第6章 理想と違う自分(1)
ミヨクは廊下にへたり込む。そして生存者の姿を確認した。ミヨクの他に、ソニア、クレメンス、メリッサが無事であり、それぞれ廊下に座り込んでいる。この四人はかろうじて過剰摂取型から逃げ切ることができた。しかしここに来るまで、三人のヘンシェル教会の教会員を失ってしまった。
現在四人がいる廊下は、幅は狭く、三人が並んで歩くのがやっとだ。エリザベスに確認させたところ、上下左右に空間はなく、少なくとも過剰摂取型から襲撃を受ける心配はない。身体を休めるには丁度いいところだ。
しばらくは全員が黙っていたが、クレメンスが口を開いた。
「あれを外に出してしまえば、取り返しのつかないことになりますね」
クレメンスの言う通りだとミヨクも思う。あの過剰摂取型はとてつもなく強大だ。簡単に人間の命を奪い取ることのできる膂力、通常の魔術のものともしない強靭さを兼ね備えた化け物だ。さらに魂の定着が強力で、ソニアの黒い炎をもってしても簡単に燃えることがない。おそらく太陽に対する耐性も持っているだろう。
魔術師が束になってもあの過剰摂取型を止めることはできない。博物館が襲われてしまえば、そこにいる人達は虐殺されてしまうだろう。それだけでは済まない。過剰摂取型に虚空間は関係ない。無術者の世界に侵入して殺戮の限りを尽くすことも十分考えられる。
「そうね……。それだけはあってはならないわ」
三角座りをして俯いていたソニアが顔を上げた。そして立ち上がり、こんなことを言い出す。
「私がグレンとあの化け物をなんとかする。クレメンスはケビンを探しつつ、二人を安全なところへ」
「待ってください」
クレメンスは立ち上がって反論する。ソニアは単独で過剰摂取型に立ち向かおうとしているのだ。そんなことをすればソニアが死ぬか、捕まってリチャードに酷い扱いを受けるに違いないとミヨクでも簡単に想像することができる。
「いいえ。もうこうなった以上、他に手段はないわ。それとも、あなたには何か代案があるというの?」
ソニアは落ち着いた素振りを見せているが、それが虚勢であることはミヨクにもすぐに分かった。身体が震えている。今にも叫び出しそうだ。部下が三人殺されたばかりなのだ。動揺と恐怖に苛まれているに違いない。
さらにクレメンスが反論する。
「こうなっては、ミヨク君とメリッサさんに協力していただくしかありません。もちろん、二人の安全は可能な限り確保します。それでも危険は大きいでしょうが、エーテル魔術がなければどうしようも……」
「私がなんとかするわよっ!」
ついにソニアが激高した。こんなことになるのではないか、とミヨクが危惧していたことが現実になってしまった。クレメンスやメリッサも同じことを思っているだろう。
さらにソニアは興奮したまま言葉を続ける。
「私はヘンシェル家の魔術師よ。みんなを守らないといけないの。もう誰も死なせはしない。私がグレンもあの化け物も倒せば済む話でしょう。私ならできるわ。いえ、私がやらなければならないのよ」
ソニアが一気に言葉を吐き出した。息を切らせて俯いている。それでいて眼は血走っていた。
そこで、ミヨクは立ち上がった。おそらくクレメンスも似たようなことをしようとしている。ヘンシェル教会として正さないといけないと思っているだろうが、ミヨクとしても我慢することができなかった。
ミヨクが接近しているのに気づいたようで、ソニアは横目で見る。
「なによ……」
ミヨクは答えず、そのままソニアの直前に立つ。そして彼女の両肩を掴む。
「この馬鹿野郎!」
そう叫びながら、ミヨクは全力でソニアに頭突きを食らわせた。ミヨクはソニアより少し背が低いが、それでもミヨクの頭突きはソニアの額に上手く直撃した。鈍い音が鳴り響く。ミヨクがソニアから手を離すと、ソニアはよろめきながら後退して、そのまま尻餅をついた。そして額を抑えながら俯く。
そんな痛がる様子のソニアに構うことなく、ミヨクは説教を始めた。
