7 大国の干渉
ローハーの空に、こんこんと景気のいい音が響く。故人を悼み、その立像を作っているのだ。技師たちが集う作業場に、一度だけグレイスはねぎらいに訪れたことがある。作業はちょうど、土で築いた礎の上に布を巻きつけ、それを漆で固めているところであった。木を打つ音が聞こえるということは、ついに心木を差しこむ段階まできたのだろう。ならば完成は目前だ。
脱活乾漆の像以外にも、石像ひとつに塑像がふたつ、合計で四の像が目下制作の途中にある。中でも石のものは大作で、完成後、これは一〇一ある石段の脇に立てられるのだ。皇一族の長は、生きては皇城の中にあって臣民を守り、死しては皇城の外に立って国を守る。歴代皇帝を模った三十五の石柱が、厳かな顔つきで石段の両脇に立っているのをみると、ああ自分もいずれここに並ぶのか、とグレイスは妙な気持ちになる。かつての家族、二十二年も前に捨てさせられた彼の生家は、この石段を登ることさえ気が引けてしまう“C”階級の庭師家系であったというのに。
つと大臣が寄ってきて、グレイスに新しい書類を捧げた。手に触れただけで、他よりもずっと高級な羊皮紙らしいと分かるような代物だ。どんな重要事項かと心もち緊張しながら目を通してみると、行儀よく並ぶのは全て人名らしい。それも女ばかり。逐一添えられた説明文を見るに、どれも名家のご淑女である。グレイスはわずかに顔をしかめた。
――なるほど、そういうことか。つまり、この中から伴侶を選びなさい、というわけだ。
「どうかなされましたか?」
やや間延びした声でヤマが言う。愚鈍な子だが、これでなかなか人の表情をみる能力には長けているらしい。わずかにみせたグレイスのほろ苦い顔に、目敏くも彼は気づいたようなのだ。ぷっくりとした指をもぞもぞと動かし、どうにも心配そうな義弟をみていると、グレイスはふと肩の力が抜けるのを感じた。本当に、芯からいい子に育ったものだ。父を亡くして最も純粋に悲しんでいるのは彼であろうに、健気に義兄を気遣いなどする。よし。ここはひとつ、その顔を綻ばせてやろうか。
「ヤマ。そろそろ私はおまえの義姉様を選んでやらねばならぬらしいぞ」
「義姉様を? 私の?」
ヤマは目をぱちくりさせている。てんで意味を解していないらしい。皇帝の戯れに少しばかり苦々しい顔をして、大臣が代わりにこう言った。
「グレイス皇帝には、近く、皇后となられる御婦人を御迎えしていただきたく……」
聞いてヤマの顔がぱっと赤らんだ。ようようその意味を知り、一人前に恥じらっているのだ。
グレイスの口元が優しく弧を描いたが、しかしそれも一瞬のことで、書類に目を戻した彼の顔は再び険しさを増してしまう。どれも劣らぬ名家の中で、錚々たる存在感を放つ名をふたつ見つけたのだ。ユナ・イーシアにミーガン・ウォッシュ。彼女らはそれぞれ、ユリシアとレジアの王女ではないか。
第七話 大国の干渉
新皇帝が誕生してから五日が経つ。例の通過儀礼を終え、グレイスの仕事もようよう通常の波に乗ったというところ。
やはりまだ若い皇帝では不安だったとみえ、皇尊突然の御崩御にうろたえきっていた大臣らも、ここにきてようやく平常に復した。くだらない雑務も滞りなく済ませるグレイスの手腕を、深く認めたということもある。立ち直りの早さにかけて秀でていたのは、皇城内よりむしろ外の方。臣民たちは戴冠式、および葬儀の日でも、むしろ今こそ商売時とばかりに忙しく立ち回っていたのだから。国中の花が空を舞うかとばかりのあり様だったから、きっと花売りの娘は嬉しい悲鳴をあげたに違いない。やはり彼らは頑丈である。今日も城下町は賑やかで、訃報を嘆く声よりも、新しい世代の到来を楽しんでいるようにみえる。その気配を感じると、不肖グレイスの身も引き締まるというもの。彼らに負けてはおれぬ、と。
しかしどうしても気が進まない事もある。今日の会食などがそれだ。太陽が中天に近づくにつれ、グレイスの憂鬱は厚貌のうちに募っていく。しかしそれをおくびにも出さないあたり、皇帝の肩書も板についてきた証拠である。
