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9 スージーの裏切り

 忠実な彼の従者が一通の便りを差しだしたのはその二日後、ユリシア並びレジアの両国王が帰途についた翌日のことだった。

「足の頑健な者を選んでりましたが」

 御待たせしまして申し訳ございません、と詫びる従者に、グレイスは手をあげて応えた。かの夢占い師、どうも辺境の地に住んでいるらしく、往復するには二日でも大仕事だっただろう。

 皇帝が赤い椅子に腰かけるのをみると、従者は深く頭を下げて部屋を辞した。なにを言わずとも察してくれる彼の気配りがありがたい。グレイスよりも二十ばかり年上のこの男は、彼が皇一族に迎え入れられた当初から傍に付き添っている。まだ年若いがその勤めの実績をみるに、従者長ずさちょうの職に就いても不思議ではなく、現にグレイス自身がそれを示唆したこともあったが、彼は頑としてこの出世話を呑まなかった。そうしてしまうと、グレイスの傍で働けなくなるからだと言う。ニンフがいなくなってしまった今、つい彼に父親の像をグレイスが求めてしまうのは、きっと仕方がないことだ。時折気づいて情けなくなることに、彼はいつでも父親を探していた。

 安物の羊皮紙は端が汚れ、手にとるだけでも占い師の庵の粗末さが想像できようというもの。そこに並ぶ文字は角々と縮こまり、きっと偏屈者らしいことが覗えた。

 書付にはこうある。

『 永遠の子ども 其リヒィ=ミヒィ也 』

 グレイスは驚いた。逸る目で続きを読む。

『 永遠の子ども 其リヒィ=ミヒィ也

  天に仇なす 呪われた御子

  四亜種を侍らせ その力 地を揺るがす

  火の絶対者にして 最強の魔導師也 』

 四亜種。火、水、地、風の精霊を指す言葉である。この他に光と闇の精霊もいるのだが、この二種は他と一線を画す力を有し、彼女らを使役できるのはそれぞれただ一人であることから、四亜種とは別に超越種と呼ばれて恐れられている。グレイスはその先を読んだ。

『 夢の吉凶 判別つけ難し

  彼 輪廻の外より見守る者

  彼笑う時 光降り注ぎ

  又 彼笑う時 闇が現れる 』

 言葉はそれで終いだった。グレイスは羊皮紙を折りたたみ、美しく切り整えられたガラスの皿にそれを乗せると、おもむろに火を点けた。思わぬ御馳走に、火は嬉々として齧り付く。

 揺れる小さな炎を見ながら、グレイスは昨夜のことを思いだしていた。


   第九話  スージーの裏切り


「やあ。ごきげんよう」

 前触れなく呼びかけられ、グレイスの肩は跳ねあがった。これほど不躾な挨拶があるだろうか。

 ふり返れば、やはりというべきか、リヒィ=ミヒィが立っていた。私室の窓には鍵がしっかと掛けられていたはずだが、どうやら彼にとってはさして問題でもないらしい。この寒い中でも裸足で平然としている彼の後ろで、開いた窓がキィキィと音をたてている。

「どうだ、少しは落ち着いたか。それとも息をつく暇もないか?」

 ん? と言いながら、すくうようにグレイスを窺う。グレイスはじり、と半歩下がった。

「ふふ。それはともかく、あのことについては考えてくれているよな。僕たちの今後の関係について?」

 友人としてどう、という話である。グレイスの心臓は暴れ回っていたが、しかしそれは毛ほども感じさせない鉄の顔。ただ、耳の後ろがじっとりと汗ばむのはどうしようもない。

「断じて――貴様を友人とは呼べぬ」

 リヒィ=ミヒィの笑みが強張る。吹きすさぶ雪風に凍りついたかのようだ。

 ただし、とグレイスは言葉を繋いだ。

「取引相手としてなら認めてやろう。個の情はなく、互いの利益のためだけに成り立つ関係として」

「ふむ」

 リヒィ=ミヒィは感心したように唸った。うまい具合に逃げるな、と。

「だが僕の分け前はどうなる。きみに知識を与えたとして、その見返りは?」

 グレイスは言葉に詰まる。不気味を体現したかのようなこの少年が、金やそれに準ずる贅沢品で動くようには思えない。ならば何を望むと言う。地位か? 名声か? それとも生贄、か? ――あり得る。

