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魔王♂は勇者♀を溺愛したい-捨てられ勇者、魔の地で家族ができました!-  作者: 三嶋トウカ
【第一部】第一章:迎えの日

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第15話:強さの証


 ――夜は、魔族領でも静かに降りてくる。日中の賑やかな城下が嘘のように、風の音と、遠くの梟の声だけが澄んだ空気を震わせていた。月明かりが石畳を銀色に染め、城の尖塔をやわらかく照らしている。どこかで遅くまで営業している菓子屋が、風に載せてほのかに甘い匂いを漂わせていた。


 念願の【おやつタイム】が終わったミトスは、自室の窓辺に腰を下ろしていた。机の上には、手入れの行き届いた一本の剣。人間領で勇者見習いと呼ばれていたころから使ってきた、手に馴染んだ武具だった。柄には細かい傷があり、その一つひとつが、これまでの戦いや訓練の証だった。誰でもない、自分がただ真っ直ぐに、勇者見習いとして生きてきた証拠。


 魔王領に来てから、この剣を抜く機会はほとんどない。争いがない日々は、驚くほど穏やかで――その穏やかさが、かつての自分には想像もつかないほど貴重に思えた。訓練に参加しても、使うものは真剣ではない。それに、何か外でトラブルが起こっても、自分に出る幕はない。


 ――けれど、それでも。

 この剣だけは、手放す気になれなかった。


 柄に巻かれた革の感触を指先で確かめ、布を取り、ゆっくりと刃を拭う。ランプの柔らかな光が金属面を走り、ゆらめく。


 その瞬間、視界の端がかすかに滲み、耳の奥で砂を踏みしめる音が蘇った。


(……あれは……村外れの訓練場、だ)


 乾いた砂の匂い。肌を焼く日差しと、喉に絡みつく熱い空気。訓練場とは名ばかりの、地平線の向こうまで広がる空の下、舞い上がる砂塵を背負って立つ、一人の影。


 ――背中しか見えない。

 けれど、その背に刻まれた線は、何度も夢に見た。高く広い肩、まっすぐに伸びた背骨、無駄のない剣筋。日差しに照らされても、どこか影を帯びた存在感。


「――足を止めるな」


 低く、落ち着いた声。その響きは、風を切り裂き、まっすぐこちらの胸に届く。不思議と、その声には怒りも苛立ちもなかった。あるのは、ただ揺るぎない確信だけ。


「立っている限り、君は負けじゃない。例え剣が折られても、心まで折らせちゃあいけない」


 当時の自分にとって、その言葉は呪文だった。


 呼吸は荒く、腕は痺れ、足は鉛のように重い。何度も膝を折りかけた。それでも――あの背中が、あの声が、押しとどめた。


「……はい、師匠」


 その返事と同時に、剣と剣がぶつかる鋭い金属音が、記憶の中で鮮明に響く。

 砂を踏みしめる音。額に落ちた汗が、頬を伝い、唇に苦味を残す。斜めに差し込む日差しが、影と光をくっきりとわけていた。


 師匠は、勝っても負けても、同じ背中を見せた。誇らしげでもなく、落胆もなく、ただ剣を握る者としての背中だった。その姿が、今でも焼き付いて離れない。


 ――そこで記憶は、ふっと途切れた。


 現実に引き戻されたミトスは、刃に映った自分の顔を見つめる。少し赤みを帯びた頬と、わずかに揺れる瞳。懐かしさと、胸の奥を刺すような感覚がないまぜになっていた。落ち着て良いた心臓が、理由もなく少しだけ速く打つ。


「――眠れないのか?」


 不意にかけられた声に、肩が小さく跳ねる。

 振り返ると、部屋の入り口にウィルが立っていた。黒衣の裾が、夜風にわずかに揺れ、その表情は柔らかな陰影を帯びている。ランプの灯りに照らされた彼の瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。


「あ……うん。ちょっとだけ、眠れそうになくて」

「理由は?」


 視線をそらし、剣を布で包む。ウィルは近づく足音を静かに響かせながら、机の上に目を落とした。剣をまるで人を見るように眺め、ひと呼吸置いてから、問いかける。


「……その剣は、勇者見習いだったころのものか?」

「ええ。――昔から、ずっと使ってきたもの。あの日、腰に携えていたから」


 短く答えた声は、自分でも驚くほど硬かった。――ウィルの瞳が、わずかに揺れる。沈黙の間に、どこか探るような空気が漂う。


「昔のことを思い出してた、ただそれだけ」

「ただ……?」


 穏やかな声に、ミトスは小さく笑った。誤魔化すような笑みと、ほんの少し本心が混ざった笑み。それ以上を話す気はない、という意思がそこにあった。


 ウィルは、近づき、そっとミトスの頭に手を置いた。指先が髪を撫で、温かさが伝わる。ほんの一瞬、その温もりの奥に、僅かな嫉妬の色を感じた。嫉妬だということは、誰にもわからない、ウィル自身さえも。だが確実に、自分が知らない過去を思い出していたことに対する、言葉にならない感情を抱いていた。


「なら、今はゆっくり眠るといい。お前の過去がどうであれ、ここでの未来は俺とともにある」


 その一言に、ミトスの胸の奥がじんわりと温まった。

 しかし、その温かさの下には、どうしても消せない影が一つ、深く沈んでいた。それは、安らぎの中でも薄く疼き続ける古傷のようなものだった。


(……会うことは、もうないはず)


 過去の幻影をそう思うことでしか、心を落ち着けられなかった。窓の外、夜空に瞬く星々を見上げながら、ミトスは小さく息を吐く。

 呟いた声は、風にさらわれ、闇に溶けていった。


 ――しかし、彼女はまだ知らない。

 その背中と、その声が、そう遠くない未来に再び彼女の前に現れることを。そして、その再会が、魔王領の平穏を揺るがす引き金となり得ることを。

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