じきにユリシアとレジアの両国王が船でやってくる。皇城の上階から東に目をこらせば、よく晴れている今日だから、立つ靄の向こうに緑黛の影がみえる。盤石たるバレリアの山々である。そのずっと裾のほう、一層靄がたちこめるあたりに、きっと青や赤の旗が揺れていることだろう。国王らの率いる大船団だ。こちらに渡るのを、いまかいまかと待ち構えているに違いない。
「警吏らを呼び集めねばなるまい」
グレイスは東の海に目を凝らしたまま言う。は、と従者が答え、グレイスは鷹揚な動作で彼に向き直った。
「義母上には私から申し上げよう。おまえは警吏長と右大臣にこれを伝えよ」
「はっ」
紋章に手を添えるだけの略式の礼をし、従者は踵を返して廊下を歩いていく。グレイスは彼とは逆の方向に足を向けた。ひとりの従者がそれに続く。ダレスの元に向かわねば。
「できませぬ」
ダレスはきっぱりと言い張った。口を真横に引き結び、てこでも方針は変えぬといった態度だ。
「御気持ちはよく分かります。しかし、ああも警吏らが走り回るのを見ましては、両国王も困惑されましょう。当国の貴族らならばともかく、彼らはよく事情を知らぬ外の人ですから」
「ではよくよく御説明なされませ。皇帝殺しの罪人が、いまも生きて逃げ回っておるのです。御見苦しくて申し訳御座いませんが、それを捕らえねば亡き人の御霊も静まりませんでしょうから、と」
十分に予測できた展開とはいえ、グレイスの吐息に疲れが滲むのも仕方ない。
ダレスはひとり躍起になっている。というのはユアの逮捕に。もはや彼がレザフを弑したことに疑いの余地はない。かの夜を限りに、彼は忽然と姿を消してしまったからだ。これでは自ら罪を認めるようなものである。
ダレスが彼に固執する理由を、漠然とだがグレイスは察している。彼女は面白くないのだ、全てがグレイスの追い風のようなこの状況が。
実際にそうなのだが、ダレスはグレイスがユア逃走の手引きをしたものと睨んでいる。そう思うのは彼女の直観と偏見だろう。証拠はない。こそりと彼女が調べさせてみると、やはり典医はグレイスの不調を証言したし、当日、彼が眠る前にその寝室を訪れて薬を処方したことまで明言した。これはグレイスの供述にぴたりと嵌まっている。又、これも内密に探らせたことだが、その夜にローハーから消えてしまった者は、ユアひとりしかいなかった。これがダレスには納得いかない。あのユアが、人殺しの法しか教わらずに育ったユアが、ひとりで逃げ得るはずがない。そもそも、人を殺めて罪と思わない彼だから、逃げようと考えることすらあり得ないのだ。すると彼を舟に誘い、さあおいでとバレリアまで運んでやった人物がいるはずだが、何度調べさせても減った臣民は彼以外おらぬ。ではユアを届けた後にまたローハーへ引き返したか、となるわけだが、夜にまぎれて往復できるほど二国間の海は狭くない。
そう。ダレスはユアが国外に逃亡したものと考えている。実際にそれしかあるまい。五日間、警吏に衛兵までも雇って国中を虱潰しに捜させているものの、ユアの足跡をみつけた者すらいないのだ。ローハーは狭い島国である。まだ捜索の目が届いていないのは嶮山に洞窟がせいぜいで、いくらユアといえど、魂吸いの呪いを背負ったままに、力ある魔族らが住まうとされるその秘境で生き延びられるとは思えない。となれば疑念は当然隣国バレリアに向けられるのだが、この線も、先の考え方でいくとやはりあり得ないのだ。
まさに生殺しの体である。犯人は明らかなのに、間違えようがないのに、彼の逃亡先をこれと断言できないのだ。断言できないから追及の手を広げられずにいる。貿易を始めたとはいえ、ローハーはまだまだ閉鎖的な国で、その国の大警吏団が突如バレリアに現れたとなれば、混乱を招くのは必定である。大臣らはそれを恐れ、バレリアにユアの姿を探せと騒ぐ皇太后を、押しとどめるのに必死である。ダレスとしては、綿で首を閉められるに似た心地であろう。
「罪人は必ず捕らえさせましょう。そうしなければ、私も義父上に合わせる顔が御座いません。しかし、どうかこの半日だけは」
