6 血と笑顔
あまりに強く打つ鼓動のせいで、ゼンの体が前後に揺れる。じっとりと噴きだした汗が、尖った顎を伝って落ちていく。
ゼンは木の棒を握り直した。空いたもう片方の手で、背後にいるユアのローブをぎゅっと掴む。恐ろしいのだ。仲間の存在を確かめることで、なんとか気を持たせておかないと、小便を漏らしてしまいそうになる。ユアにはそんな心情などまるで汲み取れないらしく、うん? と相も変わらず間抜けな声を出している。
一体どうすればいいだろう。隙なく視線を配りながら、ゼンは考えを巡らせた。どう切り抜ける、この窮状を。一方へと心を決めて、棒を振り回しながら駆けぬけるか。迷路にだって出口はある。ここでじっと睨みあっているよりも、運を頼って走り回った方がずっといい。
ゼンは馬鹿だ。間抜けだ。ここにきて、未だ老人の裏切りがあったことに気づいていない。老人の言葉を信じ、化け鼠のあの威勢は上っ面だけだと、こちらが強気に出れば、きっと彼らは逃げ散るに違いないと、まだそう思っているのだ。ゼンは大のお人好しであった。というよりも、素直すぎたのだ。強にぶつかっては強になり、柔に触れては柔となる。弱きをみれば放っておけなかったし、笑顔には笑顔で答えて然りだと思っている。そういう男だ。傍からみれば粗雑で乱暴で、教養の足りない子どもと思われるかもしれないが、何事にも真正面から向き合い応対するという点で、彼は類稀なる善人といえる。
しかし、善き心の持ち主だからといって、それこそ粗雑で乱暴極まりない化け鼠共が、彼を愛するはずがない。奴らは肉食なのだ。何十という数の鼠にふたりの少年。きっと、これまでの人生を顧みる暇さえ与えないうちに、彼らは骨まで食われるのだろう。
「おい」
ゼンはユアに囁いた。唇が震える。
「いいか、あっちだ。俺の右手にある穴、ちょっとばかり大きいやつ。あそこに向かって走るぞ。俺の合図で、同時によ」
「どうして?」
どうして、とくるか。ゼンはため息をついた。
「当然だろうが、逃げるのよ。棒を振り回しながら、出口までさ」
「それは――」
無理じゃないかなあ。ユアがそう呟くのを、ゼンは聞くことができなかった。それより早く、どんと強く押し倒されていたからだ。
第六話 血と笑顔
ぬかるむ地面に背を打ちつけ、ゼンは情けない声をあげた。泥はマントに容赦なく絡みつく。
なにしやがる、と叫ぼうとした口は、しかし半端に開いたままで固まった。目の前に化け鼠が迫っていたのだ。その間に滑りこんでいるのは、わずかにユアの剣一本のみ。ゼンは悲鳴さえあげられない。抜き身の刃と黄色い門歯が競り合っている。よほど力が均衡しているのか、剣も門歯も小刻みに震えて。
「サルマン」
ゼンはただただユアの背中をみつめる。うん? とやる声とはまるで違う響きの、しかし間違いなくユアの声だ。彼はいま、いったいどういう顔をしているのだろう。
と、不意に頬を撫でる風が起こったかと思うと、信じられないことが起きた。ユアの持つ刃が、突然炎に包まれたのだ。均衡は破れた。化け鼠は金切り声をあげ、燃え盛る赤から逃れようと飛び退いたのだ。
「なんだっ!?」
ゼンが叫ぶ。慌てて跳ね起きると、泥が辺りにべちゃりと散った。
答えを求めたわけではなかったのだが、ユアは不用心にもふり返ると、にへらと笑ってこう言った。魔法だよ。サルマン、火の精霊。ユアの言葉に誘われるように、ふわりと姿を現した者がいる。女だ。白い肌に、燃え立つような赤い髪。そして彼女は浮いている。ゼンは今度こそ固まった。
炎は獣の天敵だ。化け鼠共は、突然噴きあがった火の手に混乱し、ギィギィと耳障りな鳴き声をあげた。しかしそれで獲物を諦め切れるわけではない。自ら巣穴に転がりこんできたご馳走なのだ。小さな炎に怯え、みすみす見逃すようなことがあってはならない。
「ううん、それじゃおれたちまで焦げちゃう。だめだよ」
突然、ユアが突拍子もないことを言った。焦げるだって? 会話のようだが、いったい誰と話しているというのだろう。ユアがサルマンと呼ぶ火の精霊は、一言も喋っていないというのに。
「うん? うん、いいよ。ラジネを呼ぶ」
「おい、ユア」
うん? とユアがふり向く。ゼンはこの状況も忘れて思わず訊ねた。あんた、誰と話してるっていうの。
「精霊と」
ユアはにっこり笑う。いや、あんた一人で喋ってるじゃない。ゼンは続けてそう言いたかったが、静かなユアの声がそれを遮った。ラジネ、と今度は言うのだ。
次はなにが起こるのかとゼンが身構えると、刹那、唐突に周囲の地面が盛り上がった。ゼンとユアが立つ場所を避けるようにして、広間の床が、ぐんぐんと天井目指して上っていく。これはいったいどうしたことだ?
