第25話:たくさんの出会い_4
――次は、昼下がりの港町。
人間領側の波止場は、潮風と縄の匂いに満ちている。古い木の扉を押すと、酒場の昼のざわめきがぼんやりと耳に落ちた。旅装束の人足、帳簿をひっくり返す商人、酸っぱいワインの匂い。
カウンターの端に、フードを深くかぶった人物がひとり座っている。背は高く、姿勢はまっすぐ。杯を持つ左手の指が、節ごとに引き締まっている。動きに無駄がない。扉の鈴が鳴っても、顔は向けない。だが、その背中は、部屋の全てを見ていた。
「聞いたか? 魔族領の春祭りの話だ」
酔客が声をあげる。
「元勇者の娘が、魔王に果実を贈ったって話だ。そん時、甘い香りが広場いっぱいに広がって――」
「あぁ、心臓果って変な果物だろ? 見た目は酷く気持ち悪いが、使い方によっちゃあ甘美な一時を味わえるって話だ」
「そうそう! それだよ! 実際に見に行ったヤツが」
「馬鹿言え、魔族のまじないだろ」
「いや、コイツの言う通り本当だ。通行札を無効にされた連中が戻ってきて愚痴ってた。『師匠に報告する』ってさ」
「はは、師匠ね。誰のさ」
「知らねえよ。有名な元勇者の知り合い、誰かだろうさ」
「師匠に言いつけてどうすんだ。肝っ玉がちっちぇえな」
「だから無効にされるんだろうよ、通行証」
「そりゃあ言えてる!」
「おいおい、もうちょっと労わってやれよ」
フードの人物の指が、杯の縁を一度だけ軽く叩いた。音は小さく、しかし澄んでいる。店主が気づかないほどの僅かな仕草で、肩に力が入って抜けた。人差し指と中指の間に、細い傷が一本。古い、剣の人間の手。低い声が、グラスの内側へ落ちる。
「……甘い香り、か」
独り言は、波にほどける砂のように小さい。やがて人物は立ち上がって深くフードを被り直し、代金を置いて出て行った。
扉が閉まると、誰もがわずかに息を吐く。そこにあったのは、名を名乗らずとも空気を変える重さ。背中の線は、まっすぐで、酷く静かだった。
場所は変わり、夕暮れの城。
回廊の陰影は長く伸び、庭の花は夜の歌をゆっくり思い出し始める。ミトスは、昼に買った喉に優しい茶葉を煎れ、湯気を細く立ち上らせた。
庭の端では、ウィルとソリンの父である先代魔王、スワログがしゃがみ込んで土いじりをしている。立場に反してスワログは、植物と自分の庭をこよなく愛していた。
「その茶、香りがいいねぇ。夜に合う」
「明日、奥様のお庭に行く予定です。美味しいお茶なので、是非ご一緒したくて。スワログ様もいかがですか?」
「おや、それは楽しみだ。桜がね、今年はよく咲いてるんだよ。人間たちの領地ではよく見るらしいが、こっちではなかなか。ソニチュカくらいなんだ、あんなに綺麗に咲かせられるのは」
「それは、とても楽しみです」
「ワシも妻も、ミトスとお茶が飲めるのを楽しみにしておるよ」
のんびりとした声を背に、ミトスは茶をひと口飲む。喉が優しい風味に歓喜の音を鳴らす。胸骨のあたりがほんのりと温かい。
「ミトス、いるか?」
そこへイェレナが顔を出す。尻尾が夕風にふわりと舞った。
「夜ご飯の前に散歩なのじゃ。春の虫の翅音を聴きに行かぬか?」
「翅音?」
「うむ。春の虫は、嵐の前に少しだけ音色を変えるのじゃ。遠くの気圧が、翅にひそやかに触るゆえ」
「嵐、来るの?」
「来るかもしれんし、来ぬかもしれん。けれどな」
イェレナは石畳の縁にぴょんと飛び乗り、夜の庭を見渡した。
「見てみたいと思わんか? 季節の中で一瞬しか現れぬ音色を」
ミトスは笑って頷く。
「うん。見てみたい」
「では行くのじゃ!」
「イェレナ、そろそろ次のチェスの相手をしておくれ!」
「たまにはタラスを呼べ! わしはババァ……いや、ノルシエールとの茶の約束があるからのう」
それだけ言って、二人は並んで歩いた。
翅音は、確かにいつもより細かく、どこか遠い海の泡のような響きを含んでいた。ミトスは、胸の内の甘さを確かめるように、そっと息を吐く。
朝に守った小さな命。市場のざわめき。妻と呼ばれたこと。ウィルの腕。それら全部が、ここにいるという実感に変わって、骨の内側で静かに輝いていた。
回廊の角を曲がると、ガァトが立っていた。胸に抱かれているのは、昼の仔の蛇竜だ。
「巣の場所がどこかわかった。ここから近い。怪我も問題なさそうだ、今夜は城の屋根で寝る」
仔は固定布越しにちょんと鳴き、ミトスの匂いを嗅いだ。
「よかった。痛み、少しは楽?」
くい、と喉が鳴る。ガァトは大きな手で、照れ隠しのように後頭部を掻いた。
「無事でよかった。あの男には、連絡しておく。じゃあ、また」
「うん。いつでも」
イェレナが笑って手を振る。
「元気に飛ぶのじゃぞ、ちびすけ!」
仔は一度だけ翅を震わせ、ガァトの胸に顔を埋めた。
――夜の鐘が一度鳴る。
庭の花が静かに和音を作り、城壁の上を、春の風がやわらかく撫でていった。そこに聞こえる、虫の翅を擦る音と、合わせて喉を鳴らす音。穏やかでいつまでも聞いていられそうな、柔らかいメロディ。
ミトスはふと、遠い海の方角へ目を向ける。風に、ほんの少しだけ、塩の匂いが混じった気がした。嵐は、すぐには来ない。けれど、世界はいつも、どこかで次の一歩を準備している。
「そろそろ行こう。夜ご飯が冷めちゃう」
「うむ! 甘味も温かいうちが至高なのじゃ!」
「そこは、主菜の心配をして」
「甘味は主菜なのじゃ!」
笑い声が、夜の回廊にやわらかく響いた。灯りが一つ、また一つと増え、城は【我が家】の顔を見せる。その灯りの中心に、甘い香りと、小さな翅音と、確かな約束があった。
そして海の向こう――
名を呼ばずに噂を聞いた背中が、静かにこちらへ向き直る。まだ音にもならないほどの遠さで、しかし確実に。春の虫の翅音が、微かにその気配を告げていた。




