第40話:潜入者_3
泥で重くなった足取りの音は、彼が斥候として持っていた誇りの軽さを、容赦なく地面へ引き戻す。
道の両側から、祭りの日の心臓果を覚えている人々がひそひそと囁く。
「元勇者の仲間だって?」
「いや、あれは仲間ってほどでも」
「泥に三回は面白すぎる。何で学ばないんだ」
囁きは刃ではない。
でも、刃より効くことがある。
「また、帰れなくなるぞ」
「どうやら、今回は比較的マシなほうらしい」
「ウィル様はお優しいよ、私なら何発かぶん殴ってやるさ」
男の顎が強張り、目線が地面に落ちた。
「――そいつか?」
城門前、ウィルが待っていた。
黒衣は朝と変わらず、瞳には薄い光。
男は一瞬躊躇い、すぐに顎を上げる。
「おやおや。魔王様自らお出迎えとは。魔王に謁見する栄誉はないはずだが」
「礼儀だ。――まずは城内で泥を落とせ。話はそれからだ」
ウィルの声は冷たくない。でも甘くもない。
ミトスへかける声友、仲間へかける声とも違う。
どう動くのか見極めるための、まっすぐな視線。
地下の拘留室は清潔だった。
石壁には湿り気が少なく、ランプは柔らかい。
泥を落とした男が、目の粗い布で髪を拭きながら腰掛けている。
両手の拘束は外された。逃げようと思えば工夫の余地がある――が、逃げない。
ガァトの背中が扉の外にあるだけで、逃亡の算段はすべて赤字になる。
ミトスは格子の前に立った。
ソリンは壁にもたれ、イェレナは格子の影で正座。尻尾が椅子替わりに丸くなっている。
「名前を」
ミトスが問うと、男は鼻を鳴らした。
「名乗る義理はない」
「じゃあ、昔通り【砂狐】と呼ぶね」
男の首がほんの少しだけ傾く。
それが、彼の斥候名。
のらりくらりと任務をこなし、砂の色に溶ける狐。誰かを欺き、間に立つ者。
ミトスは彼をまっすぐ見た。
「あなたがここへ来た理由は二つ。見張るか壊すか。今日の動きは見張るに近い。違う?」
「……さぁな」
「港で札が見つかった。学校に空の祝詞。礼拝堂跡で白金の羽根。――誰かは街に線を引こうとしてる。あなたは、その線の端に立ってた」
砂狐は笑った。
乾いて、僅かに震えた笑い。
「元勇者は、まだ物事を空で捉えるのが得意か」
「……私たちは、物の形よりも歌で線を見る」
ミトスが一歩、格子に近づいた。
イェレナの声が、格子の影で低く歌う。
「のう、砂の狐。ここは嘘の匂いがよく響くのじゃ。善意の顔をした空の祝詞は、鼻がよぉく覚えておる。ここにいる、全員がな」
男の目がイェレナを掠め、すぐにミトスへ戻る。
「……あんた、帰る気はないんだな」
「……あのね? 私、帰る場所は人間領にないの。この、魔王領の、お城だけ」
「魔王の膝の上ってことか?」
「膝の上かはともかく」
ミトスは笑う。すこし照れて、でもまっすぐに。
「私は、捨てられた」
砂狐の目が開く。
「でもね? 『一人じゃないよ』と言ってくれる灯りが、ここにはあるの」
砂狐の視線が、僅かに揺れた。
彼が一瞬だけ目を伏せ、次に戻したときには、皮肉の角度がほんの少し丸い。
「……似合わねぇ台詞だな」
ソリンが手を上げる。
「さ、本来の用件に戻ろう。――持ち物の検分だよ」
クルシュが入ってきて、机に男の荷を置く。
隠し縫いのポケットから、薄い油紙の手紙が一つ。
ウィルが封を切り、光に透かす。
――祝詞の枠だけ印刷された羊皮紙。
本文は空白――だが、端の余白に小さな筆跡で記されていた。
『白金の指導者を礼拝堂跡へ/名は伏す』
ミトスの喉がひゅっと鳴り、すぐに息を整える。
『名は伏す』
師匠のやり方だ。
名は道具。必要になるまで、使わない。
「砂狐」
ミトスは目を逸らさず言った。
「礼拝堂跡で、誰と交差したの?」
沈黙が石の床に落ちる。やがて、男は肩をすくめた。
「背中を見ただけだ。……昔、あんたの前に立ってた背中だ。それから、俺の横にも」
ソリンが微笑みのようで、笑いではない表情をした。
「背中なら十分だね」
「でもきっと……いいえ、これはまた後で」
「思うところがあるんだね」
「少しだけ」
ミトスは小さく頷く。胸の奥にある怖いがまた半分に減り、嬉しいは、少しだけ増えた。
「処遇は? いかがいたしましょうか」
クルシュがウィルへ問う。
「『花歌い』に付す。――公の場で見張り目的を歌にし、問題があれば街の前で線を断つ」
ウィルの声は静かで、しかし揺るぎない。
「なんだ、逃がすのか。随分と甘い魔王様なこった」
砂狐が鼻で笑う。
「逃がさない。ただ元の場所へ帰すだけだ。帰り道に歌を結んでな」
ミトスが息を呑み、意味を理解してすぐに笑った。
それは、ここが魔王領である証。剣は形を戻し、歌は街を結ぶ。
はまるのは一度で終わらない。帰ってからが、本当の恥になる。
泥に三度突っ伏す――という絶妙に愉快な見出し付きで。
その日の夕刻。
広場に簡易の舞台が造られ、花の鉢が二つ、嘘を嫌う和音を鳴らす。見たことのある鉢だ。
「今日もよろしくね」
ミトスが声をかけると、リンと涼しいを音を花が鳴らした。
人々は仕事の手を休め、子どもたちは柵にぶら下がって目を輝かせる。
砂狐は手枷を付けたまま舞台の片隅に立ち、顔だけは上げていた。
ミトスは対面に立つ。
ウィルは観衆の最後列で腕を組み、イェレナは司会台の上でマイク代わりの小鈴を振る。
――必要はない。ただ、雰囲気と気持ちの問題だ。