「なななっ、なんだよ、なんなんだよ!」
ユアはやっぱりふり返って律儀に答えた。だから、魔法だよ、と。
「ラジネは地の精霊なの。地面と友だち」
転げ落ちんばかりに見開かれたゼンの目は、壁に開いたたくさんの穴に釘付けだ。せり上がる地面から逃れようと、たくさんの化け鼠が通路へと逃げこむのだが、そこに飛びこんでしまったが最後、穴は慈悲もなく埋め潰されてしまうのだ。ヂュッという身が竦むような声が聞こえた。化け鼠はどうやら巣穴もろとも押し潰されてしまったらしい。ゼンの肌は粟と立った。
みれば、崩れていく壁の傍を、緑の衣をたなびかせて舞っている人影がある。こちらは褐色の肌に黒の髪と、ゼンを含めた多くの召使階級の者によくみられるいでたちであるが、ただ、この世の者とは思えないほどに美しい。先に老人の屋敷で見かけた美人など、もはや木偶かと思ってしまうほどだ。
ユアは燃える剣を捨て、代わりに腰の鞘を引きぬくと、あたかも弓を構えるように左手にそれを持った。そして右手をそっと添え、力をこめて引き絞る――と、なにも掴んでいないユアの右手から光の筋が生まれた。ゼンは息を呑む。炎の矢だ。
逃げ遅れた化け鼠たちは、迫る炎に慌てふためく。既に壁の穴は残さず潰れており、ラジネは中空にふわりと腰を落ち着けている。逃げ惑う化け鼠を眺めているのだが、彼女が指をちょいと動かすたびに、またも地面が動くのだ。ゼンは立っていられなくなってその場に伏せった。
大地の震動は化け鼠の退路を阻み、炎の矢は次々に化け鼠の体を貫いていく。地面にぴたりと体を押しつけたまま、ゼンはぎゅっと目を閉じた。木の棒を投げ捨て、耳を塞ぐ。そうしないと、化け鼠共の断末魔の悲鳴が、鼓膜にきんと刺さるのだ。ゼンはもはや生きた心地もしなかった。
「ゼン」
肩を掴まれ、ゼンは涙に濡れた声で叫んだ。
「ゼン、おれだよ、ユアだよ。ねえ、ここから出ようよ」
ゼンがようやく顔をあげると、そこには困ったように笑うユアの顔があった。もともと垂れた眉がさらに垂れ下がり、なんとも情けない顔になっている。あの殺戮の直後とはとても思えない表情だ。
「出るったって……」
ゼンは自分が泣いていることにさえ気づかない。茫然とユアを見あげている。
「どこから。逃げ道も糞も、もうねえよ」
「あたらしく穴を開ければいいんじゃないの」
ユアは高い天井を指さした。とたん、盤石の重みを感じさせる天井が、まるで芋がスープに蕩けるように、簡単に崩れていくではないか。ゼンは足をふらつかせて立ちあがった。やがて割れ目から光が差しこむ。土煙が差しこむ陽光に照らされる。
ゼンは足もとが妙に振動していることに気づいた。上ばかり見あげていた顔を、ふと足元に向ける。地面はぐいぐいと持ち上げられていた。まるで新芽が下から突き上げてくるように、地上への割れ目に向かって伸びていく。
「すげえ……」
ゼンは感嘆の声を漏らした。魔法。話には聞いたことがあったが、実際目にするのはこれが初めてだ。奇跡の業と言われていたが、まさかこれほどのものとは。
驚愕がゼンを包んでいると、ふと、地面の動きが止まった。ゼンは目が覚めたかのように、ひとつ大きく身震いした。
ふり返ると、なんとユアが倒れている。ゼンは短い悲鳴をあげて、足音荒くユアに駆けよった。うつ伏せに横たわるユアの体を抱きかかえる。
――血。
ユアの口元には、はっとするほど赤い血がべっとりとついていた。みれば、元より白みのユアの顔が、いまや羊皮紙のような色をしている。息は荒く、額には大粒の汗が浮かんでいる。しっかりしろ、とゼンが揺すると、ユアは力なく咳をした。そのはずみに新しい血がこぽりと口の端から零れる。こけた頬を伝い、血はゼンの手を濡らした。温かい。
