第46話:家族の証_2
――第二の灯りは学校に。
丘の上の白い壁には花飾りが渡され、門柱にはイェレナが仕込んだ『器物守り』の輪がそっと揺れている。
教室では、子どもたちが花冠を持って待っていた。
「ミトスお姉さん、包帯の結び目、もう一回教えて」
「いいよ。痛くない結び方だよ」
小さな手に布を渡し、ゆっくり、解けにくい蝶結びをつくる。「解けてもいいけど、バラバラにならないように」そう願えば、結び目は自ら気を引き締める。
教室の後ろで先生が頷き、黒板は控えめに木の匂いをたてた。粉は遠慮がちに舞い、その白さを光に残す。
「……あら?」
ミトスは気が付いた。先日印を洗った少年が、列の最後にいることに。
目が合った瞬間、少年は走って目の前に来ると、躊躇いながらミトスに花冠を差し出した。
「これ……ぼく、作った」
「うん。とても綺麗。素敵な花冠ね」
頭に載せると、冠の花は高らかに歌う。この少年の、本当の善意の音色に、少しだけ反省の色を込めて。引っかかりのない澄んだ音色は、本心からの音だと証明している。
その姿を見て、イェレナが耳打ちする。
「のう、花冠は、垣根を超えた繋がりの輪なのじゃ。焦りを外へ流してくれる」
「うん、重さがいい感じ」……
「本心の重さなのじゃ。……きっと、この式は上手くいくからのう。安心して、残りの場所も回るのじゃ」
「わかった」
校庭で、ミトスは短い歌を置いた。
『怖い時には、言っていい』
『痛い時には、止まっていい』
『寂しい時には、待ってていい』
『楽しい時には、歌っていい』
椅子と机と黒板が、手のひらほどの音で呼応し、門の輪がカランと小さく鳴る。
ウィルは聞きながら、遠巻きに見守る大人たち――親や近所の商人――にも目配せを欠かさない。
「待つのは、大人の仕事だ」
「こどもだってまてるよ!」
張り合うように、小さな子が言う。
「では、待てる者が待つとしよう。大人も子どもも、種族も出自も関係なく」
その言葉は子どもだけではなく、大人の胸にもストンと落ちて、校舎の空気がまた少し柔らかくなった。
――第三の灯りは市場にあった。
昼下がりの市場は、今日だけ通りの中央に細い灯りの紐が張られている。港のランタンと学校の花冠の間を繋ぐ、蜂蜜色の布の帯。
商人たちはそれぞれ、自分の屋台の前に小さな灯りを一つ出す決まりだ。
蜂蜜の店、香草の店、魚屋、布屋、粉屋、遊具屋――点が並び、通りが線になる。
式の司会は、もちろんイェレナだ。
「本日の永住証授与は、ミトスなのじゃ! 港・学校・市場の灯りを繋いだ、この魔王領の娘への証なのじゃ!」
小鈴がチリンと鳴り、花売りの少女が布包みを掲げた。
中には、木彫りの小さな家が入っている。屋根には花歌いの紋、扉には灯りの刻印。
この領に住む者は、誰もが持っている。
人間にとっては特別の証だ。この領はそもそも魔王領である。人間のものではない。あくまでも部外者なのだ。
そこに少しばかり、自分の存在を置かせてもらっているのだ。認められれば、名実ともに魔王領の仲間となる。
お客様から、みんなの家族に。
誰もが求める、大切な証。
「外から来た者が、外の者でなくなるための印です」
記録官が宣誓文を読み上げ、人々が拍手した。ミトスは木の家を胸に抱え、笑って頭を下げる。拍手は大きくなり「おめでとう」や「おかえりなさい」の声が響く。
暖かい気持ちに囲まれて、ミトスの胸の奥では、もっと別の重さが静かに形を取っていた。
(私はもう、帰るべきところを、間違えない。絶対に)
――その時だった。
市場の端――灯りの紐の先、古い井戸の方角で、空気がざらりと逆立った。
花鉢が一瞬だけ低い鈴を鳴らし、イェレナの耳がぴくりと動く。彼女はこれを見逃さない、聞き逃さない。
「……のう、風がよじれたのじゃ」
ウィルの視線がそちらへ向き、クルシュが人垣の隙間を素早く測る。
次の瞬間、井戸の影から異形獣がふらりと躍り出た。
鹿のような細い脚に、魚の鱗。目は白く濁り、鼻先から薄く光る泡が漏れている。空の祝詞に触れ、方向を狂わされた水辺の獣だ。
暴れる気配はない――が、灯りの紐へ向かって吸い寄せられている。
押しの線が、最後のひと押しをかけに来た。
「人を下げろ」
ウィルの指示は短く、通りにすぐ伝わった。
ミリアが子どもたちを背中でまとめ、ガァトが脇道を封鎖する。
クルシュが大人を冷静に離れさせたうえで、ソリンがいつでも切れるようにと剣に手をかける。
そんな中「仕方がいない」とでも言いたげな顔をして、イェレナが花鉢を二つ、通りの両端にぽん、ぽんと置いた。
「ミトス、いけるかのう?」
「もちろん。いける、大丈夫」
木の家を屋台に預け、ミトスは鞘に手をやる。
歌う呼吸――三・五・三。
胸骨の内側で拍を立て、足裏で石の粗さを拾い、肩に余白。
異形獣の目に光がうつろに揺れ、鼻先の泡が押しの方向を指す。意志のない視線。
――悪意がないなら、外の形をなぞるだけ。
歌で剥がす、剣で方向を整える。昨日から何度も胸に重ねてきた手順が、今日、初めて武器になる。
ミトスは一歩踏み出し、一人じゃないよと短い節を置いた。
灯りの紐から一拍、押しが解ける。
獣の足が半歩止まり、白い目がわずかに焦点を取り戻す。光まで、もう少し。
「よし……」
その隙に二歩、横へ回り込む。
刃は抜かない。
鞘の腹で、獣の肩にそっと触れ、方向を城の外へずらす。剣の訓練で何度も繰り返した『当てて、逃がす』を忘れない。
力で押さない。押しに押し返しを重ねない。花鉢が和音を足し、灯りの紐がゆっくり呼吸する。
獣の鱗が息を思い出し、白濁の目に色が戻る。
「そう……帰ろう。水の匂いのするほうへ。大丈夫、一人じゃないよ。一緒にいこう」