「おいおい、馬鹿な想像はよせ。僕は血なまぐさい魔族とは違うぞ」

 考えを読まれた。早く息を呑みすぎたため、グレイスの喉がひゅうと音をたてる。

「貴様、悟りか」

「今度は言うことまで馬鹿とくれば。僕は魔族とは違うと言った口も閉じぬうちだぞ。悟りの力を持つのは、優れた魔族の内でもごく一部。魔に造詣の深い国の長がそれを知らぬとは言わせんよ。しっかりしたまえ、青冥皇帝」

 グレイスの眉が苦みに歪む。口の利きようは老獪な大年増を思わせるが、姿形は間違いなく幼い子どものそれだ。言いくるめられると、それで余計いい気がしない。リヒィ=ミヒィはくっくと喉を鳴らした。薄い唇がめくれ上がり、尖った、小さな歯が並んでいるのが覗く。

「まあいい。取引相手としておくか。僕はただ、暇潰しができればそれでいいのだから」

「暇潰し」

「言葉の綾だ。気を悪くしたなら言い直そう。僕はただ、面白いことが見られればそれでよい。――これで満足かな」

「どちらでも構わん。さっさと本題に入れ」

 鉛のように重い体を椅子に沈ませ、グレイスは長々とため息をついた。酒のせいではない。ダレスの予見どおり、アルバルト王は夕の会食でも縁談話をしつこく勧めてき、それですっかり参ってしまったのだ。

「ほう。リヒィ=ミヒィを前にして、こうも尊大であれる人間などそうはおらんよ。きみはなかなか見込みがあるな。ただ、老婆心で言っておくと、それも過ぎれば早死にするぞ」

 額に当てた指の隙間から、グレイスはじっと彼を睨みつける。笑う口元は相変わらずのようだ。

 リヒィ=ミヒィはふわりと浮きあがる。グレイスはもう驚かない。これをみるのは二度目のことだ。しかしやはり体は強張る。彼の緊張に気づいているのかどうか、リヒィ=ミヒィはテーブルの上にちんまりと腰かけた。短い足を所在なさげに揺らす。

「さてさて、なにから話そう。やはり優先すべきはきみの御父上についてかな」

 グレイスは身を起こした。膝に拳を乗せ、背を伸ばす。

「ローハー国第三十六代皇帝、レザフ=E=ロウか。彼は哀れな人間だったな。一世一代の恋は実らず、強欲女に付き纏われ、果ては子飼いの犬に食い殺されるとは。哀れを通り越し、もはや滑稽」

「口を慎め。あの御方は臣民を心から愛する、立派な皇帝であられた」

「だが近頃はその像も揺れて心許ない。そうだろう?」

 言われてグレイスは黙りこんだ。その通りだ。彼の抱いていた名君たる養父の姿は、いまや靄の向こうに霞んでしまっている。

「はっきり言おう。彼はユリシアと結びたがっていた。それも、かなり性急に」

「…………」

 ユリシア。かつてローハーを多くの血で染め上げた、憎き大国。

「強大な力を持つ国同士が手を取り合う。その先に何があるかはきみにだって分かるだろう」

「――戦争」

「ご名答。それも、エルヴァニア全土を巻き込む大きなものだ。楯鉾の国レジアも抱えようという辺り、ユリシアも抜け目ない。これが敵となるか味方となるかで、戦士の質は変わるからな」

「しかし、なぜ……。彼が臣民を想う姿は偽りであったと言うのか? 賊魁ぞっかいと添えば、我が臣民らも戦いに向かわねばならぬことは必至」

 そこだよ、グレイス皇帝、とリヒィ=ミヒィは言った。

「彼はむしろ、臣民を愛するあまり戦争の道をとったといえる。過去の災いを繰り返してはならんとな。百隻戦争は、ローハーが小さな島国と侮られたからこそ起こったと、彼はそう考えていたのだよ。この際一気に領土を広げ、盤石たる礎を築き、ローハーの力を絶対不可侵のものとしようと」