「確かにお前は凄い奴だよ。悔しいけど、それは認めてる。魔術の才能だけじゃなく、その歳でヘンシェル教会を率いる度胸も、困っている人のために尽くせる高潔さも全部すげぇよ。一年後に同じことやれって言われても俺には絶対無理だよ」
以前メリッサが、ミヨクはソニアのことを尊敬していると指摘していたが、それは正しいかもしれない。確かにミヨクはソニアに対して憧れを抱いていた。何年費やしても自分には辿り着くことのできない境地に彼女は立っている。自分も彼女のように強くなりたい、彼女を超えたい、そう思っていたからミヨクは何度もソニアに勝負を挑んだのだ。
「だからお前が凄い奴だなんてことは、みんな分かってんだよ。俺も、クレメンス先生も、メリッサさんも、ヘンシェル教会のみんなも、お前のことは認めてるよ」
しかしソニアの実力を認めていることと、今の状況でソニアの無茶を許すことは全く別の問題だ。
「けどだからって、お前は何でもできるわけじゃないし、お前が何でもしなければならないわけじゃないだろ」
ミヨクは考える。優秀な人間はいても、全能な人間はいない。ソニアもとても優秀な魔術師で、優秀な人間なのだが、全能ではない。ソニア自身も自覚しているはずだ。そもそも自惚れるような人間ではない。それでも全てを自分の力で解決しようとしている節がある。何がソニアを駆り立てるのかは、ミヨクには分からない。しかしミヨクでもこれだけははっきりと言える。
「お前は確かに凄い奴だよ。けど、お前が思っている程、お前は凄い奴じゃないんだよ」
おそらく本人は分かっている。しかし誰かが言ってあげないと認めたくても認められないのだとミヨクは思った。最初はそこまで考えてソニアに怒ったわけではない。単にソニアの態度に腹立っただけだ。それでも怒っている内に、そう思えるようになった。
「分かったか。この馬鹿……」
とにかくこれだけ言えばソニアも考えを改めるだろう。そう思ってミヨクは説教を終えた。それからソニアの反応を待つ。間違いなく逆切れしてくるだろう。こうなったらとことん喧嘩しようとミヨクは腹を括っていたが、ソニアの反応はミヨクの予想とは全く異なるものだった。
「分かっている……わよ……」
ソニアは一向に立ち上がってこない。それどころか俯いたままだ。声もいつもよりか細く小さい。
「ぐすん……。そんな……分かって……」
それからソニアは泣き出してしまった。まさか泣かれるとは思っていなかったので、ミヨクは呆気に取られてしまった。どうしたものか考えあぐねていると、メリッサがソニアの傍でしゃがみ込み、彼女の額を撫でる。
「辛かったのよね。ソニア。それはみんな分かっているから。ミヨク君もちゃんと分かっているから。だから少し休みましょう。ねっ」
メリッサが子供をあやすように言う。ソニアが「うん」と小さく頷いた。
そこでミヨクは気づいた。ソニアはまだ十八歳の女の子なのだ。大人のような容姿をしていようと、魔術が優れていようと、ヘンシェル教会の一部を率いていようと、まだ自分と同年代の子供なのだ。その子供が、ヘンシェル教会というとてつもない重圧と戦っていたのだ。その重圧に耐え切れずに、心が潰されてしまうこともあるだろう。三人の部下を失い、未だに皆の命が危機に晒されているこの状況なら尚更だ。
メリッサは立ち上がると、クレメンスを見遣った。
「クレメンスさん。しばらくソニアをお願いします。私はミヨク君と少し話があるので」
「分かりました」
メリッサは先程まで慈しみを感じる微笑みでソニアを見つめていたが、今はとても険しい表情をしている。ソニアに頭突きをしたのはさすがにまずかったとミヨクは後悔した。
「ミヨク君。こっちへ」
「はい」
ここの廊下は長い。端の方まで行って小声で話せばソニア達には聞こえないだろう。ミヨクとメリッサは立ったまま話を始めた。怒っているかと思われていたが、今のメリッサは穏やかな笑みを浮かべている。
「ミヨク君。ソニアのこと、ちゃんと叱ってくれてありがとう。ミヨク君が叱らなくても、クレメンスさんが叱ったかもしれないけど、でもミヨク君が言ってくれて良かったと思うわ。君が言ってくれた方が、ソニアに強く響いたと思う」
