56 トリックスター
この国では珍しいピンク色の淡い光をまとった髪。
優しげな微笑みを湛えながらも、どこか達観したこの世のものとは思えない、静けさと美貌をまとったタレ目の……何故かちょっとイラッとする謎の女性。
私は思わず身を起こしました。
屈強な近衛騎士たちの警備を実力で突破してきた『猛者』なのではないかと思ったのです。
ですが……とても華奢なそのお姿に、考えを改めました。
武器も持たない、か弱い女性がどうやって近衛騎士さんを打ち倒すのでしょうか。
それでは、どうやってここに来たのでしょう?
疑問はつきませんが、私が一番疑問に思っていることを聞いてみます。
「……どなた様、でしょうか……?」
私の問いかけに、その女性はそっと微笑みます。
そして、まるで母が子に語りかけるような、柔らかで、温かな口調で答えました。
「あなたは、今までずっと努力してきたのよ。たとえ思い出せなくてもね。私はずっと見てきたの。あなたが癒してきた人々のことを。あなたの選択が救った未来のことを。だから、安心して――セレナティアちゃん。浄化の儀式はきっと、うまくいくわ」
私が『誰でしょうか』と聞いたのに、素っ頓狂で不思議な答えが帰ってきました。
このお方は話が通じません。とにかくイライラします。
きっと自己中心的な方なのでしょう。
こういう方はあまり相手にしないほうが良さそうです。
気持ちを落ち着かせるために、一度目を閉じました。
深呼吸をしましょう。
もう一度目を開けてみると、謎の女性は姿を消していました。
いまのは夢だったのでしょうか?
だとしたら、ああいうのを悪夢というのですね。
そうして迎えた――浄化の儀式、当日の朝でした。
重い部屋の扉が開かれ、数人の神官さんたちがしずしずと部屋へと入ってきました。
彼らは純白の装束と神聖な香をまとっています。
私は静かに立ち上がると、儀式用の特別な白装束に身を包みます。
いよいよです。
この一歩の先に、私の運命が――浄化の儀式が待っているのです。
◆
牢獄の中は、静かでやることがなかった。
外界の喧噪も、時間の流れすらも、冷たい石に隔てられて遠ざかっていくようだった。
思い返せば、ミレイナ嬢には悪いことをしてしまった。
何かを言おうとした彼女を止めるために「セレナティア様を頼みます」と言ったが……純真なミレイナ嬢のことだ。きっと本気に受け止めてしまっただろう。
あんなことがあったのだ。リュシオン殿下が彼女たちに見張りをつけないはずがない。きっと今頃は身動き1つ取れない状況で気をもんでいるに違いない。
俺の言葉で苦しんでいなければいいが……。
言っておくが、俺はここで腐っていたわけじゃない。
収監されてからもずっと日にちを数えて準備してきたのだ。
セレナは今日、浄化の儀式を迎える。
俺は、ここで、何もできずにただ待っているしかないのか?
このまま、セレナを救えないままで終わるのか?
――答えは否だ。
もし、そんなことになれば俺は一生後悔する。
月明かりが差し込む独房で、俺はひとり血が滲むほどに拳を固く握った。
まだ外は暗く、夜が明ける時間じゃない。日が昇るまでは数時間程度あるだろう。
脱獄するなら……今しかない。
あれから毎日、何度も牢の鍵や壁の造りを調べた。看守が見張りにくるタイミングも感覚で覚えた。
ちょうど今が見張りの交代の隙をつける時間だ。
たとえ後で罰されようとも、極刑になっても構わない――セレナの命は俺が救う。
そして、意を決して立ち上がったその瞬間、後ろから声がした。
「はぁ~い、そこでストップぅ、団長さん♪」
「……なにっ!?」
――ここは独房だぞ?
さっきまで誰もいなかったはずだ……そもそも。俺が収監されてからこの部屋の扉が空いたことはないといのに。
それなのに……さも当然のように牢の中に女が現れたのだ。
これは、現実か?
ピンク色の髪に、どこか神々しさを感じさせる気配。
母性を感じさせるその表情は、人間離れしているといっていいほどに整っている。まるで彫刻のような完全に調和の取れた美しさ。少しタレ目だけれど……。
一体誰なんだ、この女性は?
……いや、まてよ? 一度だけ会ったことがある。
「貴女は……たしか、セレナのご友人の?」
「久しぶりねぇ、団長さん。そうでぇ~す。セレナティアちゃんの友達。エルちゃんで~す」
場違いなほど間延びした声でそう言うと、自称『エルちゃん』はくるりと回って見せる。
自由すぎるその振る舞いに言葉を失っていると、彼女は慈愛に見た表情で微笑んだ。
「セレナティアちゃん、とってもいい子でしょ? 仲良くしてくれてありがとうね」
「いえ、こちら……こそ……?」
まさか、それだけを言いに来たのか?
「違うわ。あなたを止めるためにきたの。今あなたが牢から出ても……事態は良くならないどころか、むしろ悪化するから」
今……俺の心を読んだ? まだ何も言っていないぞ?
俺は戸惑いながらも必死に反論する。
「悪化するだと? じゃあ、セレナが危険な儀式に向かおうとするのを……黙って見ていろというのか?」
「う~ん……」
彼女は独房の中を、自分の庭を散歩するかのように歩きだした。そして何かを考えているようだったが、ポツリと呟いた。
「あのね……説明しにくいんだけど、浄化の儀式は無事に終わるの。これは保証するわ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
なぜだろう。全く根拠ない話なのに……心のどこかで、その言葉を信じたいと思ってしまった。
「……それでも、俺は――セレナを」
「あなたが無茶をすれば、守れる命すら守れなくなるの。それに……セレナティアちゃんは、きっとその後にこそ、あなたの助けを必要とする。だから、今は……耐えて。彼女の未来を信じてあげて」
彼女はそっと、俺の肩に手を添えた。
その手は不思議な温かさを持っていて、妙な安心感を感じる。
「わかった。脱獄はやめよう。だが、その話は本当なんだろうな――」
振り返ると、そこには誰もいなかった。