第30話:花歌いの舞と剣と_2
午後の光が傾き始めるころ、中庭の端に、稽古用の丸太と砂地が整えられた。木剣は並べられ、水桶が二つ。
見守り役としてミリアが腕を組み、ガァトは寡黙に陰の位置へ立つ。ウィルはソリンとミトスの間に、イェレナは板に「見学席」と書き、監督を自称して胸を張った。
「のう、今日は戻す日なのじゃ。新しく覚えるより、置いてきた動きを取りに行くのじゃぞ」
「うん」
ミトスは深呼吸を一つして、木剣を取る。
掌に木の重み。汗を吸う匂い。柄を握る瞬間、身体が先に形を思い出す。右足半歩前、膝に余白、肘は下げすぎず、肩に力を溜めない――
『足を止めるな』
『立っている限り、お前は負けじゃない』
背中に、古い声がふっと降る。名を呼ばない、あの師の声。
ソリンが対面に立ち、構えは低い。木剣を交える前に、視線がぶつかる。
「初めは触れるだけだよ? 僕たちは、初めて剣を交わすからね。斬らない。押さない。――確かめるだけ」
「はい」
木剣が、そっと触れ合う。
一、二、三――呼吸と同じ速さで、線だけを往復する。力はほとんど使わないのに、前腕の筋が目を覚まし、足の裏に地面が戻ってくる。
十呼吸目で、ソリンが少しだけ角度を変えた。ミトスの手首は自然に受け、返す。
十五を数える時、彼の口元が僅かに緩んだ。
「――あぁ、いいね。もう戻ってきた」
「いえ、まだ途中です」
「途中でいいんだよ。完璧じゃないものも美しい」
触れの稽古が終わると、次は受け、払い、踏み返し。打ち込む気配に、身体が勝手に先回りするのを、ミトスは自ら躾け直す。
急がない。焦らない。
師が常に背中で教えたこと――急いだ時ほど始めの形に帰れ。形に帰るたび、胸の内の恐れが薄くなる。
強くなるためではなく、まずは自分に戻るため。ミトスは、それを初めて、心から理解できた気がした。
最後に、短い合わせ。
木剣が三度、硬くも柔らかくもない音を鳴らし、二人の間に春の空気がふっと通り抜けた。
ソリンが木剣を下ろす。
「ここまで」
ミリアが指笛を吹き、イェレナがバンザイする。
「よいのじゃ! 音が戻ったのじゃ! 剣の音は心の音なのじゃ! 流石じゃのう、ミトス!」
ガァトは無言で頷き、水桶を差し出す。桶の水で手を冷やすと、皮膚がじん、とする。
ウィルが濡れた布を受け取り、ミトスの指を一つずつ拭った。
「痛むか?」
「平気。……少し、懐かしいだけ」
「懐かしさは、武器にも毒にもなる。――今日は武器だ」
――ふと、風向きが変わった。庭の花が、一斉に首を揺らす。ミトスの鼻腔に、ほのかな匂い――甘さでも、土でもない。乾いた光。
昨日、校舎で感じた空の祝詞とは違う。これは、空っぽではない。熱は弱いが、核がある。
(……誰? まさか?)
見張り台から、鐘が一度だけ小さく鳴った。クルシュが回廊の向こうから歩いてきて、最小限の声で告げる。
「城壁の外、旧礼拝堂跡に、白金の羽根。焼き痕あり――但し『祝炎』ではなく『剣摩』の擦れ。光の者が、地を踏んだ印でございます」
ウィルの目が細くなる。ソリンは笑っていた。ミトスは、胸の奥が冷たくなり、すぐ、温かくなった。
剣を握り直す衝動が、指先にだけ浮かんで消える。イェレナが袖をちょい、と引いた。
「のう、怖いなら、わしが怖い。半分こ、なのじゃ」
「……うん」
旧礼拝堂跡は、城からそう遠くない。半年前に取り壊され、今は基礎石と半ば欠けた祭壇の台座だけが残る。陽はまだ高いが、そこだけ、風が乾いていた。
白金の羽根は、台座の縁に刺さるように落ちていた。根元が、わずかに焦げ、削れた痕。触れれば、まだ微かな熱。
祝炎ならば、熱は内から外へ広がるはず――これは逆だ。外側が磨れ、火花のような熱が残っている。
クルシュが皮手袋で羽根を取り、石の上に置く。
「見てください。擦痕は細く、角度は一定。剣の当て逃がしでしょう。……つまりはここで、誰かが軽く交えた」
ミリアが肩で息をして、笑った。
「誰と?」
「一人は光。もう一人は、無印。……剣筋は古いですね。癖が少ない」
ウィルがミトスを見た。ミトスは、吸い込む息よりゆっくりと吐く。
「――師匠、かもしれない」
名はまだ出せない。だが、背中の線は、目の裏側に鮮やかなまま立っている。
「ならば、こっちも形で迎えるのじゃ」
イェレナが羽根を覗き込み、尻尾を一度だけ振った。
「歌は整えた。鍵も整えた。あとは出会い方を整えるのじゃ。のう、ウィル」
「わかっている」
ウィルが周囲を見渡し、声を落とす。
「礼拝堂跡に暫定の境界を引く。ここから先は花歌いの場。剣が交わるなら、歌に聞かせる」
クルシュが頷き、すでに準備していた小さな花鉢を四隅に置いた。白と桃の鐘形の花が、乾いた風の中でひそやかに音を鳴らす。
ミトスは台座から半歩下がり、手のひらを胸に重ねた。
――恐れはある。 けれど、それは今、武器にもなる。戻した形の中に置けば、音にできる。歌にできる。
『一人じゃないよ』と灯りに言ってもらった夜から、ずっと先の今、自分が灯す番だ。
夕陽が石の縁を赤く縁取り、風の匂いに塩が少し混ざった。港の方角で、船の帆が二度鳴る。
白金の羽根はもう熱を失い、ただの羽根の顔をしている。けれど、空の高みでは、見えない何かが、確かにこちらを見ていた。
「帰ろう」
ウィルの声は静かで、手は温かい。イェレナが石畳を鳴らし「夕餉までに甘味の確保が必要なのじゃ」と真顔で言う。ミリアが笑い、ガァトは黙ってその背後を受け持つ。クルシュは先頭を、ソリンが殿を歩く。
石段を上る足音が、七人ぶん、等間隔で重なる。境界の花が、最後にひとつだけ、音を鳴らした。
――嘘を嫌う音。
明日の風向きが、僅かに変わる予感の音。
夜は来る。
だが、鍵は歌い、剣は形を取り戻し、灯りはここにある。
誰かの背中が振り向くなら、正しく会えばいい。ミトスはそう思い、胸の内の甘さを確かめるように、小さく息を吐いた。




