第43話:人間領からの逆風_2
泥藻印の男、出頭。『魔族領は歌で裁いただけ』との供述。空の祝詞は善なる導きであると再確認。次回より、関係者は通行前に善行の言葉を唱和すること――』
騒動はすぐに回る。最初に聞いた通り、泥藻の印の効果は絶大だった。人間たちは、魔王領に興味がある。それが善でも悪でも、大でも小でも関係ない。
「ふふふっ」
ミリアが鼻で笑う。
「唱和ですって。善意の制服は着心地が存外悪いものなのね」
「見た目でしかないからのう。中身がない。上辺だけは皆好まぬ」
イェレナはレポートの端をつつき、目を細めた。
「それで、砂狐の同僚は噂するのじゃ。『泥に四度落ちたヤツのせいで、検問が増えた』とな」
「砂狐は? あの後どうしたの?」
「沈黙。……ただ、帰り際に、器の縁をちょいと拭った。『匂いが強すぎる』と言ってな」
ミトスは、胸の内で小さく息を吐いた。
拭った、ということは、そのぶん効力が落ちているということだ。昨日の一件は、たった一晩で本当に効き始めている。
そこへ、港から第二報が届く。
人間領の慈善の集いの倉庫で、印刷型の一部が押収されたという。
押収したのは、向こうの別の港湾ギルド。
――人間たちの石の違いが、静かに衝突し始めた。
ウィルが机越しにミトスを見た。
「この割れ目は広がっていくだろう。灯りだけを信じるように。決して煽るな」
「うん」
「ミトスだけではない、お前たちもだ。無駄な争いはしたくない。約束は守る」
昼下がり、城下に戻る道すがら、甘い匂いが風に混ざる。
蜂蜜菓子屋の前で、客の列が蛇のように曲がっていた。看板の鈴は気持ちよく鳴り、屋号の彩色も新しい。
ミトスは列に目をやり、ふと眉を寄せた。
列の途中――犬獣人の少年が、手に銀貨を握ってじっと耐えている。
前に割り込もうとした男がいて、店の小間使いが困っている。
声を荒げるでもなく、だが悪意と思わない勝手な善意が、列を少しずつ汚していく。
「お兄さん、順番は……」
「善いことのために先に買う。小さな子にもわけるんだ。子どもにわけるのは、善いことだろう?」
「なら、列で善く待ってください。横入りは悪い、ですよ」
「悪い? 善いが勝つに決まってる。善意が勝ちだ」
「でも、後ろには子どもが」
「なんだって? 大勢のほうが大事だろう? 俺のほうは沢山だ、沢山の子どもが待っている」
小間使いの声は震えて、押し負けそうだ。
「のう、ここは客礼なのじゃ」
イェレナが鈴を一度鳴らし、ちょこんと店台に乗った。
「よく聞いておれ。待つは灯り、押すは刃。――《花歌い》をここで、ひとさび」
ミトスは短く頷き、市場版の一節を歌に落とす。
「待つことは、未来を増やす」
「押すことは、器を欠けさせる」
「善は悪を覆わない」
「悪は善を利用する」
「あなたの善悪はどっちに堕ちる?」
花鉢はない。けれど、蜂蜜の匂いは花の代わりを果たし、鈴が和音を作る。
列が、静かに整った。割り込もうとした男は、自分の銀貨を見つめ、ふっと肩を落とした。
「待ってて、くれる?」
息を吸い込んだ、ミトスの一言。
「……わかったよ。待つ」
小間使いがほっと笑い、犬獣人の少年に目で合図する。
「ありがとう。……待ってて、って、いい言葉だね」
少年がぽつりと言った。
ミトスは胸の内で頷く。灯りは、こうやって街の隅に置くものだ。
午後の会議までに少し時間がある。
ウィルが石段の影で立ち止まり、ミトスの額にかかる髪を、潮風のような手つきでそっと払った。
「……ありがとう」
「髪より、心の皺を伸ばせたか?」
「うん。伸びた」
「よし」
それだけで、胸骨の内側がふわりと温かくなる。心拍は揺れ、誰が見ても二人の関係は変わらない。
イェレナが遠くから大げさに咳払いをした。
「じれったいのう。さっさと婚儀を組まんか」
――午後、控えの間。
港・礼拝堂跡・学校・市場――それぞれの接点から上がってくる善意の痕を洗い、歌でどこを潰し、剣でどこを迎えるか整理する。
クルシュが地図を広げ、ミリアが印を置き、ガァトが危険度に応じて見回りを増やす。
イェレナは金の輪で低い和音を保ち、ミトスは灯りの歌の短い断片を地図の要点に結んでいく。
最終確認はソリンとウィル。手は抜かない。見落とさぬよう、慎重に事を運ぶ。
「のう、善意の押しは線で来るのじゃ。灯りは点で置くのじゃ。――点が多くなれば、線はほどける。それは勝手に」
「ですが、点を急いで増やしすぎると、また急かしになってしまいます。取りこぼしはできるだけないように。それがこちらの希望です。」
「うむ、わかっておる。もちろんゆっくり急ぐのじゃ」
「矛盾してる」
「真理はいつも少し矛盾しておるのじゃ」
そこへ、人間領サイドの続報がやってきた。
砂狐が、連絡会の後、港の器の縁を一つひとつ拭いて回ったという。
「匂いが濃いと、子どもがそわそわする」と、理由も添えて。
その姿を見た別の派閥の商人が、彼に温いスープを差し出した――というメモも。
ウィルは書面を読んでから、ふっと息を和らげた。
「泥は、剣より効くということか。自分の仕事と状況を、よくわかっている」
「頑張ってくれたなら、謝礼を出すべきかしら?」
「同意だ」
「……丸くなったのう、ウィルよ」
同じ言葉で笑える今が、少し誇らしい。
会議の終わり、クルシュが小声で告げる。
「――白金の背中、夕刻にまた礼拝堂跡の境界を見に来る、との風が吹いております」
ミトスの指先が少し冷たくなり、すぐに温かくなる。
ウィルの目が、やさしく鋭く、同時に細くなる。
「歌の境界は整えてある。……怖いなら、言え」
「言うよ。怖い。――でも、会いたい。直接、ちゃんと聞きたいことがある」
「よし」




