2:異世界で生きてくとか無理ゲー
武琉は目を覚ました。
正確には夜中に何度も目を覚ましている。
目を閉じていても、時折聞こえる苦し気なうめき声。耳を塞いでも、立ち込めている血の匂い。
時折感じる足の痛み。
いずれもが、自分にとって日常ではないことを思い知らされる。
湧き上がる不安と恐怖。暗闇はその感情を煽り立て続けた。
ようやく目にした陽の光が、少しだけ安堵感をもたらし、恐怖を和らげる。
昨日は気が付かなかったが、体中が痛い。骨折こそないが、あちこちに打撲があるのだろう。
衝撃的な事実に、気づく余裕すらなかったのだろう。
上体を起こしてベッドに座った状態になる。足が曲げられないので決して楽な姿勢とは言えないが、固い寝台の上に寝ているので、腰も痛い。少しでも姿勢を変えて、動かせる部分は動かしたかった。
そうしていると、このテントの端を歩く人物が目に入った。ディープフロスト医師だ。
こんなに早くから見回っているんだ、などと考えていると、起きている武琉に気が付いたようだ。こちらに向かってくる。
「おはようございます、タケル。やはりよく眠れなかったようですね」
「おはようございます、先生。なぜそう思われるのですか?」
「アレンでいいですよ、タケル。そりゃ突然異世界に来てしまって、ぐっすり眠れる方がおかしいとは思いませんか?私があなたの立場なら、眠れぬ夜を過ごすでしょう。まあ、エルフは眠りませんけどね」
「エルフって眠らないんですか?」
「エルフを知っているのに、エルフのことはあまり知らないようですね。エルフは眠りませんよ。数時間の瞑想で疲労を回復できますからね」
「そうなんですか、知りませんでした」
「知らなくても困る事はないですね、じきにあなたは元の世界に帰れるのですから」
「え、俺は帰れるんですか!?」
「ああ、ごめんなさい。言葉足らずでした。今すぐ帰れるわけじゃないですよ。でも私はタケルが帰れると信じてますから」
武琉は少し肩透かしを食らった感じだ。ぬか喜び。すごく虚しく感じる。
「起きてるようですし、せっかくですから足の状態を診ましょうか」
そう言ってアレンは足の状態を確認し始める。
「指が触れる感覚はありますか?」
「はい、あります」
「少し強く触ります、痛かったら教えてくださいね。ここは?」
「大丈夫です」
「ではここ。」
「んと、少し痛い感じがしますが大丈夫です」
「んじゃ…ここは?」
「痛いです!」
「あんまり大きい声はだめですよ、皆さんまだ寝てるんですから」
「今の間、先生痛いってわかってて触ったでしょ?」
「ええ、まあ、分かってますけど確認も必要なので」
「酷くないですか?」
「酷くはないですよ、痛くないなんて言ってませんから」
あーいるよねー。こういうS気質のお医者さん。武琉は口には出さずに思った。
「そうですね、特別なタケルに特別な治療をしましょうか」
えっ、この流れで特別な治療って?武琉は警戒する。何をされるか分かったものじゃない。
「だ、大丈夫ですから。そんなに気を使ってもらわなくても」
「遠慮はいりませんよ、楽にしてくださいね」
そう言ってからアレンは宙を指でなぞる動作をしてから目を瞑った。
「先生?」
武琉の声とほぼ同時にアレンは手をかざしてから囁く。
「わが主、月の神よ。私の願いを聞き入れ奇跡の御業を為させ給え。軽症の治癒」
その言葉が終わると同時にアレンの手は淡く輝き、そこから光の帯が武琉の足へと流れる。
「治療魔法……?!」
武琉は思わず口にした。
それとほぼ同時に治療が終わりアレンが口にする。
「私は聖職者ですからね。これは魔法ではなくて、神の奇跡ですよ」
そう言ってから、タケルの右足を触っている。先ほど触られて痛かったところだ。
「え、痛くない?」
「運が良かったですね。綺麗に折れていたので、すぐに繋がったようです。左足も確認しますね」
そう言って容赦なく左足を触っている。武琉は痛みが来たらすぐにでも逃げ出せるように身を構えた。
だが、それは杞憂に終わった。
左足もどこも痛くない。
「本当に運が良かったですね。骨折はほぼ完治しているようですね。ですが、今日一日は添え木を外さずに、出来るだけ安静にしててください」
「魔法って本当にあるんですね……」
武琉は誰ともなく呟いた。その声はアレンにも届いている。
「これは魔法ではなくて、神の奇跡です。魔法と一緒にしてほしくないですね。ただ、あなたの世界には神の奇跡も魔法もないのでしたら、仕方のないことだと思います。神もお赦しくださるでしょう」
