第1章 二人の少女(1)
空麻という少年は高校生になる直前に、自分の本当の姓が標山であることを知らされた。彼は五歳の時まで、標山の森と呼ばれる土地に住んでいたのだが、ある事故によって記憶を失ったらしい。その時に家族の多くが死傷したようで、標山家は自分の土地を捨てざるを得なかった。空麻は遠くの地域にいる両親の知人に引き取られ、中学卒業まではそこで育てられた。
そのまま同じ地域の高校に進学する予定であったが、その高校の入学式を迎える二日前になって突然、空麻は転校することになった。龍水家が一時的に空麻を預かることになったのだ。養親は最初こそ反対したものの、結局は渋々ながらも空麻を龍水家に引き渡した。
そして空麻の新生活が始まった。龍水家ではなく、すぐ近くのアパートに住まわせてもらっている。転校先の高校はなんの変哲もない公立高校だ。龍水家の長女もそこに通っている。龍水家は大きな屋敷だが、それ以上のことを空麻はまだ知らない。不自然なタイミングで自分を引き取ったのだから、何か特別な環境が待っているのだと空麻は身構えていたが、最初の三か月間は普通の高校生活を送っていた。
そして七月の中旬である。期末テストが終わってから、数日過ぎた頃である。空麻はいつものように龍水鈴花と登校する。彼女は高校二年生で、歳は空麻の一つ上だ。空麻が標山家にいた幼少期に面識があるらしく、いわゆる幼馴染だと空麻は聞いている。最初は鈴花に対して敬語を使っていたが、幼馴染だからタメ口でいいと言われたので、今では友達のように話している。呼び方も『鈴花ちゃん』だ。
校門まで辿り着き、空麻はある人物の姿を見つけた。鈴花も彼女の存在に気付いたようで、声を上げる。
「久遠先輩だ……」
久遠真守。この学校の生徒で、高校三年生だ。
朝はよく鞄を持たずに、校庭のベンチに座っている。どうやら教室に鞄を置いた後に、予鈴が鳴るまで校庭にいるらしい。しかし今日はいつもと違う行動を取った。真守は校門の方を見ると、昇降口へと入っていったのだ。
「ねえ、鈴花ちゃん。今、久遠先輩、こっちを見てたよね?」
空麻が鈴花に訊くと、鈴花は空麻を見てにやりと笑う。
「空麻君が久遠先輩に見蕩れていたの間違いじゃないの?」
鈴花に言われて、空麻は少し焦った。確かにここ最近の空麻はよく真守のことを見ている。彼女に話しかけたことはないし、恋心を抱いているわけではないが、それでも空麻は彼女が気になってしまうのだ。
「そうだよね。久遠先輩、相当の美人だから仕方ないよね」
確かに鈴花の言う通りだ。女子にしては背が高く、百七十センチ近くあるようだ。スレンダーではあるが、細過ぎず、しっかりと鍛えていることが窺えた健康的な体つき、そして鋭い目つきではあるもののとても整った顔立ちをした美人だ。
「いいよね。背が高くて、スタイル良くて、あんなに大人っぽいなんて……。憧れるのを通り越して、人生の不公平さを感じるよ」
鈴花はそんなことを口にするが、空麻は不思議に思う。鈴花は真守と違って背は低いし、童顔ではあるが、とても可愛らしい顔立ちをしていて、肩まで掛かる黒髪のサイドテールがその可愛さを引き立てている。それに、結構胸が大きい。だから、空麻が鈴花と一緒に登校していることをクラスメイトの男子に羨ましがられている。もう少し自分の可愛さに自覚を持ってほしいと空麻は常々思っている。
「ところで、空麻君は久遠先輩のことが好きなのかな?」
「そうじゃないよ。確かに久遠先輩は美人で、つい見てしまうこともあるよ。けど、久遠先輩も僕のことをよく見てるんだ」
