21 もっと早く君と
「……カイル」
私は意を決して、彼の名を呼んだ。あえて敬称はつけずに。
名前を呼んだ瞬間、時間が止まったような錯覚すら覚えた。
カイルの目がわずかに見開かれる。それでも、私は目をそらさなかった。
「私、たぶん……もうすぐ死ぬと思うの」
「なっ……!? セレナティア嬢、何を……!」
カイルが、信じられないといった様子ではっとの目を見開く。
私は嘘を言っていない。
だって魔力は空っぽだもの。一滴たりとも残ってない。
こんなんじゃ、ミッションは達成できないでしょ?
エル=ナウル。あの神との約束はたぶん守れない。
待っているのは、今度こそ本当の終わり。
なら、最後くらい、私の『ほんとう』をみてせもいいよね……。
「ねえカイル。最後は普通に話したいの。もう……敬語なんてやめない?」
「……え?」
「あなた普段は自分のことを『俺』って呼んでいるでしょ? そうやって話してほしいの」
「ッ!? まあ、確かにそうですが……!」
「ほら……いいから」
私は少し笑って、目を細める。ふっと、肩の力が抜けるようだった。
きっと、もうすぐ終わると分かっているからこんな風に笑えるのかもしれない。
「でも……セレナティア嬢は、王太子殿下の……」
「敬語は、やめてほしいの」
「だが、セレナティア嬢……」
「いいから。セレナでいいわ」
カイルは私の提案に動揺した様子だった。
どちらかというと私が『死ぬ』といったからかしら?
でも、私の覚悟のようなものを感じ取ったのかもしれない。
カイルは少し沈黙した後、こわばった表情で、小さく頷いた。
「……わかった。……セレナ。でも、最後だなんて。死ぬなどと、軽々しく言わないで欲しい」
「……ふふ、そうね。ちょっと悪い冗談だったわ」
「セレナ……」
彼が私の名を、親しみを込めて呼ぶ。
それだけで、色々思い出されて、なつかしくて、胸がきゅっとした。
名前を呼ばれるたびに、心がほどけていくみたい……。
私の名前、こんなふうに呼ばれるの、どれくらいぶりなんだろう。
「もっと早く君と。こうして話せばよかったな……」
「へえ、カイルって遠慮とかするんだ?」
「ああ、遠慮だってするさ。セレナはリュシオン様の……王太子の婚約者だろう?」
「あら、そんなこと気にするタイプだったの。話したければ話せばよかったのに」
「そうなんだけど……いやほら、なんていうかさ。そういうの簡単にできないっていうか」
「ふふ、カイルって……そういう可愛い一面もあったのね」
目が合った私たちは、思わず笑ってしまった。
こんなに自然に、こんなにやわらかく笑い合える日が来るなんて――思わなかったな。
あの頃の私は、他人の優しさを素直に受け入れることができなかった。そのせいで他人のいいところを見ようともしなかった。
「……やはり、君は優しい人だったな。俺はずっと思っていたんだ。昔からずっと」
「……え?」
予想外の言葉に、私は目を瞬かせる。優しい? 悪女とまで呼ばれた私が?
「セレナは覚えて、いないみたいだけど……」
彼は少しだけ、照れたような、懐かしむような表情になる。
だけど、私とカイルが出会ったのは社交界デビューしてからのはず。そんな昔じゃないわよね?
「幼い頃、俺は貴女に救われたことがあるんだ。道端で、馬車に轢かれた時のことだった……」
「馬車に轢かれた……?」
思い出されるのは、エル=ナウルに見せられた、あの記憶。
神との対話で思い出した、幼き頃の記憶。
道端でうずくまる少年。
足はおかしな方向に曲がり、血が流れていた。
私は少年に駆け寄り、初めて魔法を使った。手から溢れる淡い光。
少年の足はみるみる本来の姿に治った。
初めて魔法を使った時の記憶。
無意識に封印していた記憶。
今は鮮明に思い出せる。
確かに私は少年を癒やした。でも、あの時の少年が……カイル?
この目の前にいる、カイルだったの?
そうなんだ――。
ずっと、ずっと前から、この人は、私を知ってたんだ。
誰よりも早く、私を見つけて、信じてくれてたんだ。
心の奥に、あったかいものが静かに滲む。
でも、それは少しだけ切なくて、すこしだけ遅すぎて。
「……嘘……?」
思わず声が漏れた。頭の中がぐるぐると回り始める。
そんなこと今までいってくれなかったじゃない。
なにそれ……初めて聞くんだけど。
「あの時の少年が……カイルだったの?」
「ああ……」
混乱と、驚きと、そして……胸の奥から込み上げてくる、名前のつけられない温かい感情。
穏やかで、けれどどこか切ない沈黙が流れる。カイルが口を開いた。
「もし、よかったらだけど」
「うん……」
「また、こうやって話が出来ないだろうか?」
真剣な瞳でまっすぐに私を見るカイルは、ベッドで愛を囁いていた時のようだった。
あの頃は軽くあしらっていたけれど、今なら……少しくらい向き合ってあげてもいいと思う。
「リュシオン様の婚約者に、こんなことをお願いするのはいけないことだと分かっている。でも……俺は、セレナとこうやって話がしたいんだ」
「カイル……」
別に話をするくらいなら問題ないんじゃないかな?
私もカイルとの時間が楽しいと感じている。
けれど冷たい現実が頭をよぎり、喉まででかかった言葉を飲み込んだ。
……私はもうすぐ……死ぬ。
カイルは冗談だと思っているみたいだけど。
だからこそ……私は微笑んで強がった。
「そうね、かまわないわよ。……じゃあ、リュシオン様とのお茶会の時にエスコートしてくれるかしら?」
ちょっとだけ、昔のような調子で軽口を叩いてみる。
これが、今の私にできる精一杯の強がり。
だって、その日がくることは……きっとないから。
「もちろん、そうさせてもらえると嬉しい」
カイルが小さく笑い、口を開こうとした、その時だった。