第35話:覚えたての剣歌_3
クルシュが短く復唱する。
ミトスは、壁際の器棚に近づき、器の縁に指を置いた。イェレナが横で低く鼻歌を歌い、器の心を少しだけ起こす。器は、くすぐったそうに鳴き、縁の光を一度だけ揺らした。
「ねぇウィル。これ、匂いはもう薄くなっていると思うの。でも、どこへ向かっているのかはわかる」
「どこへ?」
「旧礼拝堂跡地」
ミトスは目を閉じ、鼻で歌を聴く。器が覚えている手の感触。良い人の手だ。善意は、嘘をつける。だからこそ、歌でほどくしかない。
「『花歌い』をここでやるのじゃ。お主、構わんかのう?」
「まぁまぁ、もちろん構いませんよ。とてもお祭りが素敵でしたから。大歓迎です」
「それはありがたい」
イェレナが机の上に小さな花鉢を置き、息で和音を立ち上げた。
「導く歌と守る歌のどちらが正しいか、器と人に尋ねるのじゃ」
集会所の人々は戸惑いながらも席に着き、ミリアが窓を開けて潮風を通す。ミトスは深呼吸し、短い言葉を置いた。
『怖さを薄める歌』と『進む方向を塗る歌』の違い。『灯り』と『押し』の違い。
花が、真ん中の音で揺れる。押しは嫌う。灯りは受け入れる。
器の縁の光が、スッと薄まった。
正しいは灯り。間違いは押し。誰かが、誤った何かをこの地へ導こうとしている。
最後まで聞いて、年配の女が額に手を当てた。
「……ごめんなさい。私たちは、良かれと思って」
「わかっています。だから直せばいいんです」
ミトスは微笑み、器の縁をもう一度撫でる。
「子どもの手に、灯りを」
花が小さく笑い、集会所の空気が湿り気を取り戻した。ウィルが女たちに短く礼を述べ、クルシュに目配せする。
「旅の祈りの男を追う。結果が気になって、港に戻るはずだ」
夕刻前、旧礼拝堂跡地。
境界の花は昼より少し低く鳴り、石の影は長い線を引き始めていた。
当たり前ながら、師の顔はない。ソリンが立ち会いを続け、ガァトは丘の下で子どもたちの帰り道を見守っている。
空は薄く、海は遠い。
ミトスは、台座の角に手を置き、歌と息を合わせた。「また来るよ」と言った背中が、どの風に乗るのか、まだわからない。『一人じゃないよ』と言ってくれる灯りが、今は自分の中にあるのが救いだ。
石段の上から、軽い足音。イェレナが走ってきて、尻尾を高く掲げた。
「港で旅の祈りの男を捕まえたのじゃ! これがまた、悪意はなくて『遠くの学びの場と繋がっている善い術だ』と、本気で信じておったのじゃ」
「学びの場?」
「名は出さぬ。集いは名を使わぬのじゃ。学びの場はおそらく……大人たちの社交の場。つまりは様々な思惑が絡み、誰もが弁える場所。嘘を吐くことが美徳。困ったやつじゃ。じゃが、手紙の水印と匂い――港の外れの倉庫に印刷の型と墨。そこまでは追えたのじゃ」
クルシュが後ろから歩いてきて、銀の筒を差し出す。
「水印は旧礼拝堂跡地と同系統。やはり中継を作る意図です。……大人の善意を足に使い、子を道しるべに」
「やな手口ね。全部ミトスちゃんが行く場所じゃない」
ミリアが呆れた声で言う。
「歌で潰す。剣は境界で迎える」
ウィルの言葉に、場の温度が定まる。ミトスは頷き、柄にそっと触れた。
得体が知れない『怖い』はまだ半分。
喜んでいいのかわからない『嬉しい』も半分。
もう一度『会いたい』は――言葉にすると溢れそうで、まだ胸の中だけで握っておく。
風が変わる。花の音が一段、低い鈴を混ぜる。
斜面の木陰から、夕陽の欠片が跳ねた。影は現れない。だが、声だけが、境界の上で止まった。
「灯りは、誰にでも売るのかい?」
軽やかで低い声。朝と同じ、しかし少しだけ近い。ミトスは正面を向いた。
「欲しいと意思がある人にだけ」
「そうなんだ。ボクでもその意志があれば?」
喉の奥が、熱くなる。
ミトスは、花の音に合わせて呼吸を一つ置き、答えた。
「――いつでも。……けれど、灯りは『一人じゃないよ』と言うだけです。道は、自分で選んでください」
少しの沈黙。それから、微かな笑いにも似た息。
「そっか」
境界の花が、短く祝意の鈴を鳴らす。
声は続ける。
「次は、ちゃんと名前を持ってくるよ」
空気が、音を一つ吸い込み、解けた。足音はない。背中は、気配だけ残して遠くなる。
ウィルが傍に来て、手のひらを上に向けた。差し出すでも、掴むでもない、ただそこにある手。
ミトスは、迷わず重ねた。指先が触れた瞬間、境界の花が甘い鈴を鳴らし、風が和らぐ。
「よくやった」
「……ありがとう」
丘を下る途中、イェレナが後ろから跳ねてきて、袖をつまむ。
「のうのう、そろそろ甘味の時間なのじゃ。境界の緊張は糖で解くのじゃ。すこぶる緩くなろうて」
「確かに、頭が少し疲れちゃったかも。今日は私が奢るわ」
「よい心がけなのじゃ!」
城に灯がともりはじめ、灯台の鈴が二度鳴った。
集いの倉庫には写しの型が残され、善意の器は灯りの歌で洗い直される。
旧礼拝堂跡地の花は、嘘を嫌う和音を低く保ち、海の向こうの背中は――次に名を持って来る、と言った。
ミトスは胸の内で小さく息を吐き、甘さの行き先を確かめた。
『一人じゃないよ』と言われて救われた夜から、今は自分が誰かにそう言える。灯りは売れる。買う意思があるなら、誰にでも。――そして、自分自身にも。
夜のはじまりに、鐘が一度だけ鳴った。鈴の音が重なり、城は家の顔のまま微笑む。甘味の皿の上で、砂糖がサラサラと小さく歌った。




