第22話:たくさんの出会い_1
朝の光は、石畳をゆっくり温めながら市場へ流れこんでいく。春祭りの翌日だというのに、城下の通りはもういつもの活気を取り戻していた。浮ついた足取りはどこかへいき、さっさと屋台の骨組みは半分ほど片付いて、代わりに常設の露店が色とりどりの布や香草を並べはじめている。焼きたての丸パンの香り、柑橘を絞る爽やかな音色、羊の乳から作ったチーズの淡い匂い。どれもミトスには、まだ少しだけ新しい。
「おはよう、ミトス嬢ちゃん。昨日の舞台、見事だったよ」
八百屋の親父が、瑞々しい根菜をドサッと籠に移しながら笑う。この領地の人間の大人たちが『嬢』とつけて呼ぶのは、ミトス本人の意向だ。『様』をつけて呼ばれていたが、どうしても落ち着かない。だから、お願いして「様ではなく、せめて嬢に」と変えてもらった。初めは「魔王の妻に不敬ではないか」と心配していた人間も「なるほど、彼女なら確かに」と、納得してそう呼んでいる。慣れない人は、まだ「様」だ。子どもは悩んだ結果、好きに呼ばせている。様でも、ちゃんでも。
「ありがとうございます。昨日は皆さんが支えてくれたおかげです」
「へぇ、そうやってすぐ礼を言うところが、きっとウィル様が大事にするポイントなんだな。わかるわかる。俺たちもみぃんなそうさ」
「みんな……」
「あぁ、みんな、だよ」
照れ笑いを浮かべた時、背中に小さな影がぽすんとのしかかった。
「ミトス、こっちじゃこっち! 市場と言えばまず甘味、これ常識なのじゃ! 早うこっちへ!」
イェレナが、袋菓子を両腕で抱えたまま跳ねている。甘いお菓子で満たされた、柔らかくズッシリと重い、茶色の幸せ紙袋。
「イェレナ、朝から甘いものは……」
「朝は脳が糖を欲しておるのじゃ。千年生きた賢者の助言は尊いのじゃぞ」
「千年甘いものいっぱい食べてきたの……? 身体、大丈夫……?」
「あははっ! イェレナ様、ミトス嬢に言われてるぞ!」
八百屋の親父がクスクスと笑うと、イェレナはムスッとした表情を見せたが、すぐに尻尾をピシッと立てて胸を張る。
「何を言う! 食は叡智に直結するのじゃ! ほれ、これなど【歌う砂糖】をまぶしてあるのじゃ」
「砂糖が、歌うの?」
「食べてみぃ。この砂糖はな、賢いんじゃ。音の密度、軽さ、色に流れ。ぜーんぶ知っておる。だからわかるのじゃ、人の好みがな。甘さと柔らかさ、それに口当たり。ほれ」
「賢い、砂糖」
この魔族領へ来て、不思議な食べ物は沢山見てきた。それなのに、まだまだ知らない食べ物が出てくる。手に載せられた砂糖を、ゆっくりと口へ運ぶ。半透明の欠片が揺れて、サラサラと微かな音を立てた。歯に触れると、砂糖自身が小さく和音を鳴らす。
「……美味しい。それに、音が可愛い」
「のう? 未来の味は音も美味いのじゃ。ここでしか味わえんよ」
「素敵な砂糖ね」
手に残った砂糖をペロリと舐めとると、イェレナは機嫌をよくして歩き始めた。まだ、ミトスの口の中には、歌の余韻が残っている。
少し歩くごとに、声がかかった。
「昨日の甘い香り、まだ広場に残ってるねぇ」
「ミトス様、果実に触れる手つきが綺麗だった」
「是非また、あの歌を聞かせてください!」
「思わず見惚れてしまいそうでしたわ、ミトス様」
ミトスは遠慮がちに「様はやめてください」と両手を振り、けれど、言葉の一つひとつを胸の内でそっと撫でる。こんなふうに名を呼ばれるのは、初めての経験だった。自分の存在が、意義が、ようやく認められた気がした。『ここにいて良いんだよ』と、受け入れてくれているのだ。それは事実だと、あの笑みが語っている。
次に向かった布屋では、店主の老女が薄手のショールを肩にかけてくれた。
「この色はあんたの瞳によーく似合うよ」
「ほんとに? じゃあ、これ……」
「代金はウィル様から「妻に良いものを」って預かってる。気にせず持ってお行き」
「……妻、妻」
たったそれだけの言葉に、心が解ける。喉の奥が温かくなった。
「嬉しいのじゃろ?」
「うん。すごく」
イェレナが、わかってるぞと言わんばかりに頷く。
「それからこれは、あたしからのお祝いだよ」
「えっ?」
ショールをまとめるためにはめられた、ブローチピン。綺麗な緑色の石が付いている。ジッと見ていたら吸い込まれそうなほど、深くて輝く緑。
「ほら、これもピッタリだ」
「でも、そんな」
「お祝いなんだ。普段、ウィル様によくてもらっても、返す手段がない。代わりに、あんたに返させておくれ。受け取らないんだ、あの偏屈は。全く、父親のスワログソックリだよ」
「お父様を、ご存じなんですか?」
「あぁ。……隣にいるイェレナも、アイツのことはよく知ってるさ。後は執事のクルシュ。……ささ、持って行くんだよ。また、店を覗きに来ておくれ」
「ありがとう! 次は美味しいお茶を持ってくるわ」
「それなら奥様……ソニチュカに聞くと良い。あの子はよく知ってるからね」
簡単に、先代魔王やその妻を、敬称なしに呼んでしまえる胆力。そこにミトスは驚いていた。
「布屋のババァ、もういいか?」
「はぁ!? あたしの十倍以上生きてるあんたに、ババァなんて言われたかないよ!」
「あーっはっはっはっ! ひひひっ! ……たまにはまた、一緒にお茶会をするのじゃ」
「生きてるうちに誘っとくれ!」
「そう言う間は簡単に死なんよ!」
口調は怒っているものの、まんざらでもない顔をしながら、店主の老女は二人を見送った。
「知り合い、なの?」
「まぁな。古参はよく知っておる。人間の中でも特に、わしらに協力的で敬意をもって接してくれるヤツじゃ」
「じゃあ私も、あの人に敬意を持たないとね」
「良い心がけなのじゃ! ではわしも祝いに、もう一つ甘味――」
「ふふふっ。それは口実」