「ユア、おい、ユア!」
返事はない。ぜえぜえと、喉で妙な音を鳴らすばかりだ。
ゼンはうろたえて辺りを見回した。ふたりの精霊は消えている。助けになる者はいない。割れ目まではあと少し。手を伸ばせば、指先が地上の空気に触れられるほどだ。精いっぱい高く跳び上がれば、そのまま脱出することも可能だろうが、とてもユアを抱えて飛べる距離ではない。彼は病的に細いとはいえ、背丈において、ゼンよりもずっと優れているのだ。だからといって、まさかユアを置いていけるはずがない。先にはいけ好かない妙ちきりん、次には似た境遇で育った哀れむべき少年、そしていまや、彼はゼンの命の恩人である。放っておけるわけがない。
焦げくさい臭いが鼻をつく。炎の矢に射られた化け鼠が、壁に張りつけられて燃えているのだ。うかうかしていては、この足場さえ火に呑まれかねない。
ゼンはきっと空を睨んだ。ゼンにはユアのような魔法の力などない。なにもできないのだ、彼は。速く走れるわけでも、流麗に剣を扱えるわけでも、巨岩を抱えられるわけでもない。ゼンは棒で地面を削り、土くれを集めて一カ所にまとめてぺたぺた固めた。まるで幼児がやるお城造りだ。できあがったのはちんけな小山である。しかしゼンは諦めない。地面のあちらを、こちらを削り、小山を慈しむように育てていく……。
ユアが目を細く開けたとき、ゼンは暮れ始めた空を睨んで膝を抱えていた。唇を横一文字に引き結んでいる。ユアが身じろぎすると、ゆっくりとふり返った。
「……俺たちは騙されたんだ」
掠れた声だった。ユアは目をぱちくりとしている。
ゼンの後方には、倒木や岩の類で塞がれた巣穴の入り口の跡があった。明らかに人為的な仕業である。あの糞老いぼれ、はなから俺たちを殺す気だったんだ。ゼンは苦々しげに呟いた。
「あんた、病気かい」
ユアはゆっくりと首をふる。
「呪い」
物騒な言葉だ。しかし、ユアは妙に涼しい顔をしている。
「罰なの」
「罰」
「おれ、悪いことしたから」
「……そっか」
納得せざるを得ない。これ以上追及しても、きっとユアは答えられないだろう。ゼンは困ったような笑みを浮かべた。呪いというのがどういうものか、魔法と縁のない人生を歩んできたゼンには、これっぽっちも分からない。ただ、弱々しく咳きこむユアの、苦悶に満ちたあの表情。たくさんの命が弱りに弱り、役目を終えた火種のように消えてしまうところを、ゼンはもう何度目にしただろう。そんな彼だから分かってしまう。きっと、ユアはもう――。
「まあ、ありがとよ。ユアのお蔭で助かった。あんたすごいよ。悪いことをしたんだって、でも、俺にとって恩人であることには変わりない」
ユアは嬉しそうに笑った。風がさわさわと吹いていく。
さて、どうしたもんかねえ。ゼンは少しとぼけた口ぶりで言った。
「もしも俺たちが生きて逃げだしたことを知ったら、あの耄碌野郎、どんな顔するかね。……それにしても、ああ。俺の小粒金……」
こつぶきん。口に出しても、あまりその価値の大きさが湧いてこない。銅貨の数に置き換えて初めて、ああ大金なのだと実感できる。淋しいことに、ゼンにとって金という値は、夢ですら触り得ないような幻なのだ。
