第17話:春祭りの招かれざる客_2
春祭りの音が、昼に向かって濃くなっていく。笛は軽やかに跳ね、太鼓は胸を揺らし、光の蝶は陽射しを浴びてさらに透き通る。屋台の列は川のように続き、その流れに身をまかせて歩くだけで、揚げ菓子の香りや焼き魚の煙、果実酒の甘い風が次々に頬を撫でた。手に取らずとも、口に運ばずとも、春祭りはその存在をみなに教えていた。
「あら、見て? ミトスちゃん。こっちの蜜花ドーナツ、今日の限定品よ。こんなにたっぷりの花蜜は、今の時期しか採れないの」
ミリアがお店へ片手をぐいと伸ばし、屋台の男性から紙包みを三つ受け取る。一つは自分の口に、一つはミトスの手に、もう一つは当然のようにウィルの元へ。
「魔王様でも列に並ぶの?」
「当たり前だ。祭りは序列より順番が大事だ。私が順番を守らないなどあり得ない。民に示しがつかないからな」
ウィルがさらりと答えると、屋台の男性が耳まで赤くして「魔王様、今年もありがとうございます!」と声を張り上げ、人だかりが更に厚くなった。「言わずともよい」とでも言いたげな顔で、ウィルは手を挙げて挨拶を返す。
花蜜の甘い香りが鼻腔に広がる。出来立ての湯気が食欲をそそり、フゥフゥと少し冷まして、ミトスは控えめに口を開いた。フワフワとした記事が歯に当たり、ゆっくりと噛むと柔らかい蜜が舌に触れる。ミトスは思わず目を細めた。
「……美味しい」
「でしょう? この花蜜、日中は甘いのだけれど、日が落ちるとスッとした爽やかな甘さが混じるの。昼の光と月の光で味が変わる……なんて、面白い蜜なの。是非、夜も食べて欲しいわ。好みを聞かせて?」
ミリアの説明を聞きながら、ミトスはふと視線を遠くへやった。広場中央――【花歌いの石舞台】。
春祭りの昼下がりには、そこに「誓い」や「謝罪」や「和解」を歌にして捧げる儀が行われる。魔族領の人々は、争いの多くをあの舞台で音に変えて受け渡す。それは剣よりも早く、法律よりも厳しく、罰よりも甘く、嘘を嫌う。
その舞台の縁に、一団の影が差した。粗末な軍服もどきの服、日焼けした顔、乾いた目。
――先ほどミトスを見ていた、人間領の男たち。彼らの視線が、ハッキリとこちらを射抜く。探す必要もない、知っている顔を見つけた時の、あのねっとりといやらしい確信の色。
「やっぱりだ。……おい、見ろよ」
「おやおやこれは。ミトスお嬢様じゃないですか。こんなとこで何の用でしょう?」
「元勇者と名高いあなたが、どうして魔王なぞの隣に?」
「嫌だなお前、知らないのか? 我らがユウシャサマは、魔王へ輿入れしたのさ」
「なんてこった! 考えただけで恐ろしい!」
遠く離れていても、風に乗った微かな音と、口の動きだけで言葉の輪郭が拾える。ミトスの胸が冷えて、指先が少しだけ硬くなる。
そんなミトスを見て、ウィルは一歩、彼女の前へ出た。魔王の瞳は笑わない。声は低く静かに、しかし広場全体に届くほどよく通る声で言った。
「客人らよ。祭りの朝に、誰かを指さすのは【客礼破り】だ。礼を忘れたなら、花に覚えさせてもらうおうか?」
男たちの何人かが鼻で笑う。一人が肩をすくめ、わざと大きめの声で言った。
「客礼? へっ。魔族の歌遊びだろ。人間の国じゃ笑い話だ。――おい、元勇者。いや、【捨てられ勇者】か。お前、魔王に飼われて、何をご馳走になってんだ? さぞかし良いものを食ってんだろうなぁ? 裏切り者よ」
空気が一段、冷えた。
ミトスは息を吸い、吐いた。身体の中心に重心を落とし、視線は下げない。ミリアの肩がピクリと動く。だが、ウィルの左手が彼女を制した。右手は、自然な仕草でミトスの腰へ回る。触れるか触れないかの距離で。
「言葉の刃は、舞台の上で研げ」
ウィルが石舞台を顎で示す。
「ここは魔王領。そしてめでたい祭りの日だ。【花歌い】と【誓約杯】が真実を選ぶ。――異議は?」
「上等だ、魔王。歌でも杯でも、好きにやりな」
先頭の男が唇を歪めた時、背後で別の影が動いた。
「ウィル様、広場の記録官をお呼びいたしました」
正装に身を包んだクルシュが、静かに頭を下げる。
その隣に、小柄な少女の姿。毛先のふわふわした尻尾が揺れ、瑠璃色の瞳がきらりと光る。イェレナだ。
「お主ら、歌わせるなら今が一番良かろう。花の歌が一番よく響く時間帯じゃ。誰も逆らえん」
クルシュとともに祭りへ来ていたイェレナは無邪気に笑い、石舞台の上へするりと上がって、舞台中央の花鉢に軽く手をかざす。白い小花がフルフルと震え、微かな和音が生まれた。それはそれは、小さな音。
「準備はできたそうじゃ。ホラ、花も言うておる」
「……助かった」
ウィルが短く礼を告げる。
人間の男たちは、面白がるように舞台の前まで出てきた。
「歌だの杯だの、茶番に付き合ってやるって言ってんだ。ありがたく思えよ」
「煩い輩じゃのうて、茶番でもいいから静かにせぇ」
イェレナの笑顔はそのままだが、尻尾の毛並みが少しだけ逆立つ。場を囲む観衆のざわめきが、期待と緊張を混ぜて渦を巻く。祭りの色はそのままに、音の彩度だけが変わった。




