第47話:家族の証_3
ミトスの声は小さく、それでも本当の善意の音を含んでいる。悪意は他所へ、彼女は持たない。
イェレナが低く鼻歌を添え、クルシュが通りの人垣に隙を作る。
逃げ道ではない、この獣のための帰り道。
獣はふらりと方向を変え、灯りの紐から外れて井戸の裏手へ。
ガァトが静かに頷き、その巨体を半歩引いた。
当てて、逃がす。帰らせる。
その時、獣の爪が石の段差に引っかかり、体勢が崩れた。
反射的に前へ――灯りの紐に絡む。
紐が張り、灯りの点が一瞬暗くなる。
ミトスと魔王領が繋がる前に、この紐が切れてはいけない――
ミトスは鞘を返し、紐と獣の間に音を置いた。
軽い、でも芯のあるカン、という音。そこではないことを、知らせる音。
花の和音と合わさって、灯りの拍が戻る。
「さぁ、こっちだよ」
獣は一つ咳をするように泡を吐き、足元を見下ろし、今度は自分の力で紐から離れた。
井戸の陰で、水の匂いを嗅ぎ、ととと――と走って路地の薄闇へ消えていく。
パチパチパチパチ――
通りから、大きな拍手が湧いた。太鼓屋が気を利かせて、軽い二拍を入れる。
ミリアが手を叩き、花売りの少女が肩の力を抜いて笑った。
余所者は――もう外の者ではなくなった。
「無事か」
ウィルの声が近い。具体的に言うと、いつもより半歩近い。お互いが心地よい距離。
ウィルがミトスの額にかかる髪を指先で払う仕草は、儀式の時よりも自然で、温かい。
「うん」
「よく戻した。……私は誇らしい」
短い言葉なのに、胸の奥で大きな音がした。
この後待っている婚約の儀が、夢ではないことをミトスに知らせている。
イェレナが肘でミトスの脇腹をつついた。
「のうのう、こんなところでイチャつくものではないぞ? 仕方ない、本日は式典補正で特別に不問なのじゃ」
「そういう制度、いつ作ったの?」
「今なのじゃ」
「イェレナらしいといえば、イェレナらしいかも」
二人のやり取りに、コホンと一つ咳払いをして、記録官が市場の中央で簡潔に告げる。
「本日の裁は、押しの線を帰り道に変更。ミトス様の灯りの紐を常設化、拾い子規則に一人じゃないを明記。……あの獣は友人に。――以上」
拍手が重なる。
屋台の主人たちが灯りを高く掲げ、蜂蜜の香りが和音の代わりに空気を満たす。
ミトスは木の家を胸に抱き直し、ランタンの火を覗いた。
芯は安定し、人々の心の歌が街路に薄く残る。
式が終わって城へ戻る前、港から人間領の続報が届いた。
『善意の唱和は予定通り始まったが、二日目にして息切れ』
続けてこうある。
器の縁から匂いを拭った商人が増え、集いの倉庫には印刷型の供給停止を求める署名が回り始めた。
そして、泥藻印と花歌いの記録番号が付いた通行札は、検問優先対象のまま――だが、実務派の係官が『優先通過』と読み替えて列を流した、というメモも。
確実に、噂は広がっている。
ミトスは報せに目を通し、ランタンの火へ視線を戻した。
(押しは線。灯りは点。点が増えれば、線は解ける。私は、ここに帰ってくる)
――夕暮れ前の城。
回廊の風は甘く、庭の花は鈴を控えめに鳴らす。
控えの間では、ウィルが式の報告を受け、ソリンが礼拝堂跡の境界を点検し、クルシュが港の便りを整理している。
ミトスは一歩下がって深呼吸し、肩の余白をもう一度確かめた。
今日、遂に魔王領の一員として認められた。名実ともに。
そして、勇者としての自分はサラサラと空白へ帰っていった。刃を抜かず、押しを剥がし、方向を整え、帰らせる。あの、獣のように。
それは自分の剣が勇者の剣からこの街の剣に変わる最初の一歩だ。
「ミトス」
名前を呼ぶ声は、静かで、近い。ウィルが歩み寄り、掌を上に向ける。
差し出すでも、掴むでもない。あって当たり前の形。
ミトスは迷わず、木の家を片腕に預けて、その手に指を重ねた。
境界の花が、甘い鈴を一度鳴らす。
「……ありがとう」
「こちらこそ」
言葉は短いのに、余韻は長い。
イェレナが横で頷き、尻尾を左右に振った。
「のう、まだ婚約の儀が終わっておらぬぞ。皆が待っておる。早急に向かうのじゃ」
「わかってる」
「重要事項なのじゃ。急ぐのじゃ。場所は中庭、みんなでお祝いじゃ!」
イェレナに促され、ウィルとミトスは手を繋ぎ中庭へと向かう。
持ち寄られた花飾りに、星見草のランタンのような灯り。並べられた豪勢な料理は、ミトスがこの魔王領へやってきた初日を思い出す。
(私は生まれてきた意味を持った。みんなのおかげで。私はちゃんと、愛されてる)
「ほれ、織機の気合がわかるじゃろ?」
ミトスのドレスが、夕暮れから夜のグラデーションから、夜から朝のグラデーションへと変わる。胸元には星屑、裾には太陽の光。
「……素敵」
クルクルとその場で回って見せると、皆の顔を空が綻ばせた。
「これより、婚約の儀を執り行う。二人は前へ」
ミトスとウィルは、イェレナの言う通り前へ出た。拍手が二人を包む。
「婚姻はリング、婚約はブレスレット。お互いにはめるように。よいな?」
促されるまま、クルシュの運んできたブレスレットを、お互いの腕に回した。
「ここに、二人の約束を認める。今宵は宴じゃ!」
イェレナの合図に、ドラゴンが空を飛ぶ。沢山の花弁と星屑を降らせ、祝いは朝まで続いた。