戻ったところで、まさか報酬が払われるはずはあるまい。それどころか、元よりこちらに害意のあった人間だ、これは仕損じたと再び襲ってこないとも限らない。こんな仕打ちを受けたと吹聴したところで、なにを馬鹿なと笑われるのはきっとゼンのほうだ。そういうものだ。財力が物を言う世界である。金持ちの言うことはいつも正しく、その日暮らしの乞食の言葉は嘘と臭気に侵されている、というわけだ。戻るだけ無駄足だろう。ゼンはため息をつき、首を振って大金の誘惑を追いやった。考えるだけ惨めだ。
「だめだよ」
しかし、よそへ行こうというゼンの言葉は、ユアにあっさり打ち消された。
「だめだよ。嘘つきはよくない。悪いやつには、お仕置きしないと」
お仕置き。ゼンはユアの言葉をくり返してみる。なんとも子どもじみた、愉快な響きではないか。
考えているうちに、なんだか心が妙に陽気になってきた。そうか、お仕置きか。うん、悪くない。あの老人は、きっと言葉で責めてもうんともすんともならないだろう。理で押し詰めようが、情に訴えようが、お金様の権力には敵わない。しかし、ちょっとしたお仕置きを与えてやる分にはどうだろう。すまんかったと謝ってくれるとは思えないが、それでも少しばかりあの老いぼれを驚かせるには足りるかもしれない。
「よし。いっちょ、懲らしめてやるとするかね」
ぽんと膝を打って立ちあがり、ふたりは連れ立って山を降りはじめた。向かうは老獪なじじいの屋敷である。
美しい女をそばに侍らせ、老人は夕餉を楽しんでいた。食卓を彩る話題は、もちろん例の浮浪者ふたり組である。見た目も中身もちぐはぐなこの組み合わせは、哀れ、今頃は化け鼠の腹に収まっていることだろう。
「いや、傑作じゃった。みたか? あのチビ助の舞いあがりよう」
女は口元に手をあてて、ふふ、と上品に笑う。
「どうせ死ぬならと最後にいい思いをさせてやったらつけ上がりおって。石鹸を、丸々ひとつ溶かしてしまいおった。しかも湯桶の汚いこと! 彼奴が歩いた床は後から滑りおるわ」
「もう。そこいらで止めておしまいになって。せっかくのお酒が臭くなりますわ」
「んん! 違いない!」
老人は上機嫌に手を打って笑った。顔をすっかり青くした下男が、転びながら走りこんできたのはこのときだ。
「たっ、大変でございます! かの乞食風情が生きて――ああっ!」
注進も半ばに、下男は恐怖に顔を歪めて逃げていく。老人は椅子を鳴らして立ちあがり、女共がきゃっと叫んで飛び退いた。果物を盛った盆が落ち、床に当たってけたたましい音をたてる。その衝撃で房からもげた葡萄の実がひとつ、ころりと転がって汚いズックのそばに止まった。腰をかがめ、ゼンはそれを拾い上げる。そしてふっとひとつ息を吹きかけると、なんでもないようにそれを口に放り込んだ。
「いい御身分だね糞じじい。いたいけな少年を鼠に食わせ、自分は優雅に晩餐か」
「貴様ら……」
老人の声はわなわなと震えている。恐怖のせいか、それとも怒りのせいか。
甘いなあ、さすがバレリアの果実などと目を細めなどするゼンの後ろから、のそりのそりとユアが来る。彼のそばには目を惹きつける美女がひとり控えており、なんと彼女は空を飛んでいるのだ。おお、と老人は声を漏らした。白い肌に凛々と輝く青の瞳。あれはフレスコ画にみる水の精霊、アキュロスではないか。召使共は、彼女に怯えて逃げ去ったのだ。
ゼンとしてはいい気分である。まさに虎の威を借る狐というやつ。ユアを――正しくはアキュロスという精霊を――従えて歩くだけで、人々はぎゃっと叫んで逃げ出すのだから。慌てるあまり、青銅の像にぶつかってしまう者などもいて、ゼンはせいぜい声をあげて笑った。これほど面白いことなどない。