「馬鹿な。血の染みついた礎の上に立つ国に未来などあるものか。戦争は起こさせぬ。私が臣民を守る」

 ふふふ、とリヒィ=ミヒィは不敵に笑う。楽しげに揺れていた足が止まった。

「幻想を抱くな。血濡れてない歴史などあるものか。無論この国も例外ではない。ただ、きみが何も知らぬだけでな」

 グレイスは怒りにまかせて立ちあがる。白い月光が、彼の優れた身体を背中から照らした。しかしリヒィ=ミヒィは動じない。やはり可笑しそうに笑っている。

「戦争は起こる。ちっぽけなきみが望もうが望むまいが。ユリシアは着々と準備を進めているぞ。不可避の戦争を前にして、賢明な皇帝はどちらを選ぶ? 勝者側につくか、敗者の側に立つか」

 握り締めた拳が震える。あまりに力を入れすぎたため、手の平が破れ、ぬるりとした血がグレイスの指を伝った。

「きみの御父上最大の罪は、力を求めすぎたことだろう。その罪の結果がユアだ。ああ哀れ、地下牢で生まれた情のない子どもよ」

「地下牢で?」

 眉間を曇らせ、思わずグレイスは訊き返したが、みつめる先にリヒィ=ミヒィの姿はなかった。一抹の風と共に、彼は背後の窓際へと移動していたのだ。彼の背丈の四倍はあろう窓枠に手をかけ、それを押し開きながらリヒィ=ミヒィは言った。

「今日はこの辺りまでとしよう。じきに夜明けだ。明日も朝浴のあとは会食だろう、皇帝陛下」

「待て。地下牢で生まれたとはどういうことだ。ユアはどういう身の者なのだ?」

 しかしリヒィ=ミヒィは行ってしまう。しっとりと絡みつくような夜闇の中に、小さな姿はまたたく間に消えてしまった。ただ短い言葉だけを残して。

「鍵は一人の女が握っている。スージー=R=ホメール。耳に懐かしい名前だろうが」

 グレイスは張りつけられたようにその場に突っ立った。心臓がどくりどくりと音をたてる。

 スージー=R=ホメール。代々皇城の庭師として働いていた家の男の元に嫁いで姓を改めた彼女こそ、ダレスの最も憎む女性にしてグレイスの生母、スージー=C=イスケだった。


 青と赤の旗で飾り立てた大船団が行く。その左右を固めるように、ローハーの警吏団の船も。

 グレイスはそれを見送ることもなく、湧くように出てくる書類に目を通していた。治水工事の推進計画、魔物討伐の是非、許可なく貿易に手を出した大臣の処罰、などなど。グレイスは淡々と雑務をこなしたが、時折その手がふと止まることがあった。目は何もない一点を捉えて動かない。

「なにか御気にかかることでも?」

 見かねた大臣が訊ねてみても、彼は首を横にふるばかりだ。

 グレイスは戸惑っていた。思いもかけず聞いた生みの母の名前。しかも、彼女が鍵を――何の、という明言こそなかったものの、恐らくはユアの身元に関する――握っているという。これでは上の空にもなるというものだ。

 スージー=C=イスケ。いや、結婚前の旧姓、R=ホメールとしてのほうが、ローハーの臣民には馴染みがあるだろうか。

 彼女は類稀なる才女であった。ローハー臣民には欠かせない紋章を作る工匠の家に生まれ、ほとんどの工匠階級がそうであるように、彼女もまた皇城には入ることすら許されない下二位の身分であった。ただ金だけは人並み以上に蓄えていたので、彼女の才を見こんだ両親は、我が家の光となれと、彼女を魔法学校に入学させたのだ。そしてスージーはその期待に見事に応える。

 ごく一般的な教育しか受けてこなかったのだ。入学当初は、元より専属の家庭教師に学んできた金持ちらに敵うはずもなかったが、スージーは学年が上がるにつれてその頭角を現し、卒業時にはなんと全生徒の頂点に立っていた。奇跡の才能とひたむきな努力、それから彼女のあくなき好奇心が、階級の壁を打ち破った瞬間だった。

 彼女の両親は涙を流して喜んだ。階級が絶対であるローハーだが、魔法学校の上位卒業者だけは例外級の扱いを受けることがある。レザフ皇帝の妻となることだって夢ではなかったのだ。

 スージーに周囲が息を呑むような美貌はなかったが、代わりに人を惹きつけてやまない愛くるしさが備わっていた。ほほ笑みかけられれば、それだけで抱き締めてしまいたくなるような。そんな彼女だから、レザフ皇帝も興味をもった。あどけなき奇才の噂は先に聞いている。

