第1章 二人の少女(2)
放課後、真守は体育館裏に来た。それからしばらくしない内に一人の少年がやって来た。この学校の体育館裏も体育館と他の校舎に囲まれて、人通りもほとんどない。秘密の話をするにはうってつけの場所だ。実際に、愛の告白の場としてよく選ばれるらしい。
藤谷空麻。高校一年の男子生徒であり、真守にとっては二学年下の後輩になる。身長は高く、百八十センチメートルは近い。何かのスポーツをしているのだろうか、体格はがっしりとしていて姿勢も良い。髪は黒く刈り上げているが、目つきは柔らかく優しい性格なことが窺える。
「こんにちは」
真守は丁寧にお辞儀をした。
「あの……はじめまして。藤谷空麻です」
空麻もしっかりと礼をした。それを見て、真守は微笑む。
「まあ……はじめまして、ではないのですけどね」
その言葉に、空麻は疑問を感じたのか、首を傾げた。
「そうですか……? 話したことはないはずですけど」
真守は思い直してみる、ここ数か月、空麻をしばしば見ていて、何度も目が合ったはずだ。しかし空麻の言う通り話したことはない。もっと他に思い当たることもないわけではないが、今は黙っておくことにした。
「話したことはなかったですかね……。確かに、そうかもしれません」
真守はそう言いながら、しっかりと空麻の方を向いた。
「ところで、龍水鈴花さんには話していないですよね」
「話していないですよ」
多分嘘ではないだろう。真守は空麻の眼を見て察した。おそらく真守の正体のことを深く考えずに来たのだろう。真守が思っていた通り、空麻は龍水家から十分な説明を受けていないようだ。
「ありがとうございます。あまりあの人には聞かれたくないことだったので……」
そこで真守は考えた。もしかして空麻は勘違いしているかもしれないので、早めに言っておかなければいけないことがある。爽やかな微笑みを浮かべながら言う。
「ちなみに、私があなたのことを好きだということではないですよ。安心してください。あなたには鈴花さんという可愛い彼女がいることは分かっていますから」
真守は空麻と鈴花が一緒にいるところを何回も見ている。龍水家と繋がりがあることは知っているが、まさかあれだけ仲良くなるのは真守にとっても意外だった。
「違いますよ。鈴花ちゃんとはそういう関係ではありません」
「でも、鈴花ちゃんと呼ぶのですね。先輩なのに……」
空麻は少し困ってしまったが、そんな彼に構わず真守は話を続ける。
「早速本題に入りましょう。藤谷空麻さん、いえ……」
真守は一旦言葉を区切り、笑顔を作り直した。空麻にとって信じられないような言葉を口にするので、少しでも彼の緊張をほぐそうと思ってのことだが、上手くいくのかは少し不安である。
「標山空麻さん……」
現在、彼は藤谷空麻と名乗っているが、元は標山家に属する標山空麻であることを真守は知っている。十年前の事故によって、標山家が土地を去った後、他の家に引き取られていたはずだが、この春に龍水家によって呼び戻された。
真守には、空麻が一歩後退したのがしっかりと見えた。驚かせてしまったのは仕方がないとして、それでも真守には空麻に言わなければならないことがある。
「そう警戒しないでください。私はただあなたに会わせたい人がいるだけです」
真守がそう言うと、空麻がこんなことを言い返してきた。
「ちょっと待ってください。久遠先輩は標山家のことを知っているのですか?」
真守は空麻の態度を不審に思った。空麻があまりにも焦っている様子を見せているのだ。真守が空麻のことを知っていることも意外であったどころか、標山家がどんな家なのかもよく分かっていないようだ。龍水家から十分な説明も受けていないのだろうと思っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
「ええ、ある程度は知っていますよ。とにかく私の目的はあなたをある人に会わせることです。今すぐじゃないですよ。事情があって夜になるのですが、できれば今夜付き合ってほしいのです。詳しいこともその時に話します」
空麻が標山家のことをほとんど知らないというのなら、真守にとって好都合かもしれない。空麻は龍水家から説明されていない標山家のことを知りたがっているはずだからだ。しかし真守の予想に反して、空麻の反応は芳しくない。
「それは、鈴花ちゃんには教えられないようなことなんですか?」
確かに空麻としては気になるところだろう。真守は敢えて鈴花には内緒にしておくように言づけていた。最初は色恋の類が理由だと思われたかもしれないが、今となっては違う理由があることが明らかだ。
「ええ……。いずれ知ってもらうことにはなりますが、まだあの人には知られたくありませんね」
別に真守は鈴花や他の龍水家と敵対しているわけではない。むしろ龍水家と真守は友好的な関係にある。しかし標山空麻を引き取った理由が分からない以上、迂闊に信用するわけにもいかない。
「まあでも……、私達なら、あなたや標山家のことで龍水家も知らないようなことをあなたに教えてさしあげられます。知りたくはないこともないでしょう」
真守はもっと攻めてみたが、やはり空麻は食いついてこない。
「そんな……急に言われても……標山家のことを知りたいとは、正直そこまで思っていませんし……」
これは真守にとって意外だった。空麻は標山家のことにはあまり興味がないようだ。空麻は十年前の記憶、つまり標山家として過ごしていた頃の記憶を失っていると真守は聞いている。霊媒としての修業もしていないはずだ。ろくに知らない自分の正体を教えてくれる人が目の前に現れたら、すんなりとついて来てくれそうなものだと思っていたが甘かった。
