第61話:対岸のひと_3
「はっきりしつつも、詳細はぼんやりしている方がちょうど良い」と言わんばかりに、クルシュはあり得そうな話を前面に押す。
書記官はうむ、と頷き、最後の欄に『通行可』と記した。
「通行を許す。ただし、人間領内での辛度上限は中堅まで。それ以上は、こちらの命が危ない」
「了解。……ねぇ、試してみる?」
「いっ、いや! 遠慮しておく!」
「うふふっ、そう? じゃあ、この一番甘いのをあげるわ」
その場にいた人間たちに、子ども用の飴を数粒渡す。人間領では食べられない味に、一同は頬を緩ませて「ありがとう」と礼を言った。口に頬張り、美味しそうな顔をしている。
そして、一度取り出した最大の殻さの飴を、ミリアはもう一度箱に預けた。ばくん、と内部に迎え入れて、箱は満足げに吐かない。
通過直前、兵のひとりがミトスを見て呟いた。
「……『勇者返還』の噂、本当なのか」
ミトスの背筋に冷たいものが走る。言い返しかけた瞬間、鈴が一度制するように鳴った。
クルシュが指で合図――静観。ミトスは器の箱の縁を撫で、呼吸をひとつ吐いた。
「返すものは、何もありません」
「そうか、これは失礼なことを言ったようだ。申し訳ない」
「いえ、問題ありません。お仕事、頑張ってくださいね」
「あぁ、良い物をありがとう。午後もこれで頑張れそうだ」
「何より、です」
「よい旅を」
兵は一瞬何か言いたげな顔をして見せたが、結局それ以上は何も言わなかった。
箱がその空気をすうぅっと吸った。やはり、吐かない。イェレナはにんまりと、嬉しそうな顔をしている。
日が傾き、古い橋の手前の小広場で野営をすることに決めた。襲われる心配はない。仮に襲われたとしても、このメンツではまず誰も勝てないだろう。
焚き火に小鍋、食料として持参したパンと、干し肉と辛味を蜂蜜で落としたスープ。
花の音色は夜の鈴に切り替えられ、とろりと甘い音で周囲の闇を和らげてくれる。
「のう、ミトス。門をくぐるのは、怖いかのう?」
イェレナが背中合わせに座り、尻尾でミトスの腰をちょんと突く。
「……ちょっとだけ怖いよ。でも、何か変わったところがあるか、それは見ておかないと。あと、私が呼ばれた理由も」
「うむ。よい答えなのじゃ」
ミリアが『燃えない火の飴』をひとつ渡す。
「言いすぎそうになったら噛むといいわ。辛い言葉はきっと、この飴が絡めとってくれるもの」
「うん、ありがとう、ミリア」
ガァトは『抱ける壁』を寝床代わりに広げ、皆の後頭部を優しく支える。
「壁、ここで力を発揮するとは思わなかった」
「ホントにそうね。明日、きっとまた出番がくるわ。人間領の椅子は硬いから。そうでしょう? ミトスちゃん」
「えぇ、本当に」
寝る前、クルシュが短く確認を取る。
「明朝の隊列は『ウィル、ソリン、ミトス、クルシュ、ミリア、ガァト、イェレナ』の順で。私は、その先頭に立ちます。鈴一度で集合、二度で静観、三度は退避。門前の言葉の刺は、箱がに吸わせましょう。吐きそうなら、飴を。剣は方向だけ決めておいてください」
「了解」
ミトスは寝台代わりの外套に潜り、家の味の音に耳を澄ました。怖いは半分。楽しいも半分。その半分ずつを胸に抱えて、眠りに落ちる。
――翌朝。
人間領の城下町が見えてくると、屋根の色が整然と並び、石畳が硬い音を返した。
門前には列。商人、旅人、侍女。兵たちは槍を地に突き、無表情で列をさばいている。
その目は、冷たい。
けれど、それは見慣れた冷たさだった。不安に思うことはないと、ミトスは胸骨の内側で呼吸をひとつ整える。
「魔王領より来訪いたしました。招待状の提示をここに」
クルシュが封書を差し出し、ウィルが半歩前に立つ。
兵の視線が、ウィルの金の瞳にあたって逸れる。それでも、列の後ろからひそひそが立つ。
「勇者……」
「返還……」
「魔族……」
ぴゅうぅぅぅ。
箱が吸う。吸う。吸う。吐かない。「いい子」と、ミトスが箱の蓋を優しく撫でる。
「手土産を検分する」
別の書記官が現れ、荷台の布をめくろうとする。
ソリンの指がそっと布の端を押さえ、視線だけで壁の位置を示す。ガァトが一歩出て、笑顔。威圧ではない。包容の笑顔。
書記官の手が自然に止まり、クルシュが目録を差し出す。
「お待ちください、順に開示します。上からまいりましょう」
鞘布、書記具、辛味皿、壁。器箱は最後。
「これは?」
「家です」
ミトスは昨日と同じ答えを置く。
書記官はしばし黙り、そしてこくりと頷いた。――『可』。
列の脇で、子どもがこちらを見ていた。ミトスが目を合わせ、こっそり『燃えない火の飴』を指で見せる。
子どもは首を横に振り、代わりに小さく手を振った。胸の奥が温かくなる。
門がぎいと開く。
石の匂いが変わる。冷たい空気の奥、光が、ほんの一瞬だけ揺れた。痛いほど懐かしい、でも今の街には無い光。
ミトスは一瞬だけ足を止め、すぐに歩みを戻す。そこへ、ウィルが半歩寄った。
「怖いなら、言え」
「……うん、怖い。――でも、行く」
「あぁ、行こう」
器は朝の鈴を立て、鞘布は抜かない影を壁へ細く落とし、辛味皿は外側へ置かれるのを待ち、壁は椅子に装着される日を夢見ている。
箱は吸うだけ。
そして――吐かない。
いざ、人間領の城内へ。
自分の『家』を背負って、入る。
この街の真ん中で『私』の居場所を増やすために。




