第41話:潜入者_4
「さて! 皆様お待ちかね! 『花歌い』のお時間なのじゃ!」
イェレナの声が、夕風に軽やかに乗る。
「本日の演目は見張りに来て泥に三度落ちる男なのじゃ!」
わぁ、と笑いが起きる。噂はとっくに回って、誰もが彼を知っていた。
砂狐の頬がピクリとしたが、俯かない。
ミトスは息を整え、ゆっくりと歌を置いた。
『見張る目』と『見守る』の違い。
『押す祝詞』と『待つ灯り』の違い。
『外から線を引く手』と『内側から結ぶ手』の違い。
「さぁ、どうかな」
歌は責めない。
歌は、嘘だけを嫌う。
花が、真ん中の音で揺れ、次に、低い鈴を混ぜる。
砂狐の肩が僅かに落ち、一拍遅れて口が開く。
「……見に来た。壊すつもりは、少なくとも『今は』なかった」
花が、甘くも苦くもない音を一度鳴らす。
――これは、嘘ではない。だが真実でもない。
観衆がざわめき、イェレナが補足を入れる。
「おやおや、なるほど。半分なのじゃな。……よいのじゃ、半分も歌えば次がくるのじゃ」
「……」
砂狐は黙り込む。
「……だが若造よ。次に嘘は禁物じゃ。……さもなくば、お前が滅ぶ」
イェレナが開いた口の端に、小さな牙が覗く。彼女はケット・シー。人間の幼女の見た目をしていても、その力は絶大だ。
「わかってる」
砂狐は唇を噛み、次の言葉を探す。
ミトスはあえて助けない。助けないことが、誠意だとわかっているから。
「……背中を見た。その……その名前は伏せられていた。俺は、あの背中に従うのが正しいと思ってきた」
花が、低い鈴を二度鳴らす。
観衆の空気がほんの少し柔らぐ。
ミトスは歌を少しだけ明るくして、最後の節に帰り道の灯りを置いた。
「あなたもね、一人じゃないよ」
それから、高らかに歌う。
『帰って、話せ』
『泥の音』も、忘れるな。
『笑われたこと』は、お前の罪ではない。
――お前の『線引きの浅さ』の結果だ。
花が紡ぐ音に沿って、人が笑う。
いつの間にかその笑いは、嘲笑から愉快な笑みへと変わっていた。
「ただ、泥にはまっただけ。それなら、きっと誰も怒らない。恥じたとしても、未来はある」
歌が終わり、記録官が小さな声で裁を告げる。
「客礼破りおよび潜入未遂。罪は軽くはないが、今日の半分の歌を酌量し、帰還を許す。ただし、帰りの通行札に泥藻の印を添える」
会場が爆発した。適切だと認める破裂音。
子どもたちは「泥!」と叫び、太鼓屋は律儀に三拍子を入れる。
砂狐は、やけのように笑った。肩の力は抜けている。
「……覚えてろ。いや、忘れろ。……なぁ、どっちだ?」
「忘れるわけなかろう。わしを誰だと思っておる。それに、この泥は学びなのじゃ。お前こそ、忘れるでない」
「言葉を、咎めないのか?」
「それはお主次第」
イェレナが満面の笑みで手を振る。
「帰って、ちゃんと話すのじゃぞ。空の祝詞は善意の顔をした『お前そのもの』なのじゃ、と」
「誰に?」
「もちろん、祝詞の主に」
「それは」
「ミトスの師匠でないことはわかっておる。お主だって、知っておろう?」
砂狐は一度だけ頷いた。
そして、舞台の端で足を滑らせ――四度目の、泥藻。
港の太鼓が、完璧なタイミングでドン・ドン・ドン・ドン――と場を湧かす。
もはや様式美の光景に、砂狐さえ『やれやれ』といった顔で笑った。
「……なぁ元勇者様。あいつは何か言ってたか?」
「おそらく、忠告を。根は変わらなかった。親切で、皮肉屋で」
「そうか。じゃあ俺からも一言。今はもう、人間領より魔王領を信じたほうが良い」
「知ってる」
「そうだったな」
ミトスは笑う。その笑みに「今はあなたも信じる」と書かれているようで、砂狐もまた笑った。
魔王領の夕暮れは、笑いと、少しの直しの歌で締め括られた。
――すべてが落ち着いた夜。
回廊の灯が石壁に揺れ、庭の花が静かな和音を保つ。
ミトスはベンチに腰掛け、深く息を吐いた。
隣にウィルが座る。距離は近く、だが触れることはない。
近すぎず、でも、手を伸ばしたら届く。もどかしくも、恥ずかしくもある。
「……大丈夫か?」
「うん。泥の匂いがちょっと鼻に残ってるだけ。なかなか、思ったよりも強いのね」
「そうかもしれない。だが、安心しろ。それは明日には甘い匂いに変わる」
ミトスが笑う。
「今日の泥はちょっと、やりすぎじゃなかった? あんなにはまるなんて思わなかったもの、ビックリしちゃった」
「何、問題ない、適量だ。泥は、剣より効く時がある。……見ただろう? あんなふうに」
「それ、魔王の台詞?」
「私の個人的な見解だ」
ふっと、二人の肩が近づく。
境界は保ったまま、心の距離は半歩、前へ。
回廊の向こうから、イェレナがぴょこぴょこと走ってきた。
「のう、甘味の時間なのじゃ! 正しい制裁が下った後の甘味は、これまた格別じゃからのう!」
「もう、イェレナったら。さっき食べたのに」
「あんなに面白い歌の後の糖は別腹なのじゃ!」
「いつも別腹だろう?」
「ウィルは黙っておれ!」
笑い声が、夜の城に柔らかく広がる。
遠く、港の鈴が二度鳴った。
海の向こうでは、誰かが名でくる準備をしている――そう、背中でわかった。
でも、今夜はこの家の音を聞く。
花の和音、甘味の皿の艶やかさ、一緒に歩く足音。
無礼には無礼を、笑いで終わるのが一番いい。
明日の剣と歌は、そのあとでいい――