「ユア様も仰せられておるぞ。嘘つきはよくない!」
「よくない!」
舌っ足らずにユアが繰り返し、アキュロスはころころと身を震わせて笑った。
老人はバレリアでは高い部類の教育を受けている。魔法に関する造詣も深い。全部で六の種類に分けられる精霊だが、水の精霊アキュロスは、火の精霊サルマンと並んで好戦的と聞く。さらに戦向きの精霊として、闇の精霊ヴァネッサが挙げられるが、彼女は超越種と呼ばれる特別な存在で謎が深く、老人も彼女についてまではよく知らない。とにかく、アキュロスが戦い好きであることに違いはなく、丸腰の老人など――そもそも魔力を持たない人間などは、彼女の前では塵芥にも等しいのだ。
しかしゼンとしては、老人に腹をたてこそすれ、害そうなどという気はさらさらない。やられたらやり返す、というのは当然の公式にみえるが、そうはいかないのが人間の持つ良心のなせるところ。それに、見よ。老人の、衣を通してさえ分かるあの震えようを。失禁すらしかねない。好々爺の皮はとうに剥げ、醜い強欲の姿も、いまとなっては崩れ落ちてしまっている。残っているのは恐竦ばかり。
「なあユア、もう満足かい。え?」
そう言ってゼンがふり返るのと、鋭い水の柱が伸びていくのは同時だった。え、とゼンは間抜けな声をあげる。刹那遅れて、老人の悲痛な声が広間に響いた。
「ぎゃあああああぁ! 腕が、腕があっ!」
ぎこちなく老人をみやると、彼の右肩には、槍にもみえる水の棒が深々と突き刺さっているではないか。そうとみるうちに水は飛散し、一瞬ばかりみえた黒い穴からは血が噴き出した。堪らず老人は膝から崩れ落ちる。ゼンはぺたりと座りこんだ。その横を、ユアの足がすっと通りすぎようとする。ゼンは思わずその足にかじりついた。抱くようにして押しとどめる。
「うん?」
ユアはいつもの調子だ。ゼンの身が竦む。しかし負けじと声を奮い立たせる。
「なにするのさ! こんなの駄目だ! あんた、あいつを殺す気かい!」
ユアはぱちくりと瞬きする。そして必死の形相をみおろし、首を傾げてこう言うのだ。
「うん」
「駄目だ! それだけは駄目だ!」
ゼンは必至だ。馬鹿な。たとえ殺されかけたからとて、ではこちらも殺しますかとなっていいはずがない。ユアの足をしっかと捉まえ、駄目だ、駄目だとくり返す。ユアは口を尖らせた。
「なんで。みんなおれに言ったじゃない。悪いやつ殺せって。言ったじゃない、お仕置きだって。いけないいけない! 悪いやつ殺せ! 悪いやつ殺せ!」
ゼンはぎょっとしてユアをみた。ユアは、笑っている。
「いけないいけない! 殺せ! 悪いやつ殺せ!」
ゼンの鼓膜がぴぃんと張る。なぜ、こいつは。こいつの笑い声は、なぜ――こんなにも、澄んでいる?
「悪いやつ殺せ! 悪いやつ殺せ! いけないいけない! 悪いやつ殺せ!」
笑いながら膝を折り、からかうような調子で、ユアはゼンの肩を叩いた。叩きながら、悪いやつ悪いやつ、とくり返す。ゼンは震える口を半ば開いたまま、なにも言うことができない。
逃げ散る召使共の足音も聞こえなくなり、広間には老人の荒い息遣いだけが満ちた。アキュロスが楽しそうに天井の辺りを舞っている。ユアは相変わらずゼンの肩を叩いていた。悪いやつ、悪いやつ。
血がじんじんと流れていく音を、ゼンは耳の奥で聞いた。薄絹に隠れる国の追放者、恐るべき魔力。吐き出された赤い血に、背中に刻まれた呪いの薔薇。そして、柔らかくあどけない笑顔とこの狂態……。
ユア=A=フロイアント。彼はいったい、何者なのか?