第42話:人間領からの逆風_1
今朝の港は、潮を多めに吸っていた。
昨夜は風向きが一度、海の奥から街へ反転したせいだと、灯台守が言う。鈴が柔らかい音を二度鳴らし、岸壁の上でロープがゆっくり伸びる。
ミトスはウィルと並んで埠頭を歩き、漁網の影にできる細かい光のまだらを眺めた。
ここ数日、港はよく動いた。渡り祈りの札、空の祝詞、白金の羽根。
そして昨日――砂狐が泥に三度、いや結局四度落ちて帰っていった。
「……鼻に泥の匂い、まだ残ってる気がする」
「すぐ甘くなる」
ウィルは短く答え、風を見て歩調を落とした。手は伸ばしすぎない、けれど届く距離ある。
半歩ずつ近づき、腕が重なる。照れながら指を絡め、目が合うと急に恥ずかしくなり、お互いに目を逸らした。
「昨夜の歌は街がよく笑った。笑いは境界を厚くする。……ありがとう」
「私じゃなくて、泥藻の仕事よ。あんなに、転んじゃうなんて」
「それなら、泥藻に礼状を出すか」
「それはちょっと」
笑いの後ろから、小走りの足音。
「ウィル様」
クルシュが封筒の束を抱えて現れた。
「人間領からの逆風が始まっています。――泥藻の印つき通行札、向こう側での扱いが回ってきた」
「風……って、どんな風?」
「港町の関所で、通行札の表に泥藻印、裏に花歌いの記録番号。『儀での裁定を受けた者』として登録、検問優先対象に」
「優先?」
「悪い意味の、です。荷を全部開けられ、善良なる協力を促す小冊子を渡され……」
クルシュは淡々とした口調のまま、紙束の一枚を差し出した。
そこには拙い印刷で、こう書かれている。
空の祝詞は正しい導きです。疑う者は信を乞いましょう。
紙面の隅では、百合十字が少し歪んでいる。
「善意の顔をした押し付けの匂いが濃いのじゃ」
イェレナが、いつの間にか樽の上に座って脚をぶらぶらさせていた。お気に入りの場所のようだ。
「この紙を押し付けられるたび、向こうの商人は腹で渋い顔をするのじゃ。善意は時に圧なのじゃ」
「砂狐は?」
「朝一で、人間領の連絡会に呼び出し。『泥藻印の意味を説明せよ』と。――魚市場の噂は海を渡るのが早い」
ウィルは短く頷いた。
「流石に転び過ぎたのう。いや、あれは自業自得だからして、いい経験じゃな」
昨日の様子を思い出して、クスクスとイェレナは笑った。
「向こうは善意で押す者と、そんなもので押されるのは御免だと引く者で割れる。割れ目は、こちらにとって境界線になる。……割れ目を広げすぎるな。歌で正面だけを照らせ」
「了解」
潮の匂いの中で、港の鐘が一度鳴った。
視線を向けると、鮮魚の屋台通りの端で、青い煙がもわっと上がった。
甲殻を蒸す大釜の側、火を守る炉の精――かまどの心――が、ふくれっ面をしている。釜のふたがカタカタと勝手に跳ね、湯気が暴れて客を追い払っているのだ。
「おや、これは……」
「なんという。珍しいのう。器物の心が拗ねておるのじゃ」
イェレナが尻尾を立てた。
「なんだか落ち着かないのね。……大丈夫かしら」
ミトスは不安になった。この魔王領へきて、火が跳ねるのを初めて見た。あんなに煙が上がるとは。物に意志が宿るのはおかしくない、むしろ当たり前だ。なんとなく、よくない兆候だと思った。
「のう、ミトス。どうやら、またトラブルが起こったらしい。一緒に見にいかぬか? お主がいれば、皆も安心するじゃろう」
「もちろんいくわ」
イェレナとミトスが、先陣を切って市場へと向かった。
到着すると、屋台の主は、海風に焼けた頬をしかめ、釜を押さえながら汗を拭っていた。余裕はなさそうだ。
「悪いな、今朝は火が落ち着かない。昨日からずっと、火が煮えすぎて……」
ミトスは釜の縁に手を添えて、耳を近づける。熱くはない。どうやら、怒っているわけではないようだ。怒っていれば、うんと熱くなる。
器は、低い音で唸っていた。「急かされる、急かされる」「急がなきゃ、急がなきゃ」と。
「昨日、いつもより沢山蒸した?」
「祭りの余波でな。あんな泥藻に何度もはまるヤツがいたから、大盛り上がりだったんだ。客足が途切れたら困ると思って……」
「あぁ、アレね……」
苦笑いするミトスをよそに、火はグツグツと煮えている。
――困る前に急ぐ。善意の顔をした押しは、人にも器にも伝染する。
「ねぇ、気にしなくていいのよ。急いでるのは人間。あなたは、いつも通りでいいの」
ミトスは息を整え、短い歌を置いた。
今日は「待ってる」の歌。 火の足を緩め、湯の泡の拍を丸くする、ほんのひとかけらの旋律。
イェレナが隣で、金の輪を小さくチリンと鳴らした。
「のう、釜。抱くのじゃ。空も、湯も、匂いも。願いも。抱きしめると、急がぬのじゃ」
釜の唸りが、ふうっと抜ける。湯気は音をやわらげ、ふたはカタカタと鳴るのをやめた。
屋台の主は目を丸くし、すぐに笑顔になった。
「……助かった! こういうのは、剣より効くねぇ。壊れたかと思って、思いっきりぶっ叩かなくて済んだ」
「そんなことをしたって直らないわ、だって、壊れてなんかないんだから。逆に壊すところだった」
ミトスは汗を拭い、湯気に混ざる香りの柔らかさを確かめた。
周囲の客の表情がほどけ、行列が戻ってくる。
小さな拍手。
ミトスは照れくさそうに笑うと、火の精と目配せする。
控えの間に戻ると、港の連絡役からの人間領レポートが届いていた。
砂狐が呼び出された連絡会――机の上で声が交錯し、紙が擦れる音、硬い靴の音。
報告の文面は淡々としているが、行間は騒がしい。




