見送る人の話
私は人を見送る仕事に就いている。
玄関ホールで待機し、出発する人に「いってらっしゃい」と声をかける。
仕事の内容はたったそれだけ。
玄関ホールに入るための扉も、外に出るための玄関扉も勝手に開閉するからノータッチ。
ここに来る人達の手荷物を持つ必要も、お辞儀をする義務もない。
出発した人達はここに戻ることがない為、出迎えることもしない。
本当にただ声をかけるだけの、誰にでも勤められる簡単な仕事。
就職先で悩んでいた私は、ここの求人を聞いてすぐに飛びついた。
ここ以上に魅力的な仕事場がなかったから。
定員数が少なかったことも後押ししていた。
けど、この仕事に就きたがる人はいないらしい。
とても不人気なんだそう。
前まで勤めていた人がそう教えてくれた。
その先輩にあたる筈だった人は、私がここに来ると同時に辞めていった。
口で語った以上に、ここの不人気さを雄弁に語ったように思える。
しかし、何が理由でここまで人気がないのかがわからない。
私もここに就いてからだいぶ長いが、不満を持ったことは1度もない。
ここを去っていった人達に、ここを敬遠する人達に、一体何がそんなに不満なのかと問いてみたい。
けど、それに答えてくれる人はここに来ない。
玄関ホールにやって来るのは私が見送る人達だけだから。
その見送る人達のことだが、彼・彼女らがここに来る頻度はかなり低い。
1ヶ月に1人でも訪れれば多い方だ。
このことに、仕事に就いた当初は肩すかしをくらったものだ。
なにせ、1日中玄関ホールに張り付いていても仕事がないのだ。
初仕事は就職してから2ヶ月も後で、緊張なんて在って無いようなものだった。
でも、あの時はとても驚いた。
ぼんやりしている時に前振りなくやって来たのだ。
彼・彼女らの来訪は通知されないのだと、この時は知らなかったのだ。
それにしても、不定期未定のこの状態でよく仕事として成り立つなと思う。
あまりにすることがなくて、暇つぶしに読書を始めたくらいだ。
本当はゲームがよかったのだけど、仕事場に持ち込んでいいものが本くらいだったのだ。
今ではすっかり読書愛好家気取りだ。
とはいっても、持ち込んだ何冊かの本を繰り返し読んでいるだけなのだけど。
先輩が残っていてくれたなら、仕事を交代制にして本を買いに行くのだが。
まあ、言っても仕方ないことは言わないでおこう。
とにかく時間を持て余すことが多く、人手も出番もとても少ない仕事だった。
だけど今日、久しぶりの来訪があった。
その日も、いつもと同じように本を読んで暇を潰していた。
いつもと違ったのは、滅多に訪れることのない人がやって来たこと。
玄関ホールにある2つの扉のうちの1つが開いたのだ。
扉の開く音は静かだった。
だが、どんなに小さな音だろうと無音のこの空間にはひどく響く。
そのため、本の文字列を追っていても来訪者にはすぐに気がづいた。
私は本から目をはずし、音の発生源である扉の方を見る。
両開きの重厚な扉。
その扉の片側が開いていた。
開いた扉の向こうには小さめな人影がぽつりと立っていた。
扉の影に隠れてよく見えないが、格好からして女の子に思えた。
そこで何をしているのか、しばらく扉の向こう側で佇んで玄関ホールに入ろうとしなかった。
もしかしたらこのホールを眺めているのかもしれない。
玄関ホールの中央に無遠慮に置かれた、大男をも余裕で飲み込める程に大きく無骨な鏡。
それはひときわ異彩を放ち、壁や柱でさえ装飾されたこの空間で酷く浮いていた。
入る扉と出る扉の直線上に置かれた大きなその鏡。
ここに訪れる人は皆、一度はあの鏡に目を奪われたかのように動きを止めてきた。
彼女もそうなのかもしれない。
飾り気のないこの鏡は、彼女にはどのように写っているのだろう。
いや、きっと、その鏡に映った自分の姿が見えているだろう。
彼女の目的はこの鏡に違いないのだから。
すこし時間が過ぎると彼女は動き出した。
扉の影から出た彼女の姿がハッキリと確認できる。
その容姿は十代後半くらいに見えた。
まだ若い。それが彼女を見たさいの第一印象だった。
彼女は玄関ホールへ足を踏み入れ、そろそろと歩く。
その遅めの歩みも鏡の前で止まった。
一拍置いた後、彼女は見上げていた鏡に手をかざし、その手を鏡に沈めた。
水のように沈む鏡に彼女は驚いたような表情を浮かべる。
けど、怖がっている様子はなかった。
その様子は、風呂の温度を手で図っているような軽いものにも見えた。
手が沈むにつれて綾は大きな波になり、鏡全体に広がっていく。
いくばくもしない内に彼女は足も鏡の中に沈めだし、胴体や頭もあっという間に入っていった。
その手足や顔は、鏡に飲み込まれたかのように現れることはない。
その代わりに、鏡の反対側の面には光りが生まれるのだ。
光りは彼女が鏡に沈むと同時に鏡から切り離された。
それは小さな球のようで、触れていなくても仄かな温もりを感じさせた。
彼女はそう、光る球になったのだ。
光る球は鏡を離れ、ふよふよと玄関扉へと飛ぶ。
扉の前に着くと、光る球は動きを停止した。
私は彼女の側に歩み寄る。
ふと、光る球となった彼女がこちらを見た気がした。
聞こえない問いかけに答えるため、彼女とないはずの目を合わせる。
すると、ある情報が私の中に流れ込んだ。
それは彼女の記憶。
彼女が現世で生きていた頃の歩みと、地獄と呼ばれるこの世界に落ちた後の軌跡。
そう、言い忘れていたかもしれない。
この仕事は、確かに「いってらっしゃい」と告げるだけの簡単な仕事だ。
だが、その言葉を贈るのは、現世での罪を清算した魂にのみだ。
地獄と呼ばれるこの世界で罪を償う。
それが本当できているかの最終チェックがここ、玄関ホールなのだ。
そのチェックの為に、彼・彼女らの記憶を眺める必要があった。
ほとんどスルーできてしまう意味のないチェックだが、とても大切で大事な仕事のひとつだった。
その軌跡を辿り終えた後、私は彼女に告げた。
「いってらっしゃい」
それは、現世で犯した罪を清算したことを知らせる言葉。
地獄から現世に戻ることを赦された魂にかける合図。
私の声に応え、玄関扉が開く。
それを見た光る球が一段と淡く綺麗に輝き、歓喜をあげるように大きく震えた。
扉の外から差し込む天の光りに負けず劣らない、穏やかな色味の光だった。
「ありがとう」
声にならない声で彼女はそう言った。
光る球となった彼女はそう言った。
そして、扉が開ききる前に彼女は外へと飛び出した。
言葉の通り、飛ぶように行ってしまった。
空高く昇り、光が残す軌跡も徐々に小さくなっていく。
そして、扉が開ききる頃には彼女はもうどこにも見えなくなっていた。
開いたばかりの扉は、またゆっくりとひとりでに閉じる。
耳に残る大きな音を立てながら。
それはまるで、「もう戻って来るなよ」と言うかのように。
玄関ホールに再び静寂が訪れた。
私は元いた場所に戻り、読みかけていた本を手に取った。
繰り返し読み込んだ本を開き、見覚えた文字を追う。
頭の中に、彼女が浮かべただろう笑みを思い描きながら。