第50話:潮騒と祈りの鎖_3
その帰路、古い井戸のある裏通りで、金属のぶつかる甲高い音が弾けた。続いて、噛み千切られたみたいな短い悲鳴。
――身体のほうが先に走っていた。
路地に飛び込むと、焦点のない目をした人間の男が、短剣を振り回して魔族商人を追い詰めている。口元は動くのに意味がない。「『善行』『導き』『正しい道』」――言葉の破片がカラン、カランと地面に落ちて砕ける。
「まだ間に合う」
ミトスは鞘に触れた。金属の冷たさで、胸の速さを一拍落とす。
三・五・三。
身体にもう馴染んだ歌う呼吸が先に動き、足の裏が石の粗さを拾う。
「無茶はするな」
ウィルの声は止める音色をしているのに、ミトスを支える場所を先に用意している。
「うん。歌でほどく。剣は、方向だけ」
男の鼻先から、微かな泡が立っては消える。空の祝詞に触れた者の押しの善意の残り香。目は見ていない。見せられている。
――正しい道。
それが、目の前の灯りの紐――市場へ繋がる帯――だと思わされている。
ミトスは男の斜め前へ、当て逃がしの半歩で入る。刃は抜かない。鞘の腹で、空気の壁を一枚すっと撫でる。歌は短く、『一人じゃないよ』の一節。
押しの線が一拍ぶんだけほどけ、男の肩から力が滑り落ちる。その隙に足を半歩引いて、膝の角度だけで重心をずらす。短剣の先が空を掴み、カンと石を擦って軽い音。音は、花の和音と合わさると、暴力ではなく拍になる。
「ここは道じゃない」
ミトスは善意に話しかけるつもりで、男性に向かって言った。
「あなたが行く道は、向こう。――帰り道。あっちが、帰り道なの」
帰る。押しの線は『進め』を強いる。だが灯りは『帰れ』を守る。男の瞳孔がわずかに絞れ、白目の中に色が戻る。
まだ、間に合う。
男が最後の惰性で短剣を振り上げる。その手首の延長線を、ミトスは見送る。鞘で当てて逃がす。打ち落とさない。殺さない。
石畳が受け止め、短剣が跳ねて、花の音がふわと重なる。ソリンが横から踏み込んで、男の肩を押さえ、ガァトが腰を落として体重を預ける。誰も無駄な動きはしない。必要な動きを、必要な時に。ミリアが縄を回し、イェレナが小鈴で人垣を下げる。
「のう、ここは歌の街なのじゃ。刃で終わらせる必要はないのじゃ」
男の呼吸が荒い波から普通の波へ戻るのに、三回かかった。押しの善意の言葉は、砂のように口の中で崩れ、最後はただのため息になった。
ミトスは剣を収め、胸の奥で遅れてやって来た震えを呼吸の数でならす。人は獣より、重い。でも、重さは、歌で持てる。
助けられた魔族商人が、へたり込みながら笑った。
「やれやれ、家族証もらったばっかりの娘に守られちまった」
「みな『家の者』だから守る。そういう順番で、いいのじゃ。お主とて、ミトスに何かあれば守ったのではないか?」
「当たり前だろう? ……そうか、そうだったな。ありがとう、ミトス嬢」
イェレナが真顔で頷き、次の瞬間には尻尾で太鼓の拍を真似た。
太鼓屋の青年が気を利かせてトン・トンと軽く叩き、通りに拍手が広がる。花売りの少女は胸に手を当てて、安堵で目を潤ませた。
……『外様』は、もう外ではない。
「無事か」
ウィルの声は、いつもより半歩近い位置で落ちる。ミトスが顔を上げると、指先が額の髪をそっと払った。
「うん」
「……他に任せても、誰も何も言わない。無理だけは、しないように」
「わかってる。無理だなんて思ってない。それに、みんながいるってことは、よくわかってる。もう家族なんだもの」
ミトスのその言葉に、魔王城の面々は照れくさそうに、騒ぎを聞きつけてやってきた街の住人は嬉しそうに、顔を見合わせて笑った。
――夕刻。
港の灯が順々に点り、紙の覆いがぼんやりと暖かい色を舟に落とす。ロープがぎゅと伸び、帆布がふわと鳴り、鈴は一度だけ気取って鳴く。
昼の緊張を洗うには、こういう雑多な音が一番効く。
埠頭の端で、ミトスとウィルは並んで立った。遠くで子どもが走り、屋台で蜂蜜の焼き菓子が焦げ目の音を立てる。
日替わりの屋台の香りは、誰の食欲もそそり、連日列を作り賑わっていた。
その並びにイェレナが混ざろうとして、ミリアとガァトに止められていた。その様子を見て、ミトスは嬉しそうに笑う。新しい自分の居場所が笑いに溢れている喜びを、胸の奥で何度も噛み締めていた。
「そういえば、蛇竜の仔に、あの男が会いに来やしたぜ」
ふと思い出したように、ガァトがミトスに声をかける。
「あら、よかった」
「もう家へ帰しても問題ない。……少しばかり、寂しくなる」
「そうね。寂しくなるわ。……会いに来てくれるかしら?」
「恩義は忘れない。そんなヤツらばっかりだからな。親でも連れてくるんじゃないか?」
「えっ? 一緒に来てくれるの!?」
ミトスの答えに、ガァトは驚いた後、笑い出した。
「あっはっはっはっ! 流石だ。驚きもしない、たじろぎもしない。それどころか、喜ぶなんて」
「それでこそ魔王の嫁……でしょ?」
ソリンも笑っている。ミリアもイェレナもだ。
「そういうことだ。彼女を選んで正解だっただろう?」
ウィルの言葉に一人耳まで赤くし、ミトスは皆をせかすように先頭を走る。
「もう! 先に行っちゃうよ!?」
「待つのじゃミトス! まだ旨いものを買っておらんぞ!」
「明日! また明日よ!」
「無理を言うでない! わしの口は、甘いものを食べる気満々なのじゃ!」
走るミトスをイェレナが慌てて追いかける。残された者たちは、その姿を「やれやれ、仕方ない」と言った様子で見ると、ゆっくりをその後を追いかけた。




