65 愛だけは信じてる
薄暗い寝室の空気が、まだ夜の熱を帯びている。
カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、床に落ちたシャツの袖を照らしていた。
私の身体は、まだ少し火照っている。
けれど、心は驚くほど静かに凪いでいる。
私はベッドに沈みながら、ただ天井を見上げていた。
「セレナ……君が誰といようと、俺はセレナだけを見てる」
耳元に落ちてきたのは、低く、優しい声。
それは寝起きの私には、少し重たく感じる甘さで。
まるで夢の続きのように、すんなり胸に染み込む――はずだった。
「ふふっ……なにそれカイル。まさか寝言じゃないわよね?」
私は小さく笑って、振り向くことなく答えた。
「今の言葉って、他の女にも言ってるんでしょ?」
そう、彼なら言いそうだもの。
彼――カイルなら。アークレイン王国の騎士団長にして、社交界でも有名だった『罪な男』。
柔らかく波打つ金髪は、陽光を浴びれば白銀のように煌めく。
整った顔立ちは、まるで物語の王子様。
彼が優しげに微笑めば、どんな令嬢でも恋に落ちるんじゃないかしら。
広い肩と引き締まった胸板、程よく刻まれた腹筋。動くたびに美しい筋肉が浮かぶ体は、女性の理想そのものだ。
そんな男が私の隣で、裸のままベッドに横たわっている。
この状況だけで、少し勝ち誇ったような気持ちになるのは、私の性格の悪さだろうか。
「言うわけないだろ……俺は本気だよ、セレナ」
冗談として流すつもりだった彼の言葉。でも、すぐさま返ってきた真っ直ぐな声。
振り向けば、ベッドに身を預けたままのカイルが、まっすぐに私を見つめていた。
金色のまつ毛の奥で、澄んだ碧眼が揺れている。まるで誓いを立てた騎士みたいな眼差し。
仕方がないわね――私はその視線に負けて吹き出してしまった。
「……ごめんなさいカイル、冗談よ。あなた、とっても真面目な顔してるんですもの。本当にいったい何人の女性を落としてきたのよ。考えるだけで妬けちゃうわ」
笑いながら答えたけれど。
本当は、ちょっとだけドキッとした。
でも、それを見せるのは負けたみたいで悔しい。
だから……笑うの。
私はセレナティア・ヴァルムレーテ。
ヴァレムレーテ公爵家の娘であり、王国の第一王子の元婚約者だった。
今は聖女という肩書とカイルの妻を兼任している。
苦労して手に入れたカイルの妻という地位をわざわざ手放すはずがない。
欲しいものは全部、手に入れた。
友情も愛情も全部。それを失うことの無いように――。
これからもずっと守っていきたい。
国を救った『聖女』――それが、この国での私の肩書き。
神聖で、気高く、等しく振りまく優しさを持っているらしいけど。
ただの噂よね。私は聖人じゃなくてだたの女だもの。
「……ま、どうでもいい話よね。気が済んだなら、そろそろ仕事に帰ったほうがいいんじゃない?」
私はベッドから起き上がり、裸のまま鏡台の前へ向かった。
長い黒髪を櫛でとかし、化粧箱から取り出した口紅を唇に滑らせる。
鏡に映るのは自分の顔。
楽しげな目元と、笑みを堪えられない唇。
昔からは考えられない、隙だらけの『素顔』。
もちろんこの顔で微笑めば、男たちは喜んでひれ伏す。
でもそんなことは、私にとって何の意味もなければ興味もない。
鏡越しに、カイルがシーツを腰に巻いて立ち上がったのが見えた。
相変わらず良い体してるわね。
なんて……思う自分がちょっと情けない。
「セレナ。愛してる。君も俺を愛してくれているだろ?」
「当たり前でしょ。私、愛だけは信じているの」
振り返り、軽くウィンクして笑ってみせた。
記憶を失っても、愛する気持ちだけは失わなかったのよ?
「――それより、もう1回だったらシテもいいわよ? 」
そんな言葉で会話を終わらせた。
私の愛する夫。カイル・ヴァルムレーテ。
本当に愛しくて仕方ない。本当は帰したくない。
仕事がなければ、ずっと一緒にいたいのに。
「そうだな……でも1回じゃ、終われないかもしれないぞ」
そう呟くカイルの瞳に写った私は、とても幸せそうに微笑んでいた。