11 単純な私
私は綺麗な花の咲き誇る庭のガゼボで、午後のティータイムを楽しんでいた。
紅茶は少し濃い目に淹れたダージリン。カップの縁から立ち上る香りが心地いい。春の陽光はやわらかく、鳥たちがさえずっている声が響く。
そんな穏やかな空気の中、どこからか聞こえてきたのは年季の入った深い溜息。
「ふうっ~……」
声の主は顔を見なくてもわかる。
白髪混じりの髪をきっちりと撫でつけ、無駄のない動きで長年この屋敷に仕える執事。忠義と誇りを絵に描いたような男、マティア・ローデン。
「……やっぱり、腰にきましたねえ。もう、年には勝てないってことですか」
彼の小さな呟きは、私の耳にしっかりと届いていた。
マティアは、私がまだ幼い頃からずっと側にいてくれた人。
私がどんな我がままをいおうと、誰も寄り付かなくなっても、変わらずに仕えてくれた唯一の『味方』だった。
だから、彼のその声を。放っておけなかった。
私は思わず立ち上がっていた。
「マティア」
「セ、セレナティアお嬢様。い、いえ、これはっ……っ、失礼しました。せっかくのティータイムをお邪魔してしまい、申し訳ございません!」
彼は慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。
その背筋は、相変わらず真っ直ぐなものだった。でも今日は……その動作の中に、ほんの僅かだけど痛みのようなものが見えた。
「それはいいの。今あなた、腰が痛いっていったかしら?」
私が問いかけると、マティアはまるで何かを咄嗟に隠すように背中に手をやった。
「い、いえ……これは年寄りのたわごとでございます、お嬢様。お気遣いなく――」
「ふうん。誤魔化そうったってそうはいかないわよ」
私はティーカップを置き、ゆっくりとガゼボの椅子にかけ直すと、優雅に脚を組んだ。
「命令します。ここに来なさい」
「お、お嬢様……っ」
「何度も同じことを言わせないでくれる?」
マティアは一瞬だけ戸惑いを見せたものの、静かに頷いた。
「……仰せのとおりに」
私は紅茶をひとくち飲み、空を見上げるように顔を上げた。
そして、胸のうちに集中し、身体の中の魔力を練る。
流れる魔力を手のひらに込めて、ゆっくりとマティアの腰へと手を伸ばす。
「……っ!」
聖属性の魔力が淡い光となって腰を包む。
温かくて、やさしくて、心まで癒すような、そんな力。
「お嬢様……これは……」
「私に感謝するのね。今後、腰を気にせず働けるわよ」
わざとすました顔で言って見せると、マティアは目を大きく目を見開いたまま、そのまま深々と頭を下げた。
「この老いぼれにまで、優しきお心を……。感謝してもしきれません」
「あんたは特別よ、マティア。ボロ雑巾になるまで私に仕えもらうわ。何度でも直してあげるから覚悟しなさい」
「お、お嬢様……」
マティアは言葉を詰まらせ、また深々と頭を下げた。
私はその背中を見た時に、胸が苦しいような、なんだか不思議な気持ちが押し寄せてきた。
処刑前の私は彼に何もしてあげられなかった。
彼が私にどれだけ尽くしてくれたことか。
それに気づけたのは、皮肉にも死を経験した後だった。
でも、今の私なら彼を癒してあげられる。痛みを取ってあげられる。
ミッションとか関係ない。彼は大事な使用人だもの。
「あんたには笑っていてほしいのよ。マティア」
その言葉は、いつの間にか唇から零れていた。
◆
その夜、私は執務室のドアをノックしていた。
中にいたのは我が父――ディラン・ヴァルムレーテ公爵。
常に冷静沈着で、鉄仮面のように感情を見せない男。唯一の家族なのに、最も遠い存在。
そんな彼が、書類から目を上げて、珍しく口を開いた。
「最近、おまえの評判……悪くないらしいな」
「――っ?」
一瞬、耳を疑った。
父は、私が悪女として名を馳せていたころ、特に叱るでもなく、甘やかすでもなく、まるで『存在しない人間』のように放置してきた。私に対して感情を露わにすることなど、ほとんどなかった。ましてや話しかけてくるなんて……。
その父が――私の評判について、口にしたの?
今さら、なんのつもりよ。
「……はぁ? それ、褒めてるつもり?」
そんな言葉が喉まで出かかったが、さすがに飲み込む。代わりに私は、作り慣れた微笑を返した。
「ええ、まあ……そのようですね」
「王太子の婚約者としての自覚が出てきたというわけか」
「ええ、もちろんですわ」
いや、それだけは絶対にない!
と、叫びそうになった言葉たちをなんとか飲み込んで、無難な切り返しをした。
社交界で鍛えた技術と、貴族教育が役に立ったわ。
そういえば、リュシオン王太子との婚約が決まったのは、今くらいの時期だったわね。
あの時の私は、何も知らずに期待していた。
王子の隣に立つ未来を、ただ夢見ていた。
でも今は、その夢は幻だったことを知っている。
「……ふむ。未来の王妃になるわけだしな。これからも、恥ずかしくない立ち居振る舞いを心がけるといい」
父はそれだけ言って、また書類に視線を戻した。
それを見て私は、特に言葉を返さず部屋を後にする。
でもなんだろう。
私の心は、何故か少し満たされていた。
父に存在を認めてもらえたから?
たったそれだけのことで?
「私って意外と単純なのかしら?」