第33話:覚えたての剣歌_1
朝の光は穏やかだったが、城下の空気は昨日より後ろ向きに張り詰めていた。旧礼拝堂跡に歌の境界を引いて一夜が明け、花鉢は夜露を受けて鈴のような和音を一度だけ鳴らしている。
境界は無用の戦いを遠ざけ、正しい来訪者だけを通す――はずだ。それに、今のところ何も問題は起こっていない。それでも、胸の奥で薄い波が泡立っては消える。
拾った羽根は、まだ微かな匂いを宿していた。ミトスが思い当たる節を語らずとも、その場にいた全員が何かを察し黙っている。彼女の口から答えが出るのを待ちながら、例え出なくても責めることなど決してしない。
羽根の香りの危うさを抱えながら、再度境界へと向かう。異変はない。が、いつ起きてもおかしくない。花の歌は全てを知っている。知っているけど歌わない。歌う時を待っている。
ミトスが支度を終え、回廊に出るとウィルが立っていた。黒衣の襟元はいつもより少し固く留められ、金の瞳は明るいのに、底に静かな決意が落ちている。いつも見ているはずなのに、知らない色をしていた。
「境界へ向かう前に、合わせておきたい」
「……剣?」
「剣と歌。今まで触れてきたもの全てを、境界に合わせる」
そう言うと、彼はそっとミトスの鞘に触れ、柄頭を一度だけ、スッと押した。手癖のような、でも確信のある触れ方。
『この人は過保護と言いながら、いつも自分の安心より、私の選ぶ意思を先に尊重してくれる』――そうミトスの心が語る。
「怖いなら言え。遠慮はするな」
「……怖い。でも、ほんの少しだけ」
「よし。怖さの根底は同じだ。消えそうなくらいほんの少しでも、溢れるほど多くても」
ウィルは満足そうに小さく頷いて、眉根の影を解く。
「怖いと言える者は、境界で迷わない。怖いと認めることは強さでもある。お前は強い」
そう言って、少し考えた後、ウィルはミトスの唇にそっと口づけを落とした。
「私がいる」
「……うん、知ってる」
ウィルの両手がミトスの頬に触れる。優しさの溢れる指先に頬を摺り寄せ、その匂いを確かめた。
この先、何があっても迷わないように。
――旧礼拝堂跡に着くと、花鉢の音が迎えた。四隅の白と桃の鐘形が、微かな和音で「ここが舞台だ」と知らせる。
ミリア、クルシュ、ガァト、そしてソリンが既に配置につき、視線は外へ、耳は内へ。イェレナが台座の縁でぴょんと跳ね、指先で空を撫でた。
「のう、空が乾いておるのじゃ。風向きも良い。嘘は鳴りにくいじゃろう」
「そうだね。じゃあ始めようか」
ソリンが短く告げ、ミトスに目配せする。それは「守る」ではなく「任せる」目だ。
ミトスは花鉢の内側、台座から半歩下がった位置に立った。足裏で石の冷たさと粗さを拾い、膝と肩に余白を作る。ソリンの手合わせで思い出した「形に帰る」が、スッと胸の内へ降りてくる。
『足を止めるな』
『立っている限り――』
古い声は、今日は刃ではなく夜の灯のように近い。
「ほれ、花の歌と合わせるのじゃ」
イェレナが囁く。
「剣の形と花の和音を、呼吸の数で合わせるのじゃ。三・五・三。……なのじゃ」
「三・五・三……」
「意識するのは最初だけ。無理は禁物。例えミトスが失敗しても、花たちが合わせてくれるからのう。心配せんで良い。後は身体が勝手に動く」
「イェレナの言う通りだよ。心配しなくて良い。みんなここにいる。一人じゃないよ」
ソリンの言葉に、ミトスの心に橙色が灯る。
彼女は息を数え、花の音にほんの少しだけ遅れて気息を合わせた。石畳に作った拍が乗る。境界が、居心地の良い面をこちらへ向けるのがわかる。『お前は舞台に立つ人間だ』と、場所が理解してくれる。
風が一度、向きを変えた。花が、ひそやかに花びらを鳴らし歌を歌う。境界の向こう――斜面の木陰から、足音が一つ。
砂を踏む軽い音ではない。重すぎもせず、軽すぎもしない。だが、確かに形のある歩み。間違いない。
影はゆっくりと輪郭を現し、境界の線で立ち止まった。
フードはなく、薄い銀色の髪が風に垂れ、目元の影は深い。青い目の光が消える。昔とは違う、病的に白い肌と、すす汚れた服と頬。顔を見れば、呼び名は一つしか浮かばない――けれど、唇は閉ざした。
名は道具。まだここで必要ない。
「……変わらないね」
低くて軽やかな声。乾いた光の匂いが、軽く、しかし芯を持って境界を撫でる。
それは昨日拾った羽根の匂いと同じで、空ではない中身のある光。
ミトスは一度だけ頷いた。
「お久しぶりです。……師匠」
名ではなく、関係で呼ぶ。それだけで彼は、片眉を僅かに動かした。
「師匠、か」
短く、古い響き。
「そう呼ばれるには、ボクはもう、心が消えてしまったかもしれないよ?」
「五百年若返っても、五百年年老いても、その中身が空っぽになっても、私は師匠と呼ぶと思います」
境界の花が、微かに笑うような音を足す。
ソリンが目だけで「良い」と伝え、ウィルは黙ってミトスの背と境界と、その向こうの男の剣の気配を測っている。
「ここは歌の場だ」
ウィルが初めて口を開く。
「剣は抜いてもいいが、歌に聞かせろ。――それが魔王領のやり方だ」
男はゆるく視線を動かし、境界の四隅、花鉢、台座、石の擦痕――全てを一度で記憶に落とし込む。耳は音を、鼻は香りを。僅かな重さも残さずに攫っていく。
――それは、誰でもない剣士の目。
やがて、鞘に触れた指を滑らせ、柄頭を小さく叩いた。
「歌は嫌いじゃないよ。上手いかと言われると、わからないけれど。うん、これは……試合ではなく、挨拶だ」




