第44話:人間領からの逆風_3
夕刻の少し前、もう一つの軽いトラブルが城下の水路で起きた。小水車が止まったのだ。菓子屋の粉挽き用。
水路にかがむと、木の羽根に苔魚が三匹、ぴたりと張りついている。
苔魚は水路の妖精と魚のあいのこ。水の機嫌取りには良いが、くっつきすぎると止まる。
「久しぶりにくっつきすぎたのを見たのう。苔魚は歌で外すのが礼儀なのじゃ」
「歌、って、とっても便利なのね」
「この領地の特別じゃ」
イェレナが小舟のへりに座り、鼻歌で水の拍をほどく。
ミトスは水車の羽根を指でなぞり、優しく撫でるような歌を短く添えた。
苔魚が、ふい、と恥ずかしそうに離れ、ちろりと舌を出して上流へ逃げる。
水車がとん、とん、とんと拍を取り戻し、粉挽き小屋の窓から歓声が上がった。
「助かったよ! これで夕刻のパンが焼ける!」
「パンは主菜! 皿に忘れてはならないのじゃ!」
「甘味は?」
「もちろん別腹なのじゃ!」
やりとりに笑いが重なり、道の空気が家の匂いを増やす。
『外の他所様』が『家の者』へ――また半歩。
街は小さな拍で、確実に強くなっていく。
そして、夕刻。
場所は旧礼拝堂跡。
花鉢の四隅は、朝より少しだけ低い音で鳴り、境界は人の呼吸に寄り添う高さに落ち着いていた。
ソリンが台座の影に立ち、ミリアは周囲の目を張り、ガァトは丘の下で子どもたちを帰し、クルシュは風の匂いを読む。
ウィルはミトスの隣――半歩近い位置に立ち、目で「大丈夫だ」と言う。
イェレナは台座にちょこんと座り、尻尾を品よく揺らした。
「のう、今夜は名が来るかもしれんのじゃ。名は道具。使いどころが肝心なのじゃ」
風が一度、乾いた。
境界の向こうに、背の高い影。
朝より、半歩だけ近い足音。
背中が境界に立つ。
銀髪が風を梳き、目の影は深い。
ミトスは、胸の奥の怖いと会いたいを、同じ手で抱きしめる。
三・五・三――歌う呼吸が整い、剣の形が音を覚える。
「――来たか」
低い声。
境界の花が、嘘を嫌う音で軽く鈴を振る。
男は、朝と違ってほんの僅か首を傾げ、口元だけで微かな笑いを作った。
「名で来る、と言った」
短い沈黙。
ミトスは頷く。
「聞きます。……師匠。あなたの、名を」
「名前? あぁ、そういえばそうだったね。 我が名は、エアリル」
境界が、鈴を一つ鳴らした。
名が置かれ、音が一つ生まれる。
ミトスの胸がじん、と熱くなり、同時に少しだけ軽くなる。
ウィルは、金の瞳でその音を飲み、何も言わなかった。
言葉より厚い、信がそこにあった。
「善意の押しは、進んでいるのかな?」
エアリルは境界の花を見下ろし、声だけで問う。
「押されている人も、押す人もいます。――でも、灯りの点は増えてる」
「灯りの点」
彼は、昔の稽古の時のように短く復唱した。
「なら、剣は方向を整えるだけでいい」
「うん」
「三合」
「……朝と同じ?」
「同じで、違う。今度は歌で。ここでは、歌のほうが強いでしょ? それならミトスは、しきたりに従うべきだ」
剣を抜かない。
歌で三合。
境界の内外で、息と拍を交わし、押しではない、待つを刻む。
ミトスは歌い、エアリルは歩みを半歩だけ寄せ、花が和音を合わせる。
ウィルの手は、届く距離で開いている。
『転ばないように』ではない。『選べるように』と、そこにある手。
三合が終わると、エアリルは短く息を吐いた。
「――戻ってきたね」
「途中です」
「その途中が、美しいんだよ」
いつか聞いた言葉は、今日のほうが温かい。
「誰がこの魔王領に、何をしようとしているんですか?」
ミトスが問うと、エアリルは首を横に振った。
「名はまだ使えないんだ、ごめんね。……だが、泥の印は効いた。善意の唱和が始まれば、仮初の善意の服は早く破れるものなんだよ」
ウィルが静かに言う。
「破れる前に、子どもが裂けないように、器から歌う。……見当はついている。誰かさんのヒントのおかげで」
「なら、任せるよ。今のボクには荷が重いからね」
エアリルはそれだけ言って、くるりと背を返す――まっすぐで、古い、でもどこか軽くなった背中。
「また来るよ」
風が、名の余韻を運び、境界が鈴を一つ。
花は嘘を嫌う音を保ったまま、夜の拍へゆっくり調律していく。
丘を下る道、ミトスはウィルの目を見る。
「……ありがとう」
「何に対して?」
「師匠を責めないでいてくれて」
「責めても何も変わらない」
言葉は短く、余韻は甘い。
イェレナが横から飛び込み、両手を広げる。
「今日の仕事は終わりじゃのう! 待ちに待った甘味の時間なのじゃ! あやつの名が来た祝いなのじゃ!」
「今日だけは、賛成してやろう」
「主菜の前に食べちゃうの?」
「甘味は主菜なのじゃ!」
「パンだったじゃない」
「それは、その、主菜は多いほうがいいのじゃ!」
三人の笑いが重なり、城へ続く道が家の匂いで満ちる。
夜。
港の鈴が二度、遠くで鳴った。
人間領では、泥藻印の噂が一層広がり、善意の唱和は早くも空疎な声を増やしていく。
魔王領では、小さな灯りが一つ、また一つ点り、押しの線は解け始める。
そして――名を持った背中は、もうただの背中ではない。
次に交わすのは、歌か、剣か、それとも手か。
どれでもいい。一番大事なものを、選べばいい。
甘い匂いが回廊を満たし、砂糖が皿の上でさらさらと歌った。
灯りは、今日も売れる。買う意思がある人にだけ。
――そして、自分自身にも。




