第54話:招かれる客_2
――会議が散ったあと、花の和音は夜の高さに落ちた。回廊は石の冷たさを残しつつ、灯の色で柔らいでいる。誰かの『とん、とん』と足音が控えめに返る。
ウィルが隣にいた。いつもの半歩、近い距離。差し出さず、奪わず、そこにある手。
「ミトス、もし嫌なら、行かなくても構わない」
彼は立ち止まり、正面から言う。
「招待状は礼の形をしているが、明らかな遠慮のない押しだ。そんな無礼な押しに、わざわざ丁寧に押し返す必要はない」
「……ううん、私は行きたいの」
言葉は、思ったより早く出た。
「今度は、自分の足で門をくぐって、『置いてきたものはない』って、自分で分かるようにしたい。私の居場所は、もう人間領じゃない、魔王領なんだ、って」
ウィルは目を細め、息を一つ吐く。
「わかった。俺は隣で、帰り道を整えるだけだ」
「うん。それで十分よ、ありがとう」
「あぁ」
庭の灯りが風に二度揺れ、胸の奥で不安と喜びが半分ずつ音を立てた。
その後の武具庫。
ソリンは磨かれた剣を前に、柄の重心を何度も確かめていた。
「そんなに触ってると、刃が照れて曲がっちゃうわよ?」
ミリアが棚に腰かけて笑う。
「曲がらないよ。……でも、もしアレが来たら、ケンカになっちゃうかもね。僕の刃と、彼の刃と。今は気持ちの悪い眩しさをしてるから」
「じゃ、アタシはその気持ちの悪い眩しさを、無視する笑顔を練習しておくわ」
「それは普段から得意じゃないかい?」
二人の軽口が、金属の冷たさをちょうどよく温めた。
そして、厨房裏。
ガァトが器を包む藁と布をせっせと用意していた。
「割れたら悲しい。帰る器は壊しちゃいけない」
「壊れそうで怖い」
「大丈夫よ。紐はこの結び。荷運びでも解けないよ」
ミトスが手本を見せると、巨大な指が器用に真似して、ぴたりと結び目が落ち着いた。
「おお……確かにこりゃあ解けない。解けないと、安心が違うな」
「うん。結構簡単でしょ?」
包みが積み上がるたび、胸の中の点が増えるみたいに、落ち着きが広がっていった。
最後に書庫。
クルシュは王城の図面に糸を渡して、最短から順に『家へ繋がる』道を、三色で描き分けていた。
「家に帰れる道は、距離だけで決まるものではございません。混雑・視線・灯り……全部ひっくるめてようやく、です」
「そうじゃのう。器は三つ。広間、控え、寝台の側……でよいな」
イェレナが金の輪を鳴らし、紙に丸印をつける。
「朝の芯は薄明かり、夜は濃い蜜。蜂蜜屋の音を少し混ぜるのじゃ」
「それ、きっと売れるわよ?」
ミリアがひょいと顔を出し、笑って去っていく。
「すべて終わったら売るのじゃ!」
――準備を入念に迎えた渡河前夜の食堂は、家族の集まりみたいな空気で包まれていた。
香草のスープ、白パンに蜂蜜、柔らかいチーズ。ガァトが見繕った肉に、ミリアの持ち寄った果実。
皆、普段より少し静かに食べ、少し多く笑った。
「向こうで、行きたい場所は?」
ウィルが何でもない顔をして、ミトスに聞いた。
「えっと……本屋さん、かな。あと、橋。上から川を見るの、好きなの」
「屋台は?」
「そうだな……折角だから焼き菓子とか」
「よし、順に回ろう」
「そんなに時間あるの?」
「なくても作る」
確実な約束ではないのに、優しさと頼もしさが混じる。
隣で、イェレナがこっそり頷いた。
「そうなのじゃ、時間は作るものなのじゃ」
食後、クルシュが短く告げた。
「連絡の合図は三つ。鈴一度は集合、二度は静観、三度は退避。それぞれ皆様に響くよう、手配いたします」
ミトスは首飾りの銀糸を指でつまむ。家族の印。私の、家族。――胸が少し軽くなった。
寝る前に、ミトスは風を吸いにテラスへ出た。城下の灯りが点々と並び、遠くで港の鈴が二度鳴って聞こえる。
「眠れそうか?」
「……眠れると思う。多分」
「多分は眠れない合図だらおう」
ウィルがまるで共犯のような笑い方をして、手すりに肘を置いた。
「不安ならば、言え」
「不安……ないわけじゃない。でも、みんながいるなら……」
「私たちはお前の味方であり家族でもある。遠慮はいらない」
「……嬉しい。そうよね、家族、家族……」
言ってみると、胸の奥でぱちと灯りが強くなる。
「城のみんなと行けるから。……それに、私、あの門をくぐって、ちゃんと家に帰ってくるって、言えるようになりたい」
「言える」
ウィルは短く断言した。
「言えるように、私たちがいる」
ウィルの手に、ミトスは迷わず自分の手を重ねた。
――寝台の脇に、イェレナが置いた小さな器がある。火を入れずとも、口縁が『家へ帰る』鈴を低く保っている。
ミトスはその側に座り、靴紐を解く。今日は自分の手で解いて眠りたい。目を閉じると、今日の音がゆっくり通り過ぎる。
封書の擦れる音。大広間の笑い。剣布のさやさや。器の鈴。全部混ざって『私の家』になる。
不安は半分。楽しみが半分。――半分ずつ抱えて眠りに落ちた。
――夜が明け、鳥が二度鳴き、花の鉢が朝の高さへ和音を上げる。
廊下の遠くで、ガァトの小さなくしゃみ。厨房からは焼きたてのパンの香り。武具庫ではソリンが最後の点検。書庫でクルシュが地図を畳み、庭でミリアが肩を回し、イェレナが器を袋に納める。
扉を開けると、ウィルがいた。
いつもの距離。
「――行こう」
「うん」
胸の内側で、拍が一つ整う。
城門の外は渡し舟へ続く道。見送りの列は、誰も『気をつけて』とは言わない。
言う代わりに帰り道の灯りが並ぶ。
家である魔王領をを背負って、人間領へと一歩踏み出す朝。
怖さよりも、優しさからなる道の匂いのほうが濃かった。
ミトスは心の余白を確かめ、ウィルの隣で一歩、踏み出した。
押しに押し返さず、灯りで進む。
まずは、川を渡る。
そして、必ず、ここへ帰ってくる――と。