アレンはそう言ってから手を組んで祈りを捧げた。
「先生、その…一つ教えて欲しいんですけど」
「アレンで結構ですよ。で、何でしょう?」
「その、お手洗いは…」
「お手洗い?ああ、厠ですね。テントを出て右側、少し進んだ先になります。一応出歩くときは杖をついてくださいね」
そう言ってアレンは松葉杖を持ってきた。
「もう少しお話をしたかったのですが、そういう事情では仕方ありません。私は他の患者さんを診ていますので、のちほどまた」
アレンはその場から移動し、四つほど隣のベッドに行くと、横たわる患者と話を始めた。
武琉は恐る恐る足を下ろして動かす。痛みはない。
杖を片手にテントを出て、厠に向かった。小さな木製の建造物。
そしてそこで、武琉は僅かな胃の残留物をぶちまけることになった。
戻ってきたタケルを見て、アレンが駆け寄る。
「大丈夫ですか?どこが具合が悪いのですか??」
武琉は少しふらついている。アレンは診断の見落としをまず疑った。
「いえ、大したことはありません。その、臭いにやられて……」
「臭いですか?敵の魔法使いによる毒ガスの可能性もありますね。だれか…」
アレンがそこまで言ったときに、武琉が慌ててアレンの口を塞ぐ。
「そうじゃなくて、糞尿の臭いがきつくて」
「ああ、そういうことですか。以前いた貴族のボンボンがそんな事を言ってました。タケルはいいとこの出なんですね」
「いえ、ごく普通の市民です。えっと平民の方が通じるのかな」
少しアレンは考え込んだ後に、
「随分と文化水準が高い世界なのですね。そちらの世界の話をいろいろ聞きたいものです。
もう少ししたら、もう一人あなたに会いに来る人がいますから、その時にぜひ聞かせてください。
お水を少し飲んで落ち着かれると良いでしょう。飲み水はあそこに置いてある甕のものが飲料用ですから」
そう言ってタケルをベッドまで送ると、再び他の患者の元に向かった。
武琉は水を飲むことを考えたが、あの厠を見た後で、甕に組んである水を飲む気にはなれなかった。
「せめて火を通してあるものじゃないと、死ぬかもしれない」
30分ほど経ってから、アレンは昨日見かけた魔法使い風の男と共に、武琉を訪ねた。
「タケル、こちらはジェンソン士長。魔道兵部隊の指揮官さんだよ。まず最初に君に残っているかもしれない魔法の残滓を検査したいんだが、協力してもらえるかな?」
「それって痛かったりしませんか?」
武琉は慎重になっている。自分の常識とか、それくらい大丈夫だろうと言った慢心が自分にとって危険であることを学び始めていたからだ。
「大丈夫、痛くもかゆくもない」
ジェンソンが答えた。
「でしたら、お願いします」
少し渋々な感じを漂わせながら、武琉は答える。
答えと同時にジェンソンが呪文を唱え始めた。何を言っているのかは聞き取れない。
「これは……」
次にジェンソンのつぶやきが聞こえてきた。
なにが、『これは…』なのだろう?武琉は続く言葉を待つ。
「確かに空間転移の痕跡があるが、見たことのない強度と質だ。強力な魔法が働いたと言えるが、それが何なのか誰が行ったのかは、見当すらつかない」
つまり現状を変える情報は無かったという意味だと武琉は理解した。
「そうですか。空間転移であるという確認されただけでも、収穫はありました。これはタケルが元の世界に帰れる可能性が高いということを意味してるんですよ」
アレンが帰還の可能性について言及したが、武琉には意味が分からなかった。
その様子に気が付いたのか、ジェンソンが説明を続けた。
「この世界では、直接つながってはいないが、我々とは異なった者たちが暮らす別の世界。つまり異世界が存在することを認識している。そのうえでその異世界から使役できるものを召喚する魔法なども存在するんだよ。召喚できるということは帰還させることもできる。わかるかな?」
「理屈は分かります。手段があることも理解しました。ですが、それが実現できるのかが俺にはわかりません。実際の所どうなんですか?俺は帰れるんですか?」
武琉は不安や苛立ちを隠すことなく、言葉に乗せた。
そして彼は頭を抱えるようにうずくまる。
その言葉とそこにある現実は、アレンとジェンソンから言葉を奪い去った。流れる静寂の時間。
アレンがその静寂を破った。
「帰れるさ。可能性があるんだから。君が信じないで、誰が信じるんだい?」
アレンはそう語ってから、武琉に笑いかける。
優しい笑顔だ。
だけど武琉にはそれが他人事に思っているからと感じられた。
「なんで笑えるんですか?他人事だと思ってるからでしょ?
