プロローグ
白く、真っ白な魔女。
久遠真守という少女にとって魔女とは、可愛い衣装を身に纏い魔法のステッキを振るう女の子ではなく、若くて綺麗なお姫様に呪いをかける悪の女王でもなく、大きな釜で怪しい色の薬を煮込む老婆でもなかった。
それは真守が七歳の時に教わった、『白い魔女』という童話に登場する少女であった。
当時、真守の住む久遠家は、真守と同い年の少年とその母親を預かっていた。久遠家がある森のさらに奥にあった標山家の住人であったが、とある事故により家がなくなってしまったのだ。
「みよ君。みよくーん。どこにいるの?」
真守は大声で彼の名前を呼ぶ。しばらく待っても返事がないことで彼がいる場所の検討がついた。彼の母親、標山澄香のところだ。澄香は事故が原因で病床に伏しており、彼がよく彼女の看病をしている。
澄香の寝室の前に来ると、真守はいつも襖越しに声を掛ける。しかしその時はそうしなかった。襖がわずかに開いていて、中の様子が見えたからだ。
布団で寝ている澄香の傍で彼が正座している。そして語り始めた。
むかしむかし、世界は人間の国と獣の国に分かれていました。
獣はどんどん増えていき、獣の国は強くなっていきました。
一方で、人間の国は狭くなっていくばかりです。
自分たちの国を広げるために獣の国を攻めようにも、人間では獣には勝てません。
そこで人間は一人の少女に不老不死の呪いをかけて、獣の国を攻めさせようとしました。
白く透き通った肌を持つ少女は不老不死になったことで、白い魔女と呼ばれるようになりました。
少女は魔女になったことを嘆き、獣の国を攻めることもなく、呪いを解く方法を探しました。
怒った人間は少女を捕まえようとしてきたので、少女は獣の国に逃げていきました。
そして少女は獣の国で、王子様に出会いました。
王子様は少女にかけられた呪いを解くことができるのです。
王子様は少女の呪いを解き、少女は魔女である苦しみから解放されました。
彼は絵本も何も持たずに、ただ澄香だけを見つめながら語っていた。それを澄香は微笑んで聞いていた。普通は立場が逆なのだが、それでもその親子の姿に何も不思議はないと真守は感じた。
彼が語り終えると、澄香が真守の方を向いた。どうやら真守が来ていることに気付いていたようだ。真守は襖を開けて姿を現す。
「真守ちゃん」
彼は恥ずかしそうに俯いてしまったが、真守が大きな拍手を送ると笑顔を見せてくれた。それから澄香が彼に声を掛ける。
「ほら。遊んでおいで」
彼は元気よく「うん」と首を縦に振り、真守と一緒に澄香の寝室を出る。今から何をして遊ぶかよりも、真守には気になったことができた。
「今のお話は何?」
「『白い魔女』っていうお話だよ。真守ちゃんは知らない?」
「うん。知らない」
真守はそんな童話を両親から読み聞かせてもらったことがない。第一印象としては奇妙な物語だった。
七歳の真守でも、童話には人生における大事な教訓が隠されていることくらいはなんとなく察していた。しかし『白い魔女』からは何も見えてこない。それどころか、獣の国や不老不死の呪いが物語の中でどういう意味を持つのかよく分からなかった。
そんなことよりも真守の幼心に深く刻まれたことがあった。
「その魔女の女の子って、お姫様みたいだね」
当時の真守には、ただ魔女が王子様に助けられるという物語がとても輝かしく映っていた。だからこの童話を聞いた真守は、魔女に憧れることもなく、怖がることもなく、嫌悪することもなかった。真守にとって、魔女とは悲劇のヒロインなのだ。身勝手な人間に呪いをかけられて、王子様に救ってもらう、お姫様のような存在だ。
「そうだね」
彼も満面の笑みで応えてくれた。元々仲が良かったが、『白い魔女』を教えてもらってから、真守はさらに彼と仲良くなれたと思っている。引っ込み思案で臆病な彼だったが、段々と口数が増えて明るくなっていった。今にして思えば、あの時が真守にとって最も幸せな時間だったのだろう。
しかしそんな幸せな時間はそう長くは続かなかった。まず澄香が病死したのだ。事故に関わる病気だったのだろうが、詳しい死因は真守には教えられなかった。彼は心をひどく痛めていたが、それでも真守は彼を元気づけようとした。
彼の心が回復してきた頃に、さらにもう一つ真守の幸せを奪う出来事が起きた。
彼の後見人を名乗る外国人の女性が現れて、彼はその女性に引き取られてしまったのだ。もちろん久遠家は反対したが、生前の澄香が彼を引き取ってもらうようその女性に依頼していたらしく、澄香の直筆の証文を見せられてしまえば久遠家は何も言うことができなかった。
こうして真守と彼は引き裂かれてしまった。
それから彼との再会が叶うことなく、十年の年月が経過した。真守は彼と連絡先を交換することもなかったので、電話も文通もできなかった。しかし十七歳になった今でも、彼のことと彼が語ってくれた『白い魔女』の童話は一切忘れていない。そして魔女に対する考え方も幼い頃から全く変わらなかった。
ところで真守は『白い魔女』の童話の出自を調べてみたものの、結局それを突き止めることができなかった。図書館で探してみてもそんな物語を書いた本はなかったし、インターネットで検索してもそれらしき情報は手に入らなかった。
さらに真守には『白い魔女』のことでもう一つ引っかかっていることがある。澄香が臨終の際、彼に対して言い残した言葉だ。
「どうか……あなたは『白い魔女』のようにならないで……」
唐突な言葉だ。まるで彼が『白い魔女』のように自分勝手な人間達の呪いをかけられるような言い方だ。その時の彼は少し戸惑いながらも、素直に首を縦に振った。二人の間にどんな言外のやり取りがあったのかは真守には分からない。しかし幼い頃の真守でも直感したことがあった。
あの親子には、誰にも知られてはいけない秘密があることを――。