第59話:対岸のひと_1
朝霧が川面でほどけ、渡し場の杭に結ばれた綱がとん、とんと水の拍に合わせて揺れていた。
荷台には、昨晩選び抜かれた手土産が、クルシュの手による完璧な目録とともに並ぶ。
「出発前点検――壺と箱は?」
クルシュの声に、全員が一瞬固まる。
「……留守番のはずなのじゃ?」
イェレナが明らかに目を泳がせながら、くるくると尻尾を回転させている。その様子を見て、ガァトがまさかと荷の影を覗き込み、申し訳なさそうに手を上げた。
「……その、なんだ。箱が、いる」
「何で!?」
「そ、そのぉ……更生プログラムを出張で……なのじゃ」
「それはちょっと……勇気が過ぎるわね」
ミリアが額を押さえる。流石に、悪気なく悪口を吐いてしまう箱を、他の手土産と一緒には扱えないからだ。
箱はぴゅーと控えめに鳴き、反省しているふりをした。ふりだと全員が理解した。悪気がないのだから、そこに反省もない。
「仕方がありません。積載ルールを再確認いたしましょう」
クルシュが板に白墨で番号を書く。
「一、重い物は下。小さい壁、それから器になりたるものは底面固定。二、こぼれる可能性がある物は密閉――食べ物ですね。それから、インク。三。――言葉がこぼれる物は口を縛る」
「箱のことなのじゃな? ……さては今作ったな?」
「まさか、ここにいるとは思いませんでしたから」
「そうね。箱は言葉を吸うだけの状態に、切り替えてもらえないかしら? できるわよね、イェレナ」
「むむ、致し方ない」
イェレナが箱の裏蓋を開け、ぽん、と一つ破裂魔法を放った。小さな光と、小さな音。
「これで大丈夫のはずなのじゃ」
「本当?」
「理論上は」
「理論上……」
ウィルが舟の縄を受け取り、荷台をぐっと押し上げる。
「乗れ。――今日は一気に関所まで行く。城門は明日だ」
「了解。……ところで、何で船なの? 飛んでいけばいいのに。ドラゴンに乗っていくとか、境目の直通の門を通るとか」
「中には、それを敵意だと捉える人間もいる。始まる前に終わらせるわけにもいかないからな」
「それは確かに」
舟のへりに腰を下ろすと、川風が頬を撫でる。渡し守が竿を押し、舟底が水を切る音がしゃり、しゃりと軽く続く。
ガァトが抱ける壁を背もたれ代わりに抱えると、壁の方が安心しているように見えた。
「変なの。壁が落ち着くなんて」
「壁も緊張するもんだ」
「うーん、それもそうね、職場初日ってことでしょ? 可愛いのね、壁って」
ミリアが肩をほぐす。
「渡し守よ、朝の花の音を舟に一滴混ぜるのじゃ」
イェレナが花をひとつ舟首に置き、芯を軽く回す。
からりと高い鈴のような音。舟板の調子が少し整い、渡し守が「乗り心地がよくなった、ありがとう」と目を細めた。
「便利ね」
「そうじゃろ? 音は舵なのじゃ」
――その時だった。
ぴゅー。
明らかに舟内から、控えめな不穏な音が響く。
「……今、誰か悪口になりたる言葉を言った?」
全員が箱を見る。箱はパカパカと蓋を開け閉めし、誇らしげにその場にたたずんでいる。
「私言ってないよ!」
ミトスは勢いよく両手を振る。
「かっ、風が! 持ち込んだのじゃ!」
イェレナが皿で風をすくい、鼻をひくつかせる。
「向こう岸から残念なお言葉がが流れてきたのじゃ!」
「箱ちゃんにとって、最悪の環境だったりして……?」
ミリアが苦笑いしている。
「ずっと、吸っておけばいいんじゃないかな?」
ソリンがぼそりというと、箱は健気にすーっと吸い続けた。
――三秒、四秒、五秒。
そして、一言も吐かない。
「やればできる子!」
「そうなのじゃ! やればできる子なのじゃ!」
ミトスとイェレナに褒められて、箱は嬉しそうに蓋をかたかたと鳴らした。その反動で一言、あまり上品ではない言葉が漏れる。
「あ」
「ふっ、不可抗力なのじゃ……」
箱はかたりと音を立て、表面の色を変えてぴたりと止まった。
舟が川の真ん中に差しかかったとき、岸影から小舟がぬるりと出た。荷を積み、櫂が音を立てない。
クルシュが目だけで合図する。
「無音の櫂です。逃げはしませんが、こちらを測っているのでしょう」
「それならば測らせてやろ。見せたいものだけ、だがな」
ウィルは舟の中央に立ち、荷台の上段――鞘布・書記具・飴――をわざと見せ、器箱は布で半分隠す。ミリアが器の芯をとん・とんと軽く叩き、音を舟べりに回してあくまでも普通であると、その匂いを強めた。
無音の小舟は一度だけこちらの縁をなめるように回り、しばらくして流れに乗って離れていった。
「こちらの手の内を見られた、ということなのかしら?」
「あくまでも自ら見せた分だけ、ね。だから、ミトスはそんなに心配しなくていいよ。後は勝手に、相手側が妄想してくれる。そんなもの、いらないのにね」
ソリンは優しい声で爽やかに答え、あっという間に舟は音もなく対岸へ着いた。
――砂利の街道に車輪のぎゅ、ぎゅという律動が加わる。道端の草は背が低く、日の光がほどよく差していた。
ミトスにとって、久し振りの人間領の日の光。懐かしい……と言えるほど日通は経っていないが、それでも魔王領に馴染んだ身にとって、それは何年も昔に見たような、眩しい光だった。
ガァトは先頭で道の石をどかし、ミリアは後方で蜂蜜瓶の蓋の緩みをチェックする。クルシュは歩きながら目録を更新し、ソリンは周囲の丘の影を測る。
イェレナは荷台の上で箱を抱えて座り、箱は大人しく、どこか遠くから飛んできた言葉を『吸うだけ』。
ウィルとミトスは、その後ろを、警戒しながら歩いていた。目線は目の前に、耳は周囲に。




