折った。
もともと病弱な弟の体力は、休みない疾走と恐怖で、もうカラッポだった。
「もういいよ……どうせ、助からないんだ……」
「馬鹿言うな! 早く立て! 立つんだ、ノア!」
「やだ……もう歩けないよ……ママ……パパ……」
弟の瞳から、光が消えていく。
その絶望が、俺の心臓を何よりも強く、直接握り潰した。
(ちくしょう……!)
路地の向こう側から、5体、6体……いや、もっと多い。
ずぶ濡れになったオフィスワーカーの残骸。
配達員の制服を引きちぎったやつ。
どいつもこいつも、濁った眼球を俺たち二人に向け、飢えを隠さない。
口を開けながら、ゆっくりと、だけど確実に距離を詰めてくる。
一歩、また一歩。
腐った肉の匂いが、雨の匂いに混じって鼻を殴った。
「どうする…」
俺はジャケットの下、ベルトに差し込んだ父さんの形見に手を触れた。
S&W M10リボルバー。
冷たく、重い鉄の感触。
シリンダーの残弾は、五発。
ここで使うか?
馬鹿か。
こんな路地裏で音を立てれば、周囲からさらに多くの『デッド』を引き寄せる。
この路地は行き止まりじゃない。
でも、次の通りが安全だなんて保証はどこにもない。
だけど、使わなかったら?
こいつらは、動きこそ遅いが、絶対に諦めない。
ノアはもう歩けないんだ。
こいつを抱えて逃げ切れる距離じゃない。
「ヒッ…く…うぅ…」
ノアが泣き崩れた。
その小さな背中が、俺の頭の中にこびりついていた「あの頃」の記憶の蓋を、容赦なくこじ開けた。
――ああ、そうだ。
ほんの数週間前まで、俺たちは……。
こんな地獄とは無縁の、「普通の家族」だったはずなんだ。