自意識過剰ということでは決してないと空麻は自信を持って言える。登校時や、廊下ですれ違う時、食堂に来た時、よく真守と目が合う。下校時も真守を校庭で見つける時がしばしばあり、やはりその時も目が合うのだ。
「そうなの。もしかしたら、久遠先輩の方が空麻君のことを……」
「いや、それはないと思うよ」
確かに真守はよく空麻のことを見ている。しかしその視線からは好意というものが感じられない。むしろ彼女は空麻のことを警戒しているようだ。監視していると言っても過言ではないだろう。確かに変なタイミングで転校してきたが、二学年も離れた先輩がそんなことを気にするだろうか。
「確かにそれはなさそうだね」
鈴花は笑って返す。そうして歩いている内に、昇降口まで辿り着いていた。一年と二年の教室が反対方向なので、空麻と鈴花は昇降口で別れた。そして教室に入る。
「藤谷! お前と言う奴は?」
教室の扉を開けた瞬間、杉原という男子生徒が空麻に迫ってきた。杉原はクラスで一番仲の良い男子生徒で、くだらないことや真面目なことをよく話し合っている。ちなみに藤谷というのは養親の苗字であって、転居した今でも変えていない。
杉原は何やら怒っているが、今にも殴り掛かりそうな雰囲気というわけでもなく、どこかもどかしさがにじみ出ていた。
「待ってよ。僕が一体何をしたって言うんだよ?」
「とぼけるなよ。龍水先輩という人がありながら……」
鈴花が関係しているようだが、空麻には心当たりがない。杉原の後ろを見ていると、何人かの男子生徒が寄り集まっていた。その中の何人かも杉原のように怒ったような表情を見せている。
そこで、早見という男子生徒が杉原の肩を叩いた。
「別に、藤谷が悪いわけじゃないだろ。確かに、ちょっと羨ましいけど」
早見がそう言うと、杉原は空麻から距離を取る。そして冷静さを取り戻したらしく、少し俯きながら空麻の方を向いた。
「悪い、藤谷。あまりに羨ましくて……つい……」
「もういいけど、せめて理由を教えてよ」
空麻は訊くが、杉原はなんだか話すのを躊躇っているようなので、早見の方を見てみた。すると、早見があっさりと答えてくれた。
「三年生の久遠真守先輩って知っているか? その人が今朝ここに来たんだよ。俺と杉原がいたから話を聞いたんだけど、藤谷に用事があったらしくて、放課後、体育館裏に来てほしいんだとよ」
それで空麻は納得した。つまり真守が放課後の体育館裏で空麻に愛の告白をするものだと思われているようだ。絶対に考え過ぎだが、告白を連想するのも仕方ない。しかし空麻にはもう一つ分からないことがあった。
「けど、どうしてそこで鈴花ちゃんの名前が出て来るのさ?」
この質問にも早見が答えた。
「それは久遠先輩が、龍水鈴花さんには秘密にしてくださいと伝えてください、って言ってたからだよ。お前の彼女には知られたくないことなんじゃないか」
それで杉原は鈴花の名前を出したようだ。日頃から彼は空麻と鈴花の仲の良さを羨ましがっていて、そのことでよく空麻をからかっていた。空麻は否定しているが、杉原は空麻と鈴花が恋人同士だと思い込んでいるようだ。
「それで、藤谷。お前はどうするんだ。行くのか? 久遠先輩を選んでしまうのか? それとも龍水先輩なのか?」
やや興奮気味に杉原は訊く。対する空麻は落ち着いて答える。
「別に、用事が告白っていうわけじゃないでしょ。そもそも鈴花ちゃんとはそういう関係じゃないよ」
「いつも思うけど、二年生女子をちゃん付けで呼んでいる時点でその言葉に説得力はないからな」
早見の的確な突っ込みが入る。杉原や後ろの男子生徒も頷く。確かに怪しいのは分かるが、空麻は気にしないことにした。前に進んで席に向かう。その頃には、後ろの連中は解散していったが、杉原と早見は空麻について来る。結局、空麻が自席に座り、杉原と早見が囲む形になった。
