第1章 蛇神の森(1)
標山の森。久遠家が所有している樹海だ。真守はその森に住んでいる。家から学校のある市街地まではおよそ八キロメートル離れているが、いつも徒歩で通学している。バイクの免許は持っているし、バイクで通学することもあるが、それは特別な事情がある時だけにしている。
やはり徒歩となると登下校だけ相当な時間が掛かるのだが、真守はそれを全く苦にしていない。街で一人暮らしすることも一時は考えたが、森が好きだということもあるので、生まれてこの方、住居を変えていない。
三月下旬。今日は真守にとっては、高校二年生で最後の登校日だ。
一時間半くらい歩いて、真守は学校の近くまで辿り着く。そこである女子生徒を見つけた。今日話をするつもりでいたので丁度いいと思い、声を掛ける。
「鈴花さん。待ってくださーい」
龍水鈴花。真守の後輩である女の子だ。茶髪のサイドテールをした可愛らしい女の子で、胸も意外と大きい。真守は仲良くしたいと思っているのだが、鈴花の方はあまり歩み寄ってくれない。今も少し厄介そうに眼を細め、話す時も視線を向けない。
「なんですか? 久遠先輩」
「もう。真守さんでいいと、いつも言っていますのに」
真守と鈴花は長い付き合いになる。それでも未だに鈴花は打ち解けてくれないのだが、真守はめげずに愛想よく振舞う。
「春休みになるとしばらく会えないですし、お話ししましょうよ」
鈴花は嫌そうな顔をしながらも、小さく首を縦に振った。
「まあ、いいですけど……」
なんだか無理矢理つき合わせているようで申し訳ないが、真守としてはどうしても鈴花に話しておきたいことがある。
「いきなり悩みを相談するようで申し訳ないですけど、最近、なんだか見られているような気がするんですよね」
「本当にいきなりで――」
鈴花はそう言いかけて口を止めた。それから何かに気付いたように辺りを見渡す。真守は咄嗟に鈴花の肩を触れる。一旦笑みを消し、真面目な声色で鈴花に囁いた。
「やめてください。気取られます」
三日前からは学校付近で監視されることはなくなった。とはいえ万が一見られているとしたら、警戒していることを悟られたくないと真守は考えている。特に、鈴花のことを認識されると少々面倒なことになりそうだ。
それから真守は笑顔を戻して話を再開させた。
「まあ、何か被害にあったわけではないですけど。鈴花さんの方がはるかに可愛くてスタイル良いですから、私なんかよりも鈴花さんを見ればいいと思うのですが……」
自分の見た目は女子としてはあまり良くないと真守は思っている。髪型は地味な黒髪のおかっぱで、笑顔を意識していないとたちまち目つきが悪くなってしまうような釣り目だ。身長は中途半端に高く、胸も小さい。付き纏うとしたら鈴花のような女の子の方がいいだろう。
「気持ち悪いこと言わないでください。私は別に、誰かに見られているということはありません」
真守の予想通り、相手はただのストーカーではなさそうだ。そもそも真守を監視しているのは一人ではない。おそらく四人だろうと真守は見積もっている。真守の素性をある程度調べているのは間違いない。
それでも真守に危害を加えようとする気配は全くない。ただ真守の行動を把握しようとしているだけのようだ。それならば監視している人達の目的に検討はつく。放置するのもよくないだろうと真守は考えた。
もう一つ、真守には鈴花に話しておきたいことがある。
「そういえば、今度ヘンシェル教会に行きませんか。なんでも最近、イケメンな牧師さん――いや、神父さんと言うべきですかね……。そういう外国の人が何人も来ているらしいですよ。見に行きましょうよ?」
「しばらく会えないんじゃなかったですか?」
「そう固いこと言わないでくださいよ」
皮肉を言いつつも鈴花は真守の話をちゃんと聞こうとしている。彼女もヘンシェル教会については知っているはずだ。街外れにある教会だ。標山の森からそう遠くはない。九年前にできた教会で、テレビや雑誌で取り上げられたこともあった。
そして、これからもっと話題になりそうなことがある。
「なんでも、すごく美人でセクシーなシスターさんがいるそうなんです。健人さんが聞いたら喜びそうですよ」
「私が相手をしないからって、そう言って兄さんを誘わないでくださいよ。シスターのこととか本気にしそうで怖いです」
「それは言えていますね」
鈴花には健人という兄がいる。健人は性格が良いのだが、綺麗なお姉さんには目がないという悪癖がある。
鈴花は怪訝そうな口調で指摘する。
「その教会って普通の教会ですよ」
「まあ、私もそう思ってはいるのですが……」
ヘンシェル教会については真守も怪しい噂を聞かない。悪霊を召喚するような邪悪な儀式をしていることもなく、強引な勧誘や寄付の強要をしていることもない。
「けど、なんか変じゃないですか?」
真守としてもヘンシェル教会を危険な宗教団体と断定する証拠はない。それでも腑に落ちない。真守も知らないような秘密を握っているのではないかと勘繰ってしまう。
そんな真守と対照的に、鈴花は平然としている。
「私も兄さんと一緒に行ったことが何回かあります。本当に何の変哲のない教会ですよ。日曜にミサをして、慈善活動をするような普通の教会です。人員が増えたのも、春休みに何かのイベントをするからじゃないですか」
「だといいのですが……」
「とにかく兄さんには伝えておきますけど、私も兄さんも忙しいですし、あまり期待しないでください」
「よろしくお願いします」
鈴花はヘンシェル教会に興味がないようだ。この調子だと健人も適当な理由をつけて断ってくるだろう。とりあえず真守としては鈴花に伝えておくべきことはもうない。ここからは本当にただの雑談だ。
「そういえば駅の近くにクレープ屋ができたんですって。鈴花さんもあの辺りは通りますよね。奢りますから帰りに行きましょうよ」
「遠慮します。用が終わったなら失礼します」
「えぇ……ちょっと」
鈴花は真守に小さくお辞儀して、足早に去って行った。真守は純粋に落ち込む。仲良くなるきっかけを作りたかったのだが、それすらも許してもらえそうもない。健人に会うことがあれば相談してみようと思う。
仕方がないので真守は一人寂しく校舎へ進む。その間に監視されていることについてもう一度考える。
監視され始めたのは八日前からだ。ヘンシェル教会の人員が増えたのはおそらく五日前である。だから真守を監視しているのはヘンシェル教会の人ではないだろうが、それでも無関係ではないかもしれないと真守は考えている。
自分が監視されている理由は、間違いなく標山の森にあるだろうと真守は推測している。あの場所はただの樹海ではない。かつて所有していた標山家が十年前の事故により壊滅した、いわくつきの土地である。
真守も十年前の事故についてはある程度知らされている。当時の標山家は何世帯も家族がいて、使用人もたくさんいるような家だった。それが一夜にして、死者八名、重傷者十七名の大事故を引き起こしたのだ。標山の森の中心にある洞窟で何かの祭事を催していたらしい。警察の発表では洞窟内で爆発が起こったとのことだった。
久遠家は標山家と繋がりがあったため、標山家が去った後に標山の森の所有権を押しつけられてしまったわけだが、ほとんど放置しているような状況が続いている。真守が住む家も森の端っこに位置していて、森の中心は真守が月に一回だけ見回りをしているだけだ。
だからと言って久遠家は、標山の森を売るつもりはない。手放してはならない理由があるのだ。
標山の森の奥底に眠る秘密を守り続けるために――。