何にも知らないところで、一人で、怖くて、心細くて……戦場の真ん中にいて。
なんの取柄もない、魔法だって使えない。そんな俺にどうしろって言うんですか?」
偽らざる本音。魂の叫び。武琉にとって、今の精いっぱいの言葉だった。
武琉の頬に自然と涙が伝う。
その言葉を聞いてもなお、アレンは笑顔で語りかけた。
「僕がなぜ笑っているのか。あなたにとって今必要だから。
あなたが欲しいのは、同情ですか?憐れみですか?僕は違うと思っています。だから笑顔でいるんです。
まずは貴方の前にある事実をちゃんと受け止めてください。
あなたは今、あなたの暮らしていた世界とは、全く異なる世界にいます。
そして、あなたは自分の世界に帰るための手段がある事を知った。
この二つは事実だと思いませんか?」
アレンは静かに語りかける。武琉は黙ってそれを聞いている。
「なんの取柄もない、魔法が使えない?いいじゃないですか。それがあなたの思う現状です。
幸いなことに、あなたには自由があります。あなたが望めばなんだってできる。これも事実じゃありませんか?
あとはシンプルです。あなたが思うように挑戦してみればいい」
「一生懸命やって失敗したらどうするんですか?
努力が無駄になったらどうするんですか?」
「いいじゃないですか、失敗したって。それに努力が無駄になる事はありませんよ。
失敗から学べばいいことです。努力したことは貴方にとっての財産になるはずです。
何度失敗してもいいじゃないですか?
1000回チャレンジして失敗しても次に成功すればいいんです。成功するまでチャレンジすればいいじゃないですか」
「簡単に言わないでくださいよ、そんなことが出来る訳ないじゃないですか!」
「簡単な事ですよ。やればいいんですから。なぜできないと決めるのですか?」
話が平行線だ。理解してもらえるわけがない。どうせ異世界一人ぼっちなんて理解できるわけがない。
武琉は口を閉じた。
「ここにいるみんなが思ってるですよ。『故郷から遠く離れた、こんな肥溜めみたいなところで死んでたまるか』ってね」
「だったら、こんなところに来なきゃいいのに」
「そうですね、選択できたら誰もこんなとこには来ないでしょう。彼らには彼らの事情があります。
事情は人それぞれですけど、少なくともここで死にたいと思っている人はいませんよ?」
「そりゃそうでしょう。俺も死にたくありません」
「ええ、そうだと思います。ですから生きましょう。まず明日を目指しましょうよ。
何もしなくたって明日は来ます。最初はそれでもいいと思います。
でも、そのうちに気が付くはずです。やってくる明日は、今日という結果を反映したものだとね」
武琉は再び黙り込む。多くの言葉が頭を渦巻いていた。
「ひとまずこれくらいにして、食事にしましょう。
私がとってきますから、士長もここでお待ちください」
そう言ってアレンが天幕を出て行った。
武琉は思考の海で溺れかかっていた。僅かな沈黙。そしてジェンソンが武琉に声をかけた。
「なあ、坊主。俺からどうしてもお前に言いたいことがある」
そう言ったが、武琉は顔をあげない。
「お前が聞きたいか聞きたく無いかは関係ない。だが俺が言ったことは覚えておけ。
まず最初に、お前は知らんかもしれないが、エルフは長寿だ。自分よりも年下の子供くらいに思っているかもしれないが、あの人はお前の爺さんやばあさんよりも年上だって事を覚えとけ。それに見合う敬意を忘れるな。
もう一つ。お前は助けてもらって当然とか思ってるんじゃないだろうな?
あの人がお前を助けたいと思っていることに口を挟むつもりはないが、あまり舐めたこと言ってるようなら、俺がここから叩き出す。
忘れんなよ」
武琉は途中からジェンソンの顔を見ていたが、視線を動かせなくなっていた。
ジェンソンの視線にあからさまな嫌悪と怒りを感じ、射抜かれたままだった。
無言のまま、顔を見合わせる二人。
蛇に睨まれた蛙のように武琉は動くことが出来ない。
「おまたせしました」
アレンの声が天幕に響いて、凍り付いた空気を一瞬にして溶かした。
「あれ?なにかお話し中でしたか?」
「いえ、なにも」
アレンの問いかけにジェンソンはそう答えた。
アレンは手にしたトレイから、ボウルとスプーンを配って、中央にトレイを置いた。トレイの上にはいくつかのパン。
「あした補給が入るのが決まってね、今日は在庫の食料を大目に放出するってさ。
こんな日にここにいられるのは、かなりラッキーだよ」
アレンがそう言いながら率先してスープをすする。
見た目的には昨夜のものとあまり変わらない感じのスープ。気持ち具材が多いようにも感じるが。
武琉は一口すすり、昨夜自分で誓ったことを思い出した。
そうだ、俺は帰るって決めたんだ。何をうだうだしてたんだろう。
彼の中で何かが形を作り始めた瞬間だった。