「それにしても、噂通り、久遠先輩は美人だったよな。クールだけど、すごく物腰が柔らかくて、下級生の俺達にも丁寧語で話すんだぜ。龍水先輩のかわいい感じもいいけど、久遠先輩のような上品なお姉さんタイプもいいなぁ……」
「杉原の高すぎる理想はさておき、久遠先輩って実はこんな噂があるんだ」
がっくりと項垂れる杉原を置いておいて、早見はこんなことは話し始めた。
「久遠先輩は美人で性格も良いらしいけど、あの人に告白したのはただ一人で、他の誰も告白しようとしないらしい」
それを聞いて意外だと空麻は思った。あれ程の美人なら、むしろ告白する人が後を絶たないと考えるのが普通だ。
「それはどうしてだよ。俺、チャレンジしようと思ってたのに……」
「やめとけ。お前じゃ絶対無理だ」
杉原を落ち込ませてから、早見が話を続ける。
「久遠先輩が一年生の時、当時三年生の男子が告白したらしい。その男子はサッカー部のエースでどの学年の女子からも絶大な人気があったんだと。そんなアイドル的存在と美人の一年生女子、お似合いのカップルと思うだろ。けど久遠先輩は振ったんだと。しかもその男子を睨みつけて『私の目の前から消えろ』と言ったらしい。怒りというか、もはや殺気を感じて、自分はここで殺されるってその男子は本気で思ったようだ。学校一のアイドルでそんな結果だったから、他の誰が行っても無理だろうって、誰も告白しなくなったんだと」
「嘘だろ……。信じられねぇ……」
杉原はそう呟く。空麻は少しだけそう思ったが、すぐに考えを改める。自分が真守と目が合う時の彼女の眼差しを思い出した。とても冷たくて、空麻のことを監視しているようなものだ。そこからは決して好意は感じられない。
早見が話した噂と照らし合わせて考えると、放課後の呼び出しが明るいものではないと察せられる。
「それに、久遠先輩って、標山の森に住んでいるんだって。あそこは蛇神を祀っていて、彼女はその巫女っていう話もある」
「それって、どういうこと?」
空麻は勢いよく立ち上がって、早見に問いかけた。対する早見は突然のことで驚いて、たじろいでしまったようだ。周りを見ると、何人かの生徒も空麻を見ている。空麻は自分の失態を恥じながら、ゆっくりと腰をおろした。
「急にどうしたんだよ。まさか、巫女っていうワードがそんなに気になるのか?」
杉原はそう訊くが、もちろんそういうわけではない。空麻は『標山』という言葉に反応したのだ。それは空麻が元いた家の姓だ。標山の森に住んでいて、標山家と無縁であるわけがない。おそらく自分とも何か関係があるし、十年前の事故についても知っているかもしれない。
「違うよ。ごめん。驚かせて。それで、久遠先輩が標山の森の巫女っていうのはどういうことなの?」
空麻が改めて訊くが、早見は両手で天秤を形作りながら首を横に振る。
「それ以上のことは知らないよ。なんか深く知っちゃいけない感じだし……。だから、藤谷もあまり浮かれない方がいいぜ」
最初から浮かれていなかったが、もっと真剣に考えないといけない。標山家のことになると、鈴花に話しておくべきかと空麻は考えた。しかし本当に標山家は関係なく、愛の告白ではないにしろ、鈴花に知られたくないようなことを話したいだけなら真守に悪いと思い、やはり真守の言う通り鈴花には黙っておこうと空麻は考え直す。
「わかったよ。気を付けておくよ」
もしかしたら、真守と鈴花は実は知り合いで、鈴花のことで何か相談があって、鈴花と仲の良い空麻と話したいのだろう、と空麻は納得することにした。