そこで、自分で勝手に前提としているが、実はそうとは限らないことに真守は気づいた。そしてすぐに試してみる。
真守は一匹の蛇の霊体を空麻の目の前まで伸ばした。もちろん学校というこの世に染まっている場所では物質化に至っておらず、霊感がない人間なら全く見えず、気配すら感じない。しかし霊視できるならば視えるようにはしている。
そして目の前に急に蛇が現れたら、誰でも驚いて何らかの反応を示すはずだ。
「あの……どうかしましたか……?」
しかし空麻は全く動じなかった。まさか演技ではないだろう。つまり空麻には霊体が見えていないということだ。空麻は元々標山家の霊媒だ。ならば例の事件以降、霊媒の修業はしていなくとも、霊能力は持っているはずだ。記憶と共に霊能力も失ってしまったようだ。
真守は蛇の霊体を消してから、笑顔で応答した。
「いいえ。何でもありません。すみません。少しぼっとしていました」
さて、どうしたものか。空麻には真守についていくメリットはない。そして真守も無理に空麻を連れて行く理由もないような気がしてきた。
最初、空麻は真守にとって障害になると思っていた。
十年前の事故、夜刀神継承の儀式の際、その継承者の候補となっていたのが空麻だと考えられているからだ。真守も他人から聞いた話なので、確証を持っているわけではないのだが、今のところその説が有力だ。
その空麻がこの地に来たとなれば、何らかの形で夜刀神を狙っていると考えるのが普通である。真守に対して友好的な龍水家が呼び戻したとなると、さすがに真守から無理矢理夜刀神を奪うような真似はしないと思うが、それでも空麻に夜刀神を継承させるよう交渉に来るはずだ。
しかし三か月経った今でもそれがない。空麻は霊媒としての訓練を受けていないし、龍水家も真守に特別なコンタクトを取ってこない。ということは、龍水家は空麻を霊媒にすることも、ましてや夜刀神の新しい継承者にすることも考えていないということだろう。
だとすれば、空麻をこの地に呼び戻した理由として考えられるのは一つ、空麻の保護だ。空麻が何らかの脅威にさらされることが想定されるということだ。
そして真守にはその心当たりがある。
真守は奥歯を噛みしめた。
「そういうことか……」
「あの……久遠先輩……?」
「標山空麻さん。やっぱりあなた、一緒に来てください。標山家のこと、知りたくないかもしれませんけど、それでも知ってください」
そして考えを改めた。空麻はどうしても連れて行くべきだ。空麻の身に危険が及ぶとなれば、あの人も安全とは言えない。むしろこの地に滞在している今が最も危ないかもしれない。ならば今出来る限りのことはしておくべきだ。
「標山家のことって……」
「いいから。私の言うことに従ってください。でないと、あなたに会いたがっている人だけでなく、あなたも危ないかもしれません」
今のあの人は危険な状態だ。空麻がさらにあの人を危機に追いやるとも考えられたがそんなことはなかった。それが分かった今、真守としては空麻と接する理由はない。しかし現在の空麻の立場を考えると、害はないからといって放っておいてもいいというわけでもなさそうだ。
「危ないって。僕がですか……?」
平和な日常の中でそんなことを言われても実感が湧かないのは分からなくもないが、少し呑気すぎると真守は思う。
「そうですよ。四月に急に引き取られるなんて、何かおかしいと思いませんか?」
「そりゃ……おかしいと思いますけど……」
霊媒とは無関係な、普通の生活を送ってきたので、危機感を持てという方が無理な話だろう。空麻が保護対象になっているということは、あくまで真守の仮説であって、まだそうと決まったわけではない。
真守は焦っていたことを自覚して、もう一度考え直した。空麻を連れて行った方がいいのは確かだ。しかしこのままでは空麻を納得させることはできないだろう。ここはちゃんと空麻に頼むことにする。
「困らせるようなことを言ってごめんなさい。ただ、空麻さんに会いたいと言っている人がいるのです。だから今夜付き合ってください。それならダメですか?」
標山家や霊媒のことを考えたからややこしくなるのだ。第一の目的を思い出す。単純な話、真守はただ空麻に人を紹介したいだけだ。
「そういうことなら分かりました。ところで、僕に会いたいと言っている人は、僕を知っている人なのですか?」
そこで重要なことを言っていないことに真守は気づいた。忘れていたわけではなく、タイミングを見て言おうと思っていたが、なかなか言い出せずにいたのだ。
「すみません。そうですよね。少なくとも、誰に会わせようとしているのかくらいは話しておくべきですよね」
真守は落ち着いてきた。微笑みを浮かべるくらいの余裕は戻った。ここで少し場を和ませるようなことを言う。
「ちなみに男の子ですよ。可愛い女の子じゃなくてごめんなさい。でも、いいじゃないですか。空麻さんには鈴花ちゃんがいるのですから。あんなに明るくて、可愛くて、巨乳の女の子、逃がしてはダメですよ」
巨乳という言葉を真守が言った瞬間、空麻が少し目を逸らしたのを真守は見逃さなかった。やはり男の子としては意識せざるを得ないのだろう。真守だって、あれ程の豊かな胸は羨ましい。
空麻をからかうのはこれくらいにして、真守は真剣な面持ちに戻った。
「まあ、真面目な話、あなたに紹介しようとしている人は、あなたと同じ、元は標山家の人間でした」
そして真守はその名前を口にした。
「ミヨク・ゼーラー。元は、標山明空と呼ばれていた人です」




