第51話:灯りの深い拍_1
陽の光が町を包むころ、川沿いの風は港の塩気よりも冷たくて、紙の繊維に指を差し込むように乾いていた。
古い橋桁の影をくぐるたび、水面が光を割って、鱗のような破片を石畳へ投げかける。
上流へ向かうほど家並みは低く、倉と工房の屋根ばかりが目立つ。紙倉の黒塗りの扉には「防火」の札が等間隔に貼られ、鼻先には膠と澱粉糊の匂いが薄く残っていた。
今まで回ってきた線も点も、全ては内に向けて整った。誰かが外から、この場所を崩そうとしているのは確かだ。
こんな動きは見られなかった。見られるようになったのは――ミトスが魔王領へやってきてから――だ。
悪意も善意も、全ては彼女に向いている。
「……ボクの手は必要?」
ふと屋根の上を見上げると、エアリルが立っていた。
「手を、貸してくれるんですか?」
「あっちよりも、この魔王領のほうが面白そうなんだもん。みんな、ボクに期待するだけしておいて、都合が悪くなるとぽいって捨てちゃうし」
「お前の言うことは信用できない」
ウィルがミトスを後ろに下げた。
「そんなこと言わないでよ。ボクだって、それなりに強いんだよ? 知ってるでしょ? 元勇者が二人揃ったら、楽しいと思わない?」
「食えぬヤツは敵に回すより、味方にしておくことが賢明じゃ」
「わかってるじゃん!」
イェレナが口を挟む。
「お主は知っておるんじゃろ? 誰かがミトスに危害を加えようとしておることを」
ミトスはピクリと身体を振るわせて、心配そうにウィルを見た。
「……知ってるよ。でも、ボクからは言えないんだ、契約でね。効力が強いことはわかってるでしょ?」
「こちらが先に暴けば?」
「その瞬間効力は切れる。ボクは晴れてソイツを好きなようにできるってわけだ」
エアリルはそう言いながらニコニコと笑っていたが、目の奥には冷たい光が宿っていた。
「簡単に裏切るでないぞ?」
「わかってるよ。ついていって良いよね?」
「……好きにしろ」
エアリルを加えて、蔵の様子を探る。幾つか見て回り、お目当ての場所を見つけた。
「のう、ここじゃな? 浅い砂糖の匂いは紙からもするのじゃ」
イェレナが尻尾を立て、扉に耳を当ててからチリンと輪を鳴らす。
応じるように、倉の内側で低い音が跳ねた。器物の心が、来訪者を測る音だ。
「入る」
ウィルが短く言い、番人の老人と視線を交わす。老人は僅かに身を引き、鍵束を差し出した。
冷たい空気が流れ出し、紙の山が、無数の静かな魚群のように並んでいる。
束の端を指でなぞると、指腹に水に強いインクが細い線で付いた。
クルシュが帳簿を開き、拍を刻むように頁を繰る。
「寄付の名は無い。……だが、搬入の頁にだけ同じ手の癖が残っている」
「親の手じゃな」
イェレナは紙束の間に小さな花鉢を置き、息の隙間に歌を落とした。
『押しは嫌い、灯りは好き』
『側にて待て、一人にならぬ』
紙の繊維が微かに膨らみ、薄く塗られた香料が偽物の甘さを吐き出す。
「なるほどなるほど。香りで誤魔化しておる。甘さの層が薄いのう。腹に残らぬ匂いなのじゃ。慣れておらんのう」
「だからあの唱和はすぐに息切れした」
ミトスは港の報せを思い出し、胸の奥で一つ頷く。
「印刷所は川を一つ上がった先だ。――動こう」
ウィルの声が、倉の冷気を切る高さで落とされた。
外へ出ると、水面を渡る風が衣の裾を押し、橋の石に拍を打つ。
持ち込んだ主と、その親を探すために向かう。全てわからなければ、罰も下せない。
人間領の誰かなのはわかっている。藻泥の男は下っ端。エアリルは知っているが、彼自身は親を使ってはいない。
エアリルは終始、倉の梁や紙の吐息を眺めていたが、扉が閉まる瞬間にだけ静かに言った。
「紙は、誰にでも言い訳ができる。――歌は、できない」
その一言が、今日の拍を決めた。
印刷所は、川に面した古い水車小屋を改装したものだった。
羽根がとん・とん・とんと拍を刻み、歯車が油の匂いを温く回す。
刷り台の上には百合十字の亜種――港で見た赤印の親型に似た影が、布で半分覆われていた。
「ご用件は?」
出てきたのは痩せた男で、指先の爪にインクの黒が沈着している。眼差しは穏やかすぎて、温度を持たない。
クルシュが礼をし、事務的に帳合を求める。
男は躊躇なく帳簿を出した。出さないより、出す方が安全だとわかっている手つきだ。慣れている。
頁の端で紙片が一枚、はらりと滑り落ちる。
ミトスが拾い上げると、そこには短い一文だけが印刷されていた。
『導きは正しく、疑いは悪』
薄い。浅い。喉に残らない活字の並び。
イェレナが鼻で笑って、花鉢を刷り台にそっと載せる。
「のう、器よ。嘘は嫌いじゃろ?」
チリン。
花の和音が、刷り台の木に潜った押しの匂いをはじき出した。
甘い砂糖の香りがむわりと立ち上がり、刷り台自身が『疲れた』と小さく軋む。
「親型は誰が持ち込んだ?」
ソリンの声は静かに硬い。
男は肩をすくめた。
「知りません。依頼主は施食小屋連名。搬入は川舟で、夜明け前に」
「舟の印は?」
「無印。……でも、漕ぎ手はうまかった。音を消していた」
エアリルが一歩近づき、刷り台の端を指先で軽く叩く。
水車の拍がそれに答え、歯車の重さが半拍だけ沈む。
「物は、上で作られているんだって。――ここよりさらに上みたいだよ」
川上のさらに奥、山の影が一度だけ風で濃くなる。