 彼女を含めた成績上位者は、卒業後、皇一族を表敬訪問する機会が与えられるのだが、その会食で、レザフはすっかりスージーの虜となった。緊張に染まった柔らかそうな頬、肩の上でふわりと揺れる小麦色の髪、意思の強さを秘めた空色の瞳――本当にこれが“風の奏者”と恐れられた希代の天才魔導師だろうか? 火の精霊サルマンを使役し、彼女の劫火を弓矢に変えて、一度に三本の矢を放つ大技で有名なダレス=S=タバサに並ぶと、スージーはまるで無垢な子どものようにさえみえた。話しかけられる度にうろたえて耳を触る仕草も、レザフの庇護欲をかきたてる。

 当時、レザフは二十の半ば。逞しい体に偽りを許さない鋭い目の男前である。権力に知性、金に、女を魅了する容貌まで備えた皇帝に、スージーの方とて惹かれぬわけがない。この会食で、彼女の皇后の座は決まったかのように思われた。だが、皇后誕生かと国中が熱に湧くこの日の夜に、彼女は取り返しのつかない罪を犯す。事もあろうに皇城の庭師の放蕩息子、ローザ=C=イスケと交わったのだ。


 書物庫に続く階段は、季節を問わず渇ききっている。革のブーツがたてる足音もどこか軽い。

 二十二年も皇城に暮らしながら、グレイスは一度として書物庫に入ったことがない。どこか暗く、陰鬱な雰囲気の書物庫には、グレイスでなくとも近寄りたくない気配があった。事実、管理の者が手を抜きさえすれば、すぐに埃でまみれてしまうような閑古鳥の巣である。

 グレイスが書物庫へ行くと言いだしたとき、彼の従者はうろたえた。どのような書物が御入り用ですか。私めが御取りして参ります、と。しかしグレイスは頷かなかった。自分の足で尋ね、目で探すことが必要だと信じたからだ。彼は知らなければならない。この国の真実、隠された秘史を。

「御言葉ながら、グレイス皇帝」

 書物庫の管理長である老人が進み出て言う。グレイスは手にしていた書物から目を離した。

「ここからは、なるべく早く御離れになられた方がよろしいかと存じます」

「なぜ」

「……不吉で御座いますから」

 わずかに眉を顰め、グレイスは言葉の続きを待つ。しかし老人は言い淀むばかりで、結局、グレイスが口で促してやらないまでは喋り出さなかった。

「ここは、この書物庫は……不義の者が足しげく通っていた場所に御座います」

 ぼかした言い方をする。はっきり述べよと、グレイスはやや強い口調で言った。

「つまり、その……ユアめが。ユア=A=フロイアントが、なぜかしら、よくこの書物庫を訪れていたので御座います」

「ユアが?」

 思わず声が大きくなる。老人ははっとしたように彼をみた。ユアは皇尊を殺した張本人である。彼の名をグレイスの耳に入れるのはやはり間違いであったと、老人は深く恐れ入った。が、グレイスの思惑は別のところにある。

「なぜ彼――魂食らいなどがこの場所に。あれは字も解さぬとのことではなかったか」

「その通りに御座います。文字など貴奴にとっては絵柄同然でしょうに、適当な書物を広げては、日が暮れるのも構わず眺めなどしておりました」

 ですからどうか、長居は控えられますよう。老人は唇を震わせて訴える。グレイスは難しい目で書物を睨み、それからぽつりと、分かった、とだけ呟いた。

 結局、私室に持ち帰ったのは、ローハーの建国からを書いた歴史本と、皇尊レザフの私記、それから百隻戦争の記録が書かれた合計三冊である。ただでさえ雑務で字を追ってばかりの上に、そのうえ過去の歴史まで学び直そうというのだから、大臣らは彼の姿勢に唸らされた。彼らにはただ、皇帝は、長たるためにこの国をより深く知らんとしているようにみえたのだ。その裏にある黒い影を探ろうとしていることなど気づく由もなかった。

 机に向かい、真新しい革の表紙をめくる。すかさず従者が机上のランプに灯を入れた。揺れる灯りが中表紙に描かれた皇一族の紋章を照らす。ついぞ見ることができなかった養父の側面を求め、グレイスは長い指で頁を繰った。

