第45話:家族の証_1
朝の鐘が一度。城の上に薄い雲がかかり、日差しは柔らかかった。
屋内の回廊には、花職人たちが運び込む鉢がずらりと並び、白と桃の鐘形が嘘を嫌う音を小さく保っている。時々鳴らしては、子どもたちがその音を確認する。
今日は――港・学校・市場の代表たちが、ミトスに「魔族領永住証」を贈る式の日だ。
『外から来た者が、もう外の者ではない』と、魔王領がが正式に認める小さな儀。
その動線は、港から始まり、学校を経て、市場を抜け、城へ戻る。灯りの道――昨今の善意の押しの線を、待つ灯りの点で繋ぎ直すためのルートでもある。
「のうのう、式服はこれなのじゃ」
イェレナが両腕いっぱいに布を抱えて現れた。絹は薄く、色は夜空の一部を切り取ったような星空。
この日のために、特別にしつらえた布。
今日は確かに『魔族領永住証を贈る式』であるが、同時にミトスとウィルの『婚約の儀』が行われる日でもあった。
永住は朝に、婚約は夜に。
「肩は動くように、紐は解けぬように、でも見栄えはばっちり。わしの審美眼は間違いないのじゃ」
「嘘でしょう? イェレナ。食い道楽の審美眼じゃなないのかしら?」
「何を言う! そもそも食は審美なのじゃ!」
メリアの問いに、尻尾をぴっと立てて胸を張るのがおかしくて、ミトスは笑って頷く。
フィッティングの鏡越し、そっと影が近づいた。
ウィルだ。今日は儀礼の襟飾りを控えめにあしらい、普段より少しだけ魔王の顔を見せている。
「……似合うな」
短い感想なのに、胸の奥にゆっくりと言葉の温度が広がった。照れながらも、ミトスはウィルと視線を交わす。
ウィルは指先で紐の結び目を整え、額に落ちかけた髪をそっと払う。
「動けるか?」
「うん。走れる」
「走らないで済むように、私たちが先に走る」
「そう? 普段の服よりも、動きやすいくらいなのに」
「走ることが目的ではない」
冗談めかして笑うが、眼差しは真面目だ。
「私、やっとこの土地に認められたのね」
「もっと前から……なんなら、初めて来た日から認められていた。それを表に出すのが、遅くなってしまっただけだ」
「この日をずっと待ってた。……それに」
「それに?」
ミトスは柔らかく微笑むと、両手を胸に当てた。
「決して無理強いせず、形式も順序も大事にしてくれる、ウィルが大好き」
本来、婚約の儀はなくても問題ない。婚姻の儀を結んだ際に、晴れて夫婦と認定される。婚約に関しては言葉だけでも構わないのだ。
それをウィルは、昔ながらの形式に沿って、形に残すことを決めた。急かさぬよう、それでも、不安にならないように。
「不安か?」
「……全くないとは言い切れない。だって、初めてだから。最初で最後って、緊張するでしょう?」
「それもそうだ。私も緊張している」
「ふふふっ。同じだね」
「困ったらすぐに言え。不安も、恐怖も」
「言う。……それだけじゃなくて、嬉しいも楽しいも言うね」
「あぁ」
ウィルはそっと頬に触れ、ミトスの額と自分の額を合わせる。
「ほれほれ、まだミトスのドレスが出来上がっておらぬのじゃ。織機に任せる、少し離れておれ」
織機は魔法で動く。カタカタと一定の音を鳴らしながら、星の流れを丁寧に生地に織り込み、光の線を紡ぐ。柔らかなミルク色のレースに、星空のグラデーションが広がっていく。
夕焼けと星空の境界は、ミトスの透き通るような肌によく似合った。
「灯りの確認を忘れぬようにするのじゃ。第一から追いかけるぞ。ささ、全員早う会場に向かうのじゃ、ミトス以外!」
イェレナがパンパンと手を叩くと、ミトスを残して全員がその場を去った。
「主役はここに。出来上がったドレスを着てから、わしと一緒に行くのじゃぞ」
「うん!」
――第一の灯りは港にある。
埠頭の端、灯台の影で海鳥が羽を休め、鈴は短く晴れやかな音を鳴らした。
網を担ぐ漁師たち、樽を転がす魚屋の若者、縄を編む老女――それぞれが普段よりもめかし立てた服で並び、花鉢を抱えた少年が前に出る。
「ミトスさん。『港の灯り守り』の名で、これを」
差し出されたのは、小さな真鍮のランタン。中の芯は、花歌いの和音で作られた『一人じゃないよ』と歌う灯り。
ランタンの枠には、潮に強い銀塗りで貝紋が彫られている。
「海風が強い日でも、灯りは消えない。……この街に、一人じゃない子が増えるように」
「ありがとう」
ミトスが受け取って火を見ると、芯がふっと明るさを増し、港全体の空気がひと息分だけやわらいだ。
老漁師が、あの木箱騒ぎを笑い話に変えながら囁く。
「善意の押しは海の泡みたいなもんでね。波が引けば消える。残るのは、こういう灯りさ。芯が強くて、皆の心を灯すような」
イェレナが尻尾で拍を取り、小さな和音を足した。
「よいのじゃ。港の点が一つ、鮮やかになったのじゃ」
ウィルは一歩下がって見守り、港の子どもたちと目線を合わせる。
「灯りは、誰にでも売れると思うか?」
少年はミトスが答えた言葉を、少し誇らし気になぞった。
「買う意思がある人にだけ!」
「あぁ、良いな」
小さな掛け合いに、港が笑った。




