第36話:愛しいの声_1
夜の帳が降りて、虫の鳴き声がリンと響く。音は軽やかに、色は甘く。
ミトスはウィルの部屋の前で、落ち着かない様子でウロウロとしていた。着ているのは、プレゼントに貰ったワンピース。ウィルから渡されたものの、なかなか着る機会がなく、しまったままだった。
「……よし!」
意を決して、扉の前でノックの形に手を置く。ミトスの部屋は今、ウィルの隣の部屋だ。用意してもらった部屋は広く、内装もミトス好みにしてもらった。初めこそ遠慮をして殺風景な部屋だったが、ミリアとソリンの尽力により『彼女が好む部屋』となった。
爽やかな色味でまとめられた部屋は、彼女にとって『落ち着く部屋』となった。もちろん『帰りたい場所』でもある。
「ふー……落ち着け、落ち着け私……!」
いざこぶしを作ってみても、扉を叩く動作へ至らない。『大丈夫、心配ない』と、なんとか自分に言い聞かせ、ようやく震える手で扉を叩いた。
コンコン――
「あ、あの! ミトス、です……」
なんと切り出して良いかわからなくなり、思わず敬語になる。中にウィルがいるのはわかっている。まだ眠っていないことも。
「……どうした?」
「えっ、あっ」
静かに開いた扉の向こうから、ウィルの声が聞こえる。
「中に入ると良い」
優しい声で、ミトスを部屋へ入るよう促した。
「どうかしたのか? 珍しいな、ミトスがこんな時間に部屋へ来るなんて」
「あ、う、うん。そうだよね、珍しいよね……」
「うん? 怒っているわけではないぞ?」
「わかってる! んだけど……」
モジモジとしているミトスを見て、ウィルは考えた。特に約束事はしていない。事件が起こった知らせも、訪問者の話もない。
俯くミトスの全身が視界に入った時、それらしいことを思いついた。――今着ているワンピース。
「そのワンピース、私が送ったものだな」
「あっ、あ! そうなの! そうなの! あの、全然着るタイミングがなくて、それで……」
「見せに来てくれたのか?」
「そう、です……」
恥ずかしそうにスカート部分を握るミトスを見て、ウィルはフッと笑った。
「わざわざありがとう。よく似合っている」
「こちらこそありがとう! ……本当は、もっと早く着て見せたかったのだけれど。タイミングが全然なくて……」
「視察や稽古も多かったからな。その格好でドラゴンも乗りづらいだろう」
「それはうん、確かに……」
「もし、そういった服が嫌いじゃなければ……これからも送ってもいいか?」
「嬉しい! 私、ずっと動きやすさ重視だったから……。あ、これも動きやすいのよ? でもちょっと、裾がヒラヒラってなっちゃうから」
ミトスがその場で回って見せると、布地の多いスカート部分がふわりと広がった。表面には細やかな刺繍、金と銀の糸を中心に、花柄が施されている。職人の手作りだ。裾や胸元にはふんだんにフリルが使われており、可愛さと豪華さが両立している。
生地にもこだわっており、人間領の貴族や王族が好んで仕立てるもので、まず庶民かそれ以下の生活をしていたミトスの手に届くことはなかった。
「本当に、とっても素敵。柔らかくてスベスベで、ふんわりしてるの! それに、こんなに細かな刺繍、どうやってやったのかしら……」
「すべて職人たちがやっている。こういう作業は、私たち魔族よりも人間のほうが得意な者が多い」
「そうなの?」
「あぁ。私の普段の服も、作ったのは人間だ」
「あれ!?」
ミトスは目を丸くした。普段ウィルが着ている服は、今自分が着ているワンピースよりも、ずっと多く、それも細かい刺繍が入っている。
「糸に魔力が込められている。そのワンピースもそうだ。もし、私たちが誰もついて外に出られない場合は、それを着ていくといい。加護がある」
「わかった! それなら安心ね!」
「……『魔族なのに加護があるなんて変だ』と、そうは思わないのか?」
「今さらよ! だって、この魔族領では、物は歌うし歌は魔力が乗るし、直接的な争いは避けるじゃない。何にも不思議じゃないわ」
「そうか」
「人間領にいた時のほうが、よっぽど心配事が多かったもの。今のほうがずっと……ずっと安心して暮らせているわ」
そう言って、ミトスはウィルを抱き締めた。
「ありがとう。私をここに連れてきてくれて。ありがとう。私を花嫁にしてくれて」
「……まさか、改めて礼を言われるとは思わなかった」
「そりゃあ言うわよ!? ……ウィルと争うことになっていたら……今考えると、恐ろしくてとても無理だもの。他のみんなもそうよ? 刃を向けることにならなくて、本当に嬉しい」
ウィルはそっとミトスを抱き締め返した。
あのタイミングでウィルがミトスを迎えに行かなかったら、今ごろ二人は血で血を洗う戦いをしていたかもしれない。ウィルだけでなく、ミリアやガァト、ソリンとも対峙していただろう。
正直、稽古へ参加していて、この城で働く魔族や魔物たちの力は、ミトス一人でどうこうできるものではないと感じていた。勝てるとは思っていない。
力では勝てない、同族同士の結束でも勝てない。
そして、何よりその優しさを知って、勝ちたいとも思わなくなっていた。




