第39話:潜入者_2
ミリアの声が響き、呼ばれるままに巨躯が通りを塞ぐ。
ガァトの両腕が梁のように伸び、逃げ道が文字通りなくなる。これは避けられない。
男は睨みながら舌打ちし、横の路地へ走った。軽やかに、正確に。
そこは、港へ抜ける細い坂道――春の雨を吸った泥が、まだ乾き切っていない。
嫌な予感が背筋を走った。
ミトスは男を追いかける。彼を守るために。
「だめ! そこ、足場が――」
「……な、っ……!?」
間に合わなかった。
男の足が泥にとられ、右足だけが半歩沈む。
体勢を崩し、反射的に左へ重心を逃がす――その先に、泥藻が待っていた。
港の近くの泥地にだけ生える植物だ。踏むと泡を吐き、泥の表面が一瞬だけぬるりと動く。その動きは何者も逃さず、誰にも止められない。
「っ、ぐ……!」
男の身体が回転し、盛大に前のめりに――顔から、泥へ。
ずぶっ、という見たくもない音。
その見事なはまり方に、観衆の口元が、一斉に引きつってから、爆発した。
「わぁぁ……」
「あーあ」
「見た?」
「……のう、『天罰が下る』とはこのことなのじゃ。人間の神も、なかなかやるのう」
イェレナが両手を腰に当て、すました顔を天に向ける。
「泥藻はな、春先に泡を多く含むのじゃ。見栄えと音が最高なのじゃ。身をもって経験した今の気持ちはどうじゃ? ほれ、言うてみい」
「やだイェレナ、最高は言い過ぎ」
ミトスは苦笑しつつ、すぐ真顔に戻る。
泥まみれの男が立ち上がろうともがく。泥は粘り、膝から下を吸い、短剣に手を伸ばす動きも鈍い。
ソリンが一歩前に出る。鞘の腹で、泥から抜けてきた手首を軽く叩く。男に鈍い痛みが走り、指が勝手に開いた。
「やめておいたほうがいいよ。怪我をするのは、君だ」
「クソがっ……!」
「それだけ元気なら大丈夫だね」
「よしよし。それでは、花歌いにかけるのじゃ」
イェレナが指を鳴らす。
簡易の花鉢が屋台から二つ、ひょいと差し出された。花売りの少女が目をキラキラさせている。
「つかうんだよね?」
「そうじゃ。いつも助かる」
「えへへ、おやくにたてて、わたしとってもうれしい!」
「可愛い子じゃ」
イェレナは同じような背丈の少女の頭を撫でた。
「のう、悪しき人間よ。ここは魔王領、花と歌の街なのじゃ。詫びるなら今じゃぞ。詫びずに暴れるなら、泥の追加サービスをくれてやる」
「歌だぁ? 泥で遊んでろ、死にぞこないの獣どもが」
男は笑い、暴言を吐き捨てる。勢いのまま泥から足を抜くと、観衆の脇を押しのけて突っ切ろうとした。
その瞬間、ぬるっとした地面に足をとられた。
泥藻の二段。
足の裏が空を掴み、身体が半回転する。今度は後頭部から泥へダイブ。
べちょ。
鈍くて軽い音が響く。
「うわぁ……」
呆気にとられる声とともに、港の子どもが「音、きれい!」と純粋に拍手する。
大人たちが耐え切れず吹き出し、笑いが連鎖する。
男は泥にまみれた顔を上げ、目に入った泥を乱暴に拭った。
逆上している。
短剣は失い、投げ刃は泥の中。
それでも腰から細い針を引き抜き、ミトスへ向けて腕を振った。
反射。
「花嫁が、守られていないとでも思った? そんなわけないよね? ……おばかさん」
ソリンが笑う。
ミトスの足が半歩下がり、肩の力が抜ける。ここで覚えた剣技を披露することを選び、ミトスはリズムをとった。
三・五・三。
花の和音が胸骨に沿って鳴り、針が来る角度が見える。
当てて、逃がす。剣の腹で針を払う。針は方向を失い、泥へ吸われた。ミトスは剣を収める。
「無駄です」
ここは魔王領、花と歌の街。
刃の音で終わらせる必要は、ない。
「……降参を」
声は静かに落ちた。慈悲深い言葉に、無慈悲な音。
「断ったら?」
「彼女に対する無礼を、ここにいる誰もが許さない」
ソリンの言葉に、その場にいた人間たちの視線が、一斉に男へと向けられる。色も光もない、視線だけ。
もちろん、仲間たちも見ている。誰一人、男をこのまま逃す気はなかった。
「けっ。これが四面楚歌ってやつか」
男は荒い呼吸のままミトスを睨み、次の瞬間、観念したように肩から力を抜いた。
「……捕まるのは仕事じゃないんだがな」
「悪いようにはせん。街に嫌われたくなければ、大人しくするほうが得策というやつじゃ」
イェレナが泥の縁に腰を下ろし、尻尾でリズムを刻む。
「さて、魔王様の元へ連行なのじゃ。歩けるか?」
「歩くさ」
男は泥をがばっと払い、立ち上がった――瞬間、足がずるっ。
三度目の泥藻。
「なんてこった」
「あいつは運がないな」
「流石に三度は……もうちょっと、周りを見たほうがいい」
人は三度笑う。
市場は歓声に包まれ、太鼓屋がちゃっかり拍を刻み始めた。
「のう、これなら前の勇者に仕えていたころよりも、有名になれると思わんか? お主、よく見れば目立ちたがりな顔をしておる。その格好に似合わず」
「イェレナ、煽らない」
「煽ってなどおらぬ。これが真理なのじゃ」
城へ向かう道、男の両手には簡易拘束具がつけられていた。逃げ出す気配はなかったが、建前としての記号だ。
ガァトが無言で先導し、ミリアが後ろで監視し、ソリンは横で歩調を合わせる。
ミトスは少し離れた位置から、イェレナとともに様子を見た。
「……何だか歩きづらそう」
「あの泡がまとわりついておるのじゃ。自業自得」