グレイスがそう言った時である。空をわずかに震わせる音がして、例の大船団がどうやら笛を吹き鳴らしているらしい。前進の合図だ。はっとしてグレイスはダレスをみやる。ダレスは、窓からみえる東の海をみていた。
「……いいでしょう」
グレイスはほっと息をつく。
「ただし条件があります」
「なんでしょう」
「国王様方が御帰りになられましたら、バレリアに警吏を送る御許しを戴きたいのです」
グレイスの筋肉が緊張に強張る。
彼らが帰るのは明日と聞く。夕の会食の後皇城に眠り、半日ほどローハーをみて回っていくのだと言う。グレイスとしてはあまりいい気がしないが、しかし、ユリシア国王たっての願いである。仕方もない。全世界にあるただ三つの魔法学校のうち、二つを有するユリシア国だが、残る一つ、最強と噂される学校であるが、これがローハーにあるのだ。皇城に次ぎ、贅の極みを集めたこの魔法学校を、ぜひ覗いてみたくなるのは当然だろう。かの百隻戦争で鬼神のごとき活躍をみせた魔導師たちは、どれもみなこの学び舎を卒業した者ばかりである。
鉄の表情を崩さないまま、グレイスはユアとニンフに思いを馳せる。彼らはうまく逃げのびただろうか。警吏の追及すら届かぬような、ずっと遠くへ逃れられただろうか。
「……分かりました」
いずれ来ると思っていたことだ。
「では、両国王が帰られます際、その護衛の体で警吏らをつけましょう。彼らを見送った後、そのままバレリアの地に留まって罪人を探させます」
「いい考えですわ。そうすれば彼らもこれは厚遇と喜びましょうし。さすがは切れ味鋭い青冥皇嗣――いえ、青冥皇帝でしたわね。これは失礼いたしました」
グレイスはにこと笑う。なんとでも言うがいい。
ユリシア国王アルバルト・イーシア、レジア国王ファン・ウォッシュを乗せた船が港につくと、そこには一種異様な空気が流れた。先帝レザフの敬弔と、新帝グレイスの祝福を謳ってやってきた一団である。無碍にするわけにいかず、グレイスは華やかな音楽隊の演奏をもってこれを迎えさせた。花売りの娘共は、これまた売り時とこぞって港に詰めかけたが、しかし思うほどの成果は得られなかった。花を買い求めるのは、せいぜい十人に一人といったところだ。馬車に乗りこむ国王陛下らに、嬉しそうに花を投げるのは若い少年少女ぐらいで、老人らはただ淀んだ目で彼らをみつめるばかり。中には涙をこぼす者すらいる。かの戦争は、決して過去の出来事ではないのだ。
皇城前の石段は、六大国の王といえどもその足で歩かねばならない。三十五の石柱に睨まれながら、アルバルトとファンは威厳に胸を膨らませて石段を登る。
レジア国王ファン・ウォッシュは、既に六十も近いというところ、昔は豊かだったろう黒髪は、いまやすっかり干上がっている。白いものもちらちら覗き、とても格好のつく容貌ではないが、洒落た帽子でうまくそれを隠している。ひぃふうと息をつきながら石段を登る彼の隣で、しかしユリシア国王アルバルト・イーシアは涼しい顔だ。それもそのはず、壮年のレザフを思わせる逞しい彼は、御歳四十三。肩幅広く、胸は隆起し、腕は職人のそれかと目を見張るほどに太くて強い。足腰もしっかりしたもので、ローハーの嶮山すら登ってしまいそうだ。彼こそが後に、その堂々たる体躯に秘めた黒い渦のような強欲を吐き、このエルヴァニア世界を揺るがす戦争を捲き起こすのだが――もちろん今のグレイスがそれを知る由もない。玉座に構え、悠然たる足取りでこちらに向かう彼をじっと見つめている。彼もまたグレイスの瞳を正面からみて逸らさない。グレイスはふと、彼にただならぬ影を感じた。えもいわれぬ恐ろしさに身が竦む。
「ユリシア国王アルバルト・イーシア様、並び、レジア国王ファン・ウォッシュ様、御着き!」