 彼は不世出の天才と呼ばれたスージーの実子である。文字はその明晰な頭脳に、滲みるように入りこんでいく。


 抗おうと思えば抗えたはずだ。なにしろ、スージーは魔法学校の首席卒業者なのだ。いくら不慮のこととはいえ、気を取り直してウィンディーネを呼びだし、ローザを襲い――殺してしまうことだって――簡単にできたはずだ。しかしそれをしなかったのは、偏に彼が、絶世の美男子であったためかと思われる。

 ローザ=C=イスケは、親からも見放される道楽息子であった。あまりに優れた見目のため、彼に群がる女は絶えない。そのことがさらに彼を堕落させる。世の女はすべて自分の意のままであると、若い彼が思い上がるのも無理はなかった。

 恐れと失敗を知らない彼が、スージーを襲ったのには訳がある。これは諸人が決して口にしない秘事だが、おそらくはダレスの目論見だろうということだ。遊びしか知らない若者に金を握らせ、あどけない少女を襲えと言う。簡単なことだ。

 純潔が第一とされる皇一族が、何者かと交わった女を皇后として迎えるはずがない。まさか己の情事が世に知れるとは思いもしなかっただろうが、スージーの思いとは裏腹に、これはすぐ皇帝の知るところとなった。やはりこれも、ダレスの手によることだろう。皇帝はあまりのことに茫然自失、それでも彼女を我が妃にと言い張ったが、先代の皇帝や皇太后らに厳しく叱られ、ついにスージーを諦めた。そして彼女の代わりに皇后の座を手に入れたのがダレスである。

 当初、スージーには死罪が言い渡されるはずであった。正式な決定こそなかったとはいえ、皇帝の伴侶となるべき人物が不義を働いたのだ。ローザ共々打ち首は逃れられない運命だった。しかし彼女は許された。きっとレザフの我が儘があったのだろう。ダレスと添っても、彼はスージーを諦めきることができなかったのだ。その澄んだ空色の瞳を。

 ローザもまた命を助けられた。スージーが泣いて庇ったのだという。たった一夜のうちに、彼女はローザの魅力にしこたま打ちのめされていたし、女の直感だろう、身ごもったことに気づいていた。腹の子から父を奪うのですか、と泣き喚く想い人のようすを伝え聞いて、レザフもついに怒りの鉾を収めたのだった。

 そして二人は結婚した。皇帝を裏切ってまで通じた仲だ。添わない訳にはいかない。遊びたい盛りのローザとしては甚だ不満であったが仕方ない。が、嫌だと言えば首を切られる恐れだってあるのだ。こうしてスージーは庭師の家に嫁ぎ、次の春には無事に赤ん坊を産んだ。グレイスと名付けられた赤ん坊は、父親譲りの端正な顔立ちに、母親の持つ愛らしいあどけなさを備えた少年へと成長していく……。

 ――彼女はいま、どうしているのだろう。

「会いたい人物がいる」

「はっ」

 少し躊躇してから、言った。

「スージー=C=イスケを城に呼べぬか」

 従者はぎくりと固まった。さもあらん、とグレイスはひっそり頷く。

 彼女はいわば、レザフ先帝の黒い歴史の一部である。ダレス皇太后にとってもそう。いくらグレイスの生みの母とはいえ、彼女の名が皇城で口にされることは一度もなかった。もちろん、グレイスが彼女の近況を知るはずもない。

 リヒィ=ミヒィは彼女こそ鍵だと言った。いくら恋慕の情に駆られても耐えてきたグレイスだったが、ここにきてついに我慢できなくなった。会いたい。わずかな思い出を取り出すにつけ、欲望は募る。母の温もりを感じたい。それに、きっと彼女は秘密の片鱗を知っているに違いないのだ。

「義母上の御気分を害することは分かっている。だから隠れて会う。今さら母子の情を確かめるわけではない。私はイスケ家とは既に縁を切った身だからな。ただ彼女に訊きたいことがあるのだ」

 グレイスは嘘をついた。しかし従者は余計にうろたえる。

「それでもいけぬと申すか」

「い……いえ……そういう訳では」

「では何だ」

 従者の顔は真っ青だ。グレイスが訝っていると、彼は膝をつき、音をたてるほどの勢いで頭を下げるとこう言った。

「恐れながら……恐れながら申し上げます。スージー=C=イスケ様は……既に、この世におられない御方なのです。ずっと御伝えも出来ず……お、お許し下さいませ!」

 グレイスは言葉をなくして従者を見下ろす。泣き放つ彼の声が、どこか遠くから聞こえるような気がした。

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