第28話:灯り売りの物語_3
「誰が、その印を?」
少年は、パンを握りしめたまま口をギュッと結ぶ。ミトスは問いを押し込めた。
「大丈夫。痛いことはしない。……ここに来いと言われたなら、それは嘘だった。だって、扉も鍵も、怖がって固くなっていたでしょう? 怖いところに、子どもは入れないもの」
投げかける言葉は静かに、ゆっくりと優しく。少年の肩の力が、ほんの少し抜けた。
そこへ、靴音が響いた。後を追いかけてきたウィルが扉の影に立つ。金の瞳が、暗がりの中の印を一目で捉えた。
「ミトス、今すぐ外へ」
声は穏やかだが、命令だった。ミトスは素直に下がり、少年の背に手を添える。
イェレナが印を覗き込み、鼻をひくつかせた。
「ふむ……この光の掠れ。古い聖句の型だけ借りて、中身は空なのじゃ。匂いだけが残っとる」
「匂い?」
「光の匂いは、時に嘘を正しく見せるのじゃ。これは子に正しい場所と思わせるための空の祝詞じゃ。つまりは形だけの偽物じゃのう」
ウィルが短く息をつく。
「誰かが学校を――いや、ミトスを試した、ということだ。正面ではなく、子どもの手で」
先生が蒼ざめる。
「そんな……!」
「大丈夫。今日はここで終いにしよう。子どもたちは中庭へ。クルシュに錠前を換えさせる」
ウィルの指示は早く、揺れない。少年がミトスの袖を少し引いた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ。嘘を吐かれたんだもの。怖かったでしょう? もう大丈夫よ」
少年はこくりと首を振り、残りのパンを胸に抱えた。
「痛いところは? そのパンが美味しかったのなら、残りもあげる。さぁ、どうぞ」
もう一度縦に首を振って、少年はパンの片割れをもらい受けた。
中庭へ戻ると、太陽はさっきより暖かく、鐘楼の影が少し伸びていた。子どもたちは歌の続きを歌い、先生は声を張り、イェレナは尻尾で拍を取り、ミトスは壁にもたれて息を整えた。手のひらには、黒い羽根の柔らかな感触が残っている。
(――誰?)
問いは、胸の内で海風に混ざる。師匠……エアリルの名を思い出しそうになって、やめた。
あの人の匂いはもっと眩しく、もっと熱かった。これは、乾いている。古くて、空っぽで、少しだけ悲しい匂い。
……ふと、制服の裾が引かれた。さっきの角の少年が、目をまん丸にして立っている。
「おねえさん『灯り売り』みたい」
「え?」
「『一人じゃないよ』って言ってくれるからまるで、灯り売りみたい」
ミトスは、何も上手に答えられなかった。ただ、頭を撫でた。――一人じゃないよ。自分がこの街にいる限り、できる限り、そう言い続けようと思った。
その日の帰途。丘を降りる道で、ウィルがミトスに歩調を合わせる。
「……すまない。楽しい日に、影を入れた」
「そんなことないわ。ウィルが着てくれてよかった。……それに、例え影があったとしても、見つけたら、光を灯せばいい」
「灯り売り、か」
「今日、あの本を読んだの。みんな喜んでくれたわ」
「今夜、私にも読んでくれ」
「ふふ。お客さまは一名さま限定です」
「嫉妬する」
「本当に? あの男の子が『灯り売りみたい』って言ってくれたの。私のこと」
「お前は……ミトスは、私にとって光そのものだ」
「それなら、ウィルだって私の光よ。私に、光の灯る場所を与えてくれた人。それこそ、灯り売りと同じ」
「魔王の私が?」
「時には、人間のほうが残酷なものよ」
二人の笑い声を、風が攫っていく。イェレナはその後ろで、黒い羽根をひょいと摘んで目を細めた。
「のう、これは海の向こうの匂いがするのじゃ。けして新しくはない。――古き背中のほうじゃ。言い方によっては『懐かしい』かのう?」
ミトスの足が、半歩だけ止まる。イェレナは尻尾でぽんと彼女の膝を叩いた。
「何、そんな顔をするでない。怖いなら、わしも一緒に怖がろう。……それで、半分になるのじゃ」
城門の前に来ると、ガァトが立っていた。
「おかえり。そろそろ見回りの交代時間でな。来てみたらちょうど。……学校の件、聞いたぞ」
「ありがとう。蛇竜の仔は?」
「屋根にいる。顔を見てやってくれ、ミトスに会いたがってるみたいだ」
「よかった。すぐに会いに行くわ」
ガァトは頷き、ウィルに向き直る。
「……門番を増やそうと思いますが、良いですかね。ここのところ、夜の影が厚くて暗いんです。少し、嫌な予感が」
「頼む」
短い言葉が行き交うだけで、街の空気がキュッと締まる音がした。
夜。
『灯り売り』のページをもう一度めくる。ウィルはソファに座り、ミトスの声をただ聞いている。イェレナは窓辺で丸くなり、尻尾だけが音に合わせて揺れる。
最後の一文を読み終えた時、外で虫の翅音がふっと高く鳴って、すぐ戻った。
嵐の予告には、まだ早い。けれど、海の向こうの誰かが、こちらへ顔を向けた気配が、ほんのわずかに肌の上を撫でた。気付いているのは、数人だけ。
「ミトス」
「何?」
「この灯りは、誰にでも売るのか?」
「……ううん。買う意思がある人にだけ」
「なら、安心した」
ウィルは彼女の手をとり、手のひらの黒い羽根をそっと挟んだ。
「これは、私が預かる。もう残った匂いは薄い。今夜は早く眠れ。……慣れないことをして、疲れただろう」
「うん。ありがと」
灯りを落とすと、部屋はやわらかい闇で満たされる。心臓の鼓動は落ち着いて、イェレナに内緒で甘い呼吸が重なると、遠くで鐘が一度だけ鳴った。
夜は深く、街は『家』の顔を保ったまま。誰もが帰る場所。黒い羽根は、金の瞳のそばで、ただの羽根に戻っている。
それでも、海風は扉の隙間で遊び、見えない背中は、確かにどこかで歩き出していた。