声の好い侍臣が大声で呼ばわる。グレイスは思わず立った。立ってから、しまった、と思った。あくまで強固な姿勢であろうと決めていたのに、両国王の――いや、もはやファンの姿はグレイスの目に入っていない。アルバルト・イーシアが放つ緊張感が、グレイスをして震えさせたのだ。いくら優秀で通っていても、やはり彼はまだ若い。十代で王として起ったアルバルトである、彼からみれば、グレイスなど世間も知らぬ子ウサギにすぎない。よく灼けた顔に浮かんだ笑みは、傍から見れば国王らしからぬ人懐っこさのようにも取れるだろうが、グレイスにしてみれば、己の負けを宣告されたかのような心地であった。事実、彼はこのとき負けたのだ。
「こうして御会いできる日を、どれほど待ち望みましたことか」
鷹揚に頭をさげてアルバルトが言う。グレイスはその言葉の真意を窺う。
「この度は御即位、誠におめでとうございます。先帝の御霊にはよく御休みになられ……」
お決まりの挨拶である。ファンも彼に続いて口上を述べた。気難しげな顔の老国王は、その声までも鉄のように強張っており、ああやはり職人が集う国の長、といった風情であった。
玉座の間での初見が済み、場所を大広間に移して会食となると、アルバルトは公的な顔をかなぐり捨て、いやに親しくグレイスに話しかけてきた。
「いや、噂には聞いておりましたが、まこと背丈に優れていらっしゃる。ああ、本当にいい男振りだ」
手放しに褒めるものだから、グレイスとしては面映ゆい。おべっかは彼の嫌うところだ。しかし、豪放なアルバルトの声には厭味がない。聞いていると、むしろ清々しいほどだ。
一方のファンはどうにも無口で、その場の誰もが申し訳程度にしか食事に手をつけないのをよそに、彼はひとり黙々と魚料理を口に運んでいる。ユリシアとバレリア、それから商賈の国シリスに囲まれた、レジアは内陸国なのだ。海を知らない。新鮮な魚は、そう頻繁に食べられるものではないのだろう。
「純白のローブも御似合いですな。その若さで御立派なことだ。……レザフ殿も、碧雲のかなたで御目を細めておられることでしょう」
「義父とは御懇意でしたか」
思わずグレイスは口を挟む。殿、などと幾分気軽に呼び合える仲までとは。ええ、とアルバルトは頷いた。
「公的な場で御会いしたことは御座いませんが――分かるでしょう――内々には三度、四度と親しく卓を囲ませていただきましたこともありますれば」
含みある言い方に、グレイスは内心苛々としてしまう。なにが「分かるでしょう」だ。百隻戦争の遺恨を恐れてこそこそ隠れなければならなかったのなら、その原因はユリシアにある。
グレイスのくすぶりになどまるで気づいていないのか、それともすっかり分かった上で素知らぬふりをしているのか、アルバルトは相も変わらず上機嫌だ。ダレスはその様子をじっとみつめている。その視線を感じたのか、アルバルトは彼女をふり向くとにっこり笑った。それからグレイスに少し体を寄せた。
「しかし、優れたその御姿ですと、女共が放ってはおきますまい」
きた、とグレイスは気を引き締める。婚約者の話である。
「そろそろあなたも御身を固められる頃合い。我が身を捧げんというご淑女は多いでしょう」
「さあ、どうでしょうか」
グレイスは空とぼけてみせる。
「御謙遜を。娘はユナと申すのですが、花を愛する我が長女です、あなたの御噂を聞くにつけ、頬を上気させてもっと続きをとせがむのですよ」
グレイスは曖昧に笑ってみせる。ダレスの視線がより強く向けられるのを感じる。
「今度のことにも、ぜひわたくしも御連れください、と言ってなかなか聞きませんでした。まったく、我が儘な娘ではありますが、それも偏にあなたを想う余りかと思えばしおらしくて」
「ユリシアの女性は皆雪のように白い肌を御持ちと聞きます。雪の女王ユーリスの名残でしょうか」
うまくはぐらかしながらグレイスはデカンターを手で示す。豪奢な飾りつけのガラス瓶は、毒のように赤い酒で満たされている。
「バレリアから取り寄せている代物です。あの国の果実は甘い。どうぞご賞味ください」
「いや、これはあり難い」
グレイスの目配せを受けて、給仕女が恭しくデカンターを捧げる。アルバルトは杯を受けながら、しかし目だけはじっとグレイスをみて離さない。グレイスは微笑を浮かべたまま、とろとろと注がれる葡萄酒をみていた。
