1 愛なんて信じない
薄暗い寝室の空気が、まだ夜の熱を帯びている。
カーテンの隙間から差し込んだ朝の光が、床に落ちたシャツの袖を照らしていた。
私の身体は、まだ少し火照っている。
けれど、心は驚くほど静かに凪いでいる。
私はベッドに沈みながら、ただ天井を見上げていた。
「セレナ……君が誰といようと、俺はセレナだけを見てる」
耳元に落ちてきたのは、低く、優しい声。
それは寝起きの私には、少し重たく感じる甘さで。
まるで夢の続きのように、すんなり胸に染み込む――はずだった。
「ふふっ……なにそれカイル。まさか寝言じゃないわよね?」
私は小さく笑って、振り向くことなく答えた。
「今の言葉って、他の女にも言ってるんでしょ?」
そう、彼なら言いそうだもの。
彼――カイル・ラザフォード。アークレイン王国の騎士団長にして、社交界でも有名な『罪な男』。
柔らかく波打つ金髪は、陽光を浴びれば白銀のように煌めく。
整った顔立ちは、まるで物語の王子様。
彼が優しげに微笑めば、どんな令嬢でも恋に落ちるんじゃないかしら。
広い肩と引き締まった胸板、程よく刻まれた腹筋。動くたびに美しい筋肉が浮かぶ体は、女性の理想そのものだ。
そんな男が私の隣で、裸のままベッドに横たわっている。
この状況だけで、少し勝ち誇ったような気持ちになるのは、私の性格の悪さだろうか。
「言うわけないだろ……俺は本気だよ、セレナ」
冗談として流すつもりだった彼の言葉。でも、すぐさま返ってきた真っ直ぐな声。
振り向けば、ベッドに身を預けたままのカイルが、まっすぐに私を見つめていた。
金色のまつ毛の奥で、澄んだ碧眼が揺れている。まるで誓いを立てた騎士みたいな眼差し。
けれど――私はその視線を、心のどこかで拒絶してしまう。
「……本気? 面白い冗談ね、カイル。あなた、その顔でいったい何人の女性を落としてきたのかしら」
軽く言ってのけた私の声は、どこまでも冷たい。
本当は、ちょっとだけドキッとした。
でも、それを見せるのは負けたみたいで悔しい。
だから……笑うの。
私はセレナティア・ヴァルムレーテ。
ヴァレムレーテ公爵家の娘であり、王国の第一王子の婚約者。
ゆくゆくは王妃になることが決定している。
わざわざその地位を手放すはずがない。
欲しいものは全部、手に入れてきた。
ドレスも宝石も、地位も男も。
誰も逆らえない『悪女』――それが、貴族社会での私の肩書き。
傲慢で、強気で、周囲をねじ伏せる毒を持って。
浮気相手になんて、本気にならない。
「……ま、どうでもいいけど。気が済んだなら、着替えて帰ってちょうだい」
私はベッドから起き上がり、裸のまま鏡台の前へ向かった。
長い黒髪を櫛でとかし、化粧箱から取り出した口紅を唇に滑らせる。
鏡に映るのは自分の顔。
涼しげな目元と、形の整った唇。
どこか冷たさを感じさせるような、一切の隙ない『仮面』みたいな美しさ。
この顔で微笑めば、男たちは喜んでひれ伏す。
でもそんなことは、私にとって何の意味もなければ興味もない。
鏡越しに、カイルがシーツを腰に巻いて立ち上がったのが見えた。
相変わらず良い体してるわね。
なんて……思う自分がちょっと情けない。
「セレナ。本当に俺のことを、ただの浮気相手としか思ってないのか?」
「当たり前でしょ。私、愛とか信じてないもの」
振り返り、軽くウィンクして笑ってみせた。
「――それより、そろそろ帰ったほうがいいわよ? バレたら面倒くさいでしょ。私の婚約者様、嫉妬深いのよ」
そんな言葉で会話を終わらせた。
私の婚約者、リュシオン・グランディール王太子。
面倒な相手。カイルの足元にも及ばない男。
王太子じゃなければ微笑みかけることすらも馬鹿らしい。
「そうだな……そろそろ、帰らせてもらうよ」
そう呟くカイルの目に浮かんだ切なさなんて、見なかったふりをした。