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魔王♂は勇者♀を溺愛したい-捨てられ勇者、魔の地で家族ができました!-  作者: 三嶋トウカ
【第一部】第三章:羽根と約束

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第52話:灯りの深い拍_2


 その時、外からざわりと人の波が崩れる音がした。

 水車の拍が乱れ、歯車が一瞬空回り、羽根がぐらりと傾く。

 ウィルの目が細くなる。


「侵入者がいるようだな。形は不明だが……いこう」


 ――橋のたもと、人だかりの真ん中で、男がふらついていた。

 腕は力なく下がり、目は白く、口は『唱和』の残骸を吐いている。手にはかぎ。川から流れものを引き上げる道具。

 彼の足元で、灯りの籠が一つ倒れ、子どもが泣きそうな顔で立ち尽くしている。

 砂糖の匂いが、香りだけ強く鼻を刺した。


「人を下げろ!」


 ウィルの指示が橋全体に届き、商人と旅人が素早く左右へさばける。

 ガァトが背中で子どもを隠し、ミリアが柵を蹴って飛び越え、ソリンが男の背の死角を取る。

 イェレナは花鉢を橋の両端に置き、金の輪で基準音を立ち上げた。


「ミトス、いけるのじゃ?」

「いける」


 橋桁の影が、川面の反射で細かく揺れていた。

 ミトスはその揺れを呼吸の数に変える。三・五・三。

 男の鉤が、反射で目をくらませるように振り上がる。

 光に、押しは乗りやすい。ミトスは、半歩遅らせる。刃は抜かない。

 鞘の腹で、男の手首の延長線へ当てて、逃がす。

 鉤の軌道が一つ、空へ外れ、石の欄干をカンと叩いて軽く跳ねた。花の音がそれに重なり、拍が戻る。


 男の口が『唱和』の欠片をまた吐く。


『導きは正しく――』

「違う。ここの言葉は、もっと優しい」


 ミトスは灯りに向けて歌う。男にではない。倒れた籠の側で小さく震えている器に向かって。

 唱和は器を緊張させる。灯りは、器を抱く。

 花が真ん中で揺れ、籠の灯がふわと戻る。

 器の安心が周りへ波紋になって伝わり、人垣の肩から余計な力が抜ける。


 男は最後の惰性で鉤を構え直した。

 ソリンが背から圧をかける――だが、押さえつけない。

 ミトスは回り込み、帰り道を指で指す。橋の下、暖かいスープの香りがする方角。

 男の白濁した目に、わずかに色が戻る。

 喉の奥でからんと詰まっていた『唱和』が崩れ、呼吸がふっと落ちた。

 鉤は石の上に滑り、硬い音で止まる。


 静寂。

 それから、太鼓屋がどこからともなく現れて、トン・トンと軽い二拍を入れた。

 人々の胸がそれに合わせて上下し、泣きそうだった子が涙を引っ込める。

 イェレナが橋の欄干に登り、尻尾をひと振り。


「のう、人間の人。帰って、温いものを飲むのじゃ。押しは喉を乾かすが、灯りは腹を満たすのじゃ」


 男の肩が落ち、膝が笑い、目尻に汗が滲む。

 ガァトが片手で支え、ミリアが短い罵声で未練を追い払った。

 危害を加えるための『唱和』は、破壊ではなく拍で終わった。


 橋の反対側で、布を被った小柄な影が、ひゅと角を曲がって消えた。

 エアリルは一瞬だけ視線をそちらへ送る。


「……大変、舟の音だ」

「舟?」

「川上の作り手。無音の櫂。場の拍が戻った瞬間に、逃げたね」


 ウィルが顎で合図し、クルシュが駆ける。

 しかし、影はもう、風と匂いだけを残して遠ざかっていた。


 ――夕刻前、川沿いの紙倉の裏庭。

 積まれた古い木箱の間に、小舟の櫂が一本、立てかけられていた。

 握りの部分に、百合ではない印。山冠と細い線――古都の文様。

 港でも川でもない気配が残っていた。

 クルシュが手袋越しに櫂を持ち上げ、木目を読む。


「無音の櫂。水を切らず、押さない角度で進むための削り」

「押さない、で進む。――いやな皮肉ね」


 ミリアが舌打ちして笑い、イェレナが尻尾で同意の拍を打つ。


「そろそろ、時が来るだろう」


 ウィルが皆の視線を集める。

 声は大きくない。けれど、川風より重い。


「港と礼拝堂跡に灯りの点を常設する――灯りの紐を川沿いまで延ばす。他は様子を見ながら待機。――剣は、必要な時のみ。方向だけを整える」


 太鼓屋が短い三拍を鳴らし、みな頷いた。

 街の約束は、こうして増えていく。


 夕暮れ、礼拝堂跡。

 四隅の花鉢は今日一番低い和音を保ち、境界は人の呼吸と同じ高さに落ち着いている。

 ミトスは台座から半歩下がった位置に立ち、ランタンの火を覗いた。

 一人じゃないと告げる炎は、今日もよく燃える。

 ウィルは隣――半歩近い距離で、掌を上に向ける。差し出すでも、掴むでもない。そこにある手。

 ミトスは迷わず指を重ね、短く息を吐いた。


「……ありがとう」

「こちらこそ」


 同じ言葉で、余韻は違う。

 今日は、明日への余韻。


 風が一度、花の香りを運ぶ。

 その風を裂くように、足音が一つ。

 エアリルだ。


 銀の髪は夕陽を一度だけ跳ね返し、すぐに薄闇へ溶ける。

 彼は境界の線で立ち止まり、ミトスとウィルに視線を分け合った。


「あの流れだと、さらに上……山へ行くなら、道は二つ。川沿いの緩やかな道と、古い巡礼路。足腰も強くないだろうから、緩やかな方を選ぶと思うよ。――ボクは巡礼路を行く」

「一緒に?」


 言葉が、胸からそのまま出た。

 エアリルは、ほんの少しだけ目尻を緩める。


「途中で会うことにしよう。ボクは先に追いかける。そっちは、囲んでからくればいい」

 

 ――途中。


 エアリルの口から放たれた言葉。これは未来形の約束ではなく、現在の継続になる。


「怖いか?」


 ウィルがいつもの声で、いつもの場所から言う。


「ううん。誰がこんなことをしているのか、知りたい」

「私もだ」


 境界の花が祝意を一度鳴らし、港の方角で鈴が二度、遅れて応えた。

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