どうなさるおつもりですの。
長旅御苦労です、と準備してあった豪勢な客室へと二人の国王を案内してしまうと、ダレスは待ち切れないというように切り出した。
「なにがです」
「とぼけなさるおつもり? 無論、あなた様の御結婚についてのお話です。見ましたでしょう。アルバルト様は、御息女をあなた様に娶わせたい御気持ちで一杯のようですよ」
「そのようですね」
「他人事ですか。彼は夕の会食でもきっとその話題に触れられましょう。どうなさいますの」
「私は……」
珍しく歯切れの悪い口ぶりだ。
グレイスとて分かっている。彼も二十八、もう所帯を持っておかしくない年頃だ。むしろ、十代での婚礼も珍しくない皇一族の中では、随分と遅れていると言ってもいい。なにせ、皇尊が平生の内どうあっても彼の結婚を認めなかったのだ。先帝が稀に洩らす我が儘には大臣らも慣れっこだったが、この身勝手さにだけは手を焼いた。子離れがどうなどという問題ではない。それでもどうにか黙っていたのは、彼が五十を過ぎても血気盛んで、まだまだ国政は彼に委ねられると思われたからだ。このような形で終幕を迎えることになるなど、過去に誰が予見しただろう。
「考えられません。他国の人間を妻とすることなど。ましてユリシアとくれば」
昼間、港についたユリシア国王を迎える臣民らの様子は、既にグレイスの耳にも入っている。昔の諍いは忘れて手を取り合いましょう、と言われたところで、その手にはまだ血の臭いが染みついているのだ。
ふん、とダレスは鼻を鳴らした。彼女の目に余るこの不機嫌は一体どうしたことだろう。
「亡き夫には」
とダレスは言う。苦い物を口に入れた時のような顔で。
「皇后にはぜひユナ・イーシアを、とのお言葉でした。もっとも、御自分の御目が黒いうちはならぬとの仰せでしたけれど」
吐き捨てるなり、ダレスは尻を振り振り退出してしまった。慌てて彼女の従者がそれを追う。呆気に取られるグレイスに頭を下げることも忘れない。
グレイスはそれに頷いてやることもできなかった。ダレスの言葉が耳に刺さっている。妻に、ユナ・イーシアを? ユリシアの人間を迎え入れよと、本当に義父はそう言ったのか?
グレイスはますます混乱する。もはや彼が信じてきたことなどとうに崩れている。善き皇帝、頼れる君主、全臣民の父。かの名君レザフ=E=ロウの姿は幻か? ユリシアと近づき何とするつもりなのか。また、ユリシア側もそれを強く望んでいるらしいことは先の会食でもよく分かった。ローハーとユリシア。片や一騎当千の魔導師を抱える孤立の島国、片や広大な領土に優れた文明を誇る北の大国である。この二つが結びつくとなれば……戦争。
――まさか。
グレイスは心の中で義父に呼びかける。義父上、あなた様は一体なにを御考えです。
「きみは知りたいはずだ。皇尊の遺徳の影にちらつく不穏な姿の真実を」
二日前、グレイス以外知り得ないはずの隠し小部屋で、リヒィ=ミヒィという謎の少年が言ったことを思い出す。彼はあれきりまるで姿をみせない。
「『永遠の子ども』……」
「はっ?」
グレイスはわずかに眉をしかめる。
「不思議な少年と話す――夢をみた。彼は永遠の子どもと名乗ったのだが、この言葉に聞き覚えはないか」
「永遠の子ども、ですか。申し訳ながら、私は」
「そうか」
浮かない顔の皇帝に、従者はさっと気を利かせる。
「よく当たると噂の夢占い師を知っております。すぐに呼びつけ、彼に占わせてはいかがでしょう」
「占い師か」
それで生計を立てるとなれば、長く生き、多くの知識を有する者だろう。リヒィ=ミヒィについて何か知っているやもしれぬ。
「もしも凶夢であった場合に、大ごととなると面倒だ。内々にいたせ。城に呼んではならぬ。信用のおける召使を一人選んで彼の元に向かわせよ」
「はっ」
「彼にも他言無用と念押しすることを忘れるな」
「かしこまりました」
だが、彼のこの計らいは、結局無駄足となるのである。というのもこの夜、再びあの少年が彼の元を訪れ、その口で自らについて語ることになるわけで……。