噛み付く猫よ
我が猫は噛み付く猫である。
それはもうよく噛む。
よく走り、よく遊び、よく眠り、よく食べ、そして私をよく噛む。
犬には歯垢取り用のガムがあるが、猫のものは寡聞にして知らない。が、あえて言おう。私は同居する猫に「俺は猫ガムじゃねぇのよ」としみじみ語り掛けるぐらいには高頻度で噛まれていると。
彼が私に噛み付くパターンについてはバリエーションが豊富である訳だが、まず最も多いのは撫での果ての噛み付きである。
彼は何故だか腹を撫でられ揉まれ捏ねられるのが好きなタイプの、ちょっと変わった猫である。
共に暮らす猫は彼が初めてであるため断言するだけの根拠がないのだが、インターネットで見る限りは「腹に触ったら殺す」というタイプの猫が多数派のようだ。
しかし、我が家の猫は腹を撫でられるのが好きであり、なんなら撫でをカツアゲしてくるため、ここの差異については割愛する。単なる好みであろうから。
まず、座椅子に座っているところからそれははじまる。
彼はおもむろに、座っている私の横からニュッと現れる。
そして、くすぐったく感じるほどの強めの鼻息を膝に当てるのである。
猫よりも嗅覚が鈍感でありマズルを持たぬ人間としては「えっ、な、なんすか? この人間の膝になんかあるんですか?」となって一旦立ち上がる。
スピーディーに席を奪われる。
まず、彼は座椅子の上に立ち、ピンと尻尾を立てる。
尻トントンをせよとの要求に応え、叩くとゴロンと倒れ伏し、そのままグリンと腹出しになって、流れるような自然さで腹撫でをカツアゲするという巧妙な手口を駆使している。
撫での徴収は熾烈である。
猫は二十四時間営業でかわいい。
とはいえまあ、現実にはそこそこの頻度でブサイクな顔の時もある。薄めを開けて寝ている時などはブサイクだ。しかし「かわいい」という単語にはを愛おしさ」という成分も含有されているため、広義の意味で常にかわいいのである。
猫が日々提供してくれるかわいさ、その代償として人間は撫でを納めてこそフェアである、ということであろう。
私はこれを「納税」と読んでいる。
我が家だけの語彙であるが「撫で税」と呼称しており、今年に入ってからとみに撫で税が高い。
以前は一日に家族でトータル15ふん程度撫でれば満足してくれていたのだが、最近になって、家族全員がそれぞれ別な時間帯に15分ずつ撫でを納税していることが判明。俄に撫で税の負担爆増が発覚するというセンセーショナルなニュースが食卓を席巻した。
我が猫は前世が税務署の職員であったのだろうかと疑いの眼差しを向けざるを得ないほど、撫での徴収に対して厳しい。
「そういえば、あなた今日、可愛い私を撫でていませんでしたよね? このかわいい私を」と言わんばかりの態度で、夜中トイレに起きた家人の前に立ち塞がり15分の撫でを徴収したという事件さえ起きている。
子猫の頃から毎日常に「かわいい」と誉めそやしていた弊害が出ている可能性が高いが、彼は御歳11歳。人間に換算すると60歳であるため、カワイイを自認する還暦を矯正するのは最早不可能であろう。
話が逸れたが、その毎日の撫でのラストは常に、噛み付きで終了する。
彼は撫でられて心地よくなると、あはんうふん、とクネクネし始め、急にガブリガブリと人の手に強めの甘噛みをお見舞いするのである。
噛まれる人間である私はひとたまりもなく、この野生み溢れるビーストを前に無様な悲鳴を上げるしかなく、平和なお茶の間は瞬時にジュラシック・パーク。私はさしづめ、ヴェロキラプトルに捕食されるモブである。
だが、これは猫の習性であり、愛撫攻撃性衝動、という名称の行動で、おかしなことではないらしい。
要するに愛しさ余ってしまうと噛み付きたくなるらしく、理由を知った時には「なるほどね」と深く納得したものだ。
何故なら、猫に噛まれるのは私だけだからである。
他の家族は噛まないが、私だけが噛まれているのである。
つまり最も愛されているという証明が成されている訳だが、猫の愛は時間を選ばない。
数日に一回は夜中の2時とか3時に足の指や足の甲を噛まれている。
これは愛撫攻撃性衝動とはまた別で、夏場においては「なんか暑くて不愉快でイラつくぜ〜〜!」という、完全なる八つ当たりである。
歴としたドメスティック・バイオレンスだが、しかして猫にそのような道理がわかる筈もない。完全室内飼いの彼にとって、不愉快な出来事は全て人間の所業であると認識しており、それはあながち間違っていない。
なので、夏場は速やかにエアコンの設定温度を下げるのだが、下げたら下げたで縦に広がりを見せた状態で人間にぺっとりと、面積全てを活かしてへばりつきながら寝る癖があるため、またしても暑くなれば私は再度噛まれるのである。その場合、二度めは大抵朝5時ごろであることが多く、そういった日は仕事にやや支障が出ている。
が、NHKの番組で知ったところによると、猫の脳味噌はクルミぐらいの大きさしかないらしい。
クルミぐらいしかない脳味噌で、色々考えているのであるから、これはもう生きているだけで大したものであろう。
別なパターンとしては、やはりこれも夜中なのだが、眠りの浅い時にピンポイントで足の親指を噛まれることがある。
その場合、猫は私の足の親指を「はむ」と咥える。
可愛らしいソフトタッチだが、その先の展開を知っている身としては恐怖の始まりである。
そこから、猫はだんだん、じわじわと、少しずつ噛む力を強めているのである。
こちらは当然、強くガブリガブリとやられるのだろうかと恐怖に怯え、身じろぎもせず心臓をバクバクさせるしかない。
ここで「なにしてんの?」と電気をつけたり起き上がったりしてはいけない。
その瞬間にかなり強めに噛まれるからである。
最適解は狸寝入りを完遂すること。
さも「寝ていますよ」といった様子で呼吸を整えジッとしていると、猫は諦めて口を離す。
しかし、寝たふりが下手くそだと「お前、起きているな……?」とガブリガブリと足首までホールドして猛然と噛み始めるのである。
これに関しては目的が不明だが、恐らくは彼なりの遊びであるのだろう。
軽くホラー体験なのでやめてほしい。
が、そんな噛み猫の彼にも慈悲はある。
爪は絶対に立てないし、顔には噛み付かないというルールがあるらしく、猫吸いは禁じられていないのだ。
これには原因があり、彼がまだ片手の上に乗れてしまうほど小さい仔猫だった頃、私にじゃれるつもりでコタツのテーブルを乗り越え飛び掛かったところ、目測を誤って激突。私の唇に牙が刺さってしまって出血、という事件があった。
その際に、彼は仔猫なりにも「やらかした」と思ったのかカチンコチンになって、そのあと、傷痕をサーリサーリと舐めてくれたのである。
依頼、私はこれまで一度も顔を噛まれたことがない。
ないのだが……相変わらず、手と足はでっかい猫ガム扱いである。
ああ、猫よ。人の喜びと試練よ。