ミヨクはメリッサの言葉に対して素直に頷いた。それを見て、メリッサが話を続ける。
「もう分かっていると思うけど、ソニアはね、とても正義感が強い子なの。それでいて、自分は優秀だということをちゃんと自覚しているから、優秀だからこそ、その力を惜しみなく使わないといけないっていう使命感が強いの。いつの間にか、私はヘンシェル家の魔術師だっていうのが口癖になっていたわ」
その台詞ならミヨクも数時間前に聞いた。あの言葉の意味はミヨクも理解しているつもりだ。
「普通、魔術師が家の名前を出すのは、自分の権力を誇示したいからだけど、ソニアは全く違う。あの子は、自分の責務を確認しているだけ。ヘンシェル家の魔術師だから、自分は自分を捨てても、人を助けなければならないと思い込んでいるだけよ。それで、どんな困難も一人で抱え込んでしまうのだわ。いろいろなことを部下に任せているように見えて、肝心なところはいつもそう。誰にも頼ろうとしないの」
ミヨクもそう思っていた。ソニアにとって、家の名前は冠ではなく足枷なのだろう。本人にそう言ってしまえば絶対に否定されるだろうが、間違っていないと言い切れる。今のソニアを見るに、家の名前がソニアの言動を全て決めていると言っても過言ではないだろう。
「けど、ミヨク君が言ってくれたように、ヘンシェル家だからと言って、全部しないといけないなんてことはない。ミヨク君がはっきりとそう言ってくれたことで、少しだけだと思うけど、ソニアの肩の荷が下りたでしょうね。でも、その少しがあの子にとってとても大きなことだと思うの。本当にありがとう」
メリッサは丁寧に頭を下げた。メリッサも親友のソニアのことでいろいろ悩んでいた。ソニアのことを心配するあまり、彼女と口論になってしまったくらいだ。本当に力になれたかミヨクには分からないが、少なくともメリッサは安心した様子だ。
「けど……」
そこで雲行きが怪しくなる。メリッサの声色が明らかに変わった。声は小さいままだが、その二文字にはアクセントが込められていた。やはりメリッサが険しい表情をしていたというのはミヨクの見間違いではなかった。メリッサは顔を上げる。先程とは打って変わって、怒った表情でミヨクを見上げている。
「女の子に頭突きってどういうこと? ミヨク君もソニアの苦しみは分かっているのでしょう。ならどうしてそんなに酷いことをするの? 確かにソニアの態度は悪かったし、平手打ちくらいなら大目に見たでしょうけど、頭突きはないでしょ! 男の子同士の喧嘩じゃないの。ソニアはか弱い女の子なのよ」
「か弱い……?」
否定したかったが否定するべきではないとミヨクが察した時には遅かった。メリッサがさらに眉を顰める。
「か・よ・わ・い・女の子よ」
メリッサの声は大きくなかったが、「か弱い」の部分が強調されていて迫力があった。メリッサは、普段はお淑やかだが怒るとすごく怖い。逆らう勇気はミヨクにはなかった。
「はい。そうでした」
そう答えると、メリッサの表情は微笑みに変わった。
「そうよ。だから、これからはもうちょっとソニアに優しくしてあげるの。大丈夫よ。変に突っかからなければソニアもミヨク君に優しくするわ」
自分に優しくしているソニアの姿を想像することができない。そう言ったらメリッサはまた怒るだろうとミヨクは察した。
「そうですね。気を付けます」
メリッサに言われなくても、ミヨクの中でソニアに対する認識が改められたことは確かだ。か弱いという言葉はともかく、ソニアが年端のいかない少女であることは理解した。彼女に過剰な期待や責任を押し付けるべきではない。
それを一番理解しなければならない人間が今まで理解していなかったが、先程の自分の言葉でソニアが変わってくれることをミヨクは切に願う。
「さあ、分かったらちゃんと謝るのよ」
メリッサは視線で後ろを指しながら言う。ミヨクは振り返る。そこには、泣き腫らして目を赤くしながらも、真剣味を帯びた表情でこちらを見つめるソニアがいた。




