第38話:潜入者_1
朝の鐘が二度鳴り、城下の影が短くなる。
市場の屋根からは干された魚が潮風に揺れ、通りの角では花売りの少女が、夜の歌を覚えた花の鉢を日向に移していた。
「ふんふん……ふんふん……」
少女の鼻歌が風に乗る。花の香りも一緒に、海へと運ばれていく。
――そんなのどかな音の粒の隙間に、一つだけ違う響きが紛れ込む――足音。軽く、速く、癖のある走り。
門番の合図が石畳を渡り、すぐに城の回廊へ届いた。
「……侵入者一名。屋根伝いに北街区へ」
短い報告と同時に、黒衣の影が立つ。ウィルだ。
金の瞳が一瞬だけ細くなり、すぐに普段の穏やかさに戻る。
「ソリン、先手を。――ガァト、地上の誘導を頼む」
「もちろんだよ」
「……あぁ」
ミトスは窓辺に置いていたショールを取ると、自然に腰の剣へ手を伸ばしていた。
冷たい柄の感触が、胸の鼓動を落ち着かせる。
「私も行く」
言えば止められるかもしれないと思った。だが、行かない選択肢はない。その瞳の奥の覚悟を知ってか、ウィルは頷いた。
「境界線の内側をついて来い。危なければすぐに呼べ」
「うん」
返事は短いのに、胸の奥に『信頼』の熱が灯る。
城門を出ると、ソリンは既に屋根に上がっていた。薄い金色の髪を風に流し、鞘に指を置いた姿は、そのものが静かな刃だ。
見上げるミトスに目だけで合図し、瓦の波を音もなく渡っていく。
地上はガァトが受け持ち、路地と路地の角で重い体を驚くほど機敏に回し、逃走の線をじわりと削っていく。
仲間の魔物への指示も忘れない。ガーゴイルとドラゴンが空から、侵入者を警戒していた。
いつかの蛇竜は、ジッとガァトの足元で時を待っている。
「グルルルル……」
喉を鳴らす。魔物たちの準備は万端だ。
――侵入者は、細身。布で顔の下半分を隠し、軽装の革鎧に、短剣と投げ刃。
屋根の縁にかけられた足は猫のように柔らかく、着地の時だけつま先が僅かに外を向く――斥候の足だ。
ミトスは胸の底で、古い記憶がざらりと擦れるのを感じた。
(……多分、私は知ってる、この歩き方)
「師匠か」と問われれば、答えはNOだ。それに、彼ならばもう一度会っている。わざわざ姿を隠す必要はない。
追いつめられた侵入者が、瓦の上で振り向く。
目が合う。
薄茶の虹彩、軽蔑を装った笑い皺。真っ白の髪に、筋張った手足。
名前は、喉まで出かかった。でも、本当の名では呼ばない。
彼は『元勇者隊の斥候だった男』――かつて、ミトスが前に出る”めの影として使われる予定だった、前衛。
元は師匠とともに、魔王討伐の旅へ出ていた。結果を得られず帰ってきた後は、ミトスに旅の話をしながら、再度魔王討伐へ出るために、訓練を怠らなかった。
男は布の下で口角を上げ、わざとらしく深く礼をした。
「おや、元勇者様。ごきげんよう。……魔王の膝の上は座り心地はいかがかな?」
ミトスの腹の奥が、薄く冷たくなる。その冷えを、足裏で石に流す。
「随分なご挨拶ね。ここは魔王領。屋根の上で声を張るのはこちらの流儀に反する。……高所からは降りて話すのが礼儀よ」
「礼儀? はっ、初戦は魔族の遊びだろ」
男は瓦の端に足をかけ、体重を逃がす角度で短剣を抜いた。
ソリンの瞳が一瞬だけ細くなる。
「落ちたいなら、手伝うよ?」
「冗談キツイね、元魔王候補様」
「嫌だな、君も知っているクチか」
「当たり前だろう。それにその顔……なかなかいい顔を持ったじゃないか」
薄っぺらな言葉に、ソリンが目を細めて笑う。口元は角度が付き、眉も下がっているのに、瞳の奥は冷たい。
「のうのう、そんな場所におっては、どこにも逃げ場はないのじゃぞ」
反対側の屋根から、イェレナがひょいっと顔を出す。尻尾が楽しそうに揺れている。
「前はソリン、下はガァト、後ろは屋根の切れ目。こちらは……わしじゃ。ほぅれ――飛ぶなら今じゃぞ? どうじゃ、若造」
「何、お望み通りすぐに飛ぶさ」
男は笑い、足を踏み切った。
だが、跳んだこの場は、魔族領。
屋根と屋根の狭間、宙に張られた洗濯物を干すための竿……に見せかけた、風見糸。
目に見えづらい透明の糸が、男の足首をすくう。
「……っ!」
空気を切る音。
男の身体が半回転し、石畳に背から叩きつけられた。肺の空気が抜け、咳が零れる。
イェレナがぱちぱちと手を叩いた。
「のう、魔王領は風を読むのじゃ。屋根の間には風見糸。鳥も盗人も、風を知らぬ者は落ちるのじゃ。……当たり前を知らぬは罪じゃのう」
「クソ猫が……!」
男は身をよじり、投げ刃を二枚、続けざまに放つ。
そこへ、ソリンの鞘がひと振り落ちる。金属音はほとんど鳴らず、刃は軌道を失って屋根の向こうに消えた。
「お返しはすべきだよね」
ソリンが瓦を蹴る。
次の瞬間には、男の手首に冷たい痛みが走っていた。短剣が石畳へ落ち、澄んだ音が一度だけ鳴る。
地上の人垣がざわめく。
いつの間にか市場の人々が、息を潜めて見守っていた。
ミトスは瓦の縁から飛び降り、通りの角で男の逃げ道を切るように立つ。
「ここは花歌いの街。人と魔族がともに暮らす場所。嘘は嫌い。争いも嫌い。――あなた、何をしにきたの?」
「ふん。俺はただ見に来ただけさ。堕ちた勇者がどれだけ幸せそうに笑ってるか」
軽い嘲り。
けれど、その裏に仕事に対する厚みがあるのを、ミトスは知っている。
男の視線は常に出口を探し、足は低く反発している。
――逃げる気だ。
「ガァト!」




