5 不穏の影
最初の一滴は、狙いすましたようにグレイスの足元に落ちた。
司教長から冠を受け、ここに、名実ともにグレイス=E=ロウ皇帝が誕生した。ローハー第三十七代目の皇帝は、弱冠二十八での即位である。皇城前は、若き皇帝を一目みようと詰めかけた臣民らで溢れかえっている。黒衣に身を包み、堂々と露台に立つグレイス皇帝の御姿をみると、女共は彼の愛を一片でもいいから受けてみたいと悶絶し、男共は彼こそ我が命を預けるにふさわしい御方と頭を垂れた。老人などは、あまりに優れた彼の美貌に、神に愛されるあまり早死にしてしまうのではないかと恐れさえした。そういうわけで、先帝の御霊のためにと素朴に控えた式典も、臣民たちの熱気のために、かつてなく賑やかで歓声に満ちたものとなった。雨が降り出したのはこれが済んだ直後のことだ。
戴冠式が終わり、すこしばかり息をつけたかと思えば、今度は先帝の葬儀である。臣妾どもは準備にすっかり大わらわだ。
追号されて皇尊とされたレザフの体は、典医らの手によってきれいに縫い合わされている。粉々となった関節なども全てうまく取り繕われて、彼は白い棺に横たえられた。
「ああ、あなた。わたくしはこれからどう生きればいいの、あなたのいないこの現世で」
身も蓋もないようすで遺体に取りすがり、ダレスは声を放って泣く。大臣の多くは俯いているが、その半数が実は笑いをこらえているのだ。震える肩は涙のためではない。
ダレスが夫を愛していないことなど、皇城の者なら誰でも知っていた。彼女が愛していたのは権力だけ。腹を痛めて生んだ子でさえ、彼女の威光を増すための道具にすぎない。
ダレスの生家は代々大臣を輩出する名家で、幼いころから兄弟に混じって高等教育を受けていたダレスは、他のどの子どもよりも冴える叡智をみせたという。彼女が男であれば、と父は嘆いた。女が賢くあると慎みがないと言われる社会だ。彼女がどれほど努力しても、大臣ほどの高官にはなれまい。しかしダレスは別の道でその明晰さを輝かせた。別の道、すなわち魔道だ。ローハーにある魔法学校への進学を決めたダレスは、その美貌と頭脳とで、学校に集う秀才たちとも一線を画した。
まったく輝かしい経歴である。木箱につまった金貨よりも、ダレスの歩んできた道は光で眩い。しかし、その道にもただ一点の落とし穴があった。
美しいダレスの顔を悋気に歪めさせた一人の女性。ダレスで間違いないと噂された魔法学校主席の座を、さっと攫ってしまったその女性の名は、スージー=R=ホメール。皇城に入ることすら許されない、下二位の階級の娘であった。
第五話 不穏の影
このところ、ローハー皇城は近年稀にみる慌ただしさに包まれている。
新帝の即位、皇尊の葬礼を済ませたのが三日前。グレイスは、それ以来ほとんど眠っていない。横にすらなっていないのだ。彼の前には書類の山がどっしりと佇んでいて、そのほとんどが新皇帝誕生のために発生した細々しい書類であるが、グレイスは漏れなく目を通さなければならない。内容に応じて指示を出さねばならない場合もある。これは歴代皇帝が即位の際に経験してきた一種の通過儀礼のようなものだ。皇帝とは、華々しくみえて実は雑務ばかりの忙碌職だ。愛玩動物のように、血統書があればよろしいとはいかない。それ相応の知力、体力、適応力が求められる。大臣らは、新皇帝がこの仕事を片付けるさまを見守ることで、彼が本当にこの国を支えられるかを判断するのだ。
敬弔の客は多い。全てに会っていては年さえ越しかねないので、誰誰には会い、誰誰は書面のやり取りで済ませるなどとは太政官らが集まって決める。その判断基準のほとんどが階級だから、グレイスは内心気が悪い。しかし間違っても口に出せることではないから、会食の予定を読みあげる声に、ただじっと耳を傾けている。
「……十六日午前、ハーバルド公家長バルタ殿、長子フェルト殿と会食。正午と午後は、ユリシア国王アルバルト殿、レジア国王ファン殿の御二方と」
「ユリシアだと」
グレイスは思わず口を挟んだ。青い目がすっと細められる。
ユリシア。エルヴァニア全六大国のうち、最も文化の進んだ国だ。気高き雪の女王ユーリスが治めた国という伝説がある。六大国はすべて別名を持ち、ユリシアはこれを「金剛の国」という。北に位置するため雪が頻繁に降ることと、その秀でた文明度が他の追従を許さないことからそう呼ばれている。
文明開化大いに結構。しかし、グレイスが眉を顰めたのには理由があって、昔――といってもそう遠くない昔、先々代の皇帝の時代に、ローハーとユリシアは諍いを起こしている。ユリシアの船団が断りもなくローハーに接近し、見咎めた魔導師たちがこれを襲ったのだ。
先に手を出したのはローハー側だが、箱を開けてみれば、少なくとも攻撃的にはみえなかった船団には、兵士が山と乗りこんでいたことが分かった。元よりユリシアは攻めかかる気でいたらしい。かくして血なまぐさい戦いが幕を開けたのだが、結果をみると、これはユリシアの大敗であった。ユリシアの兵士は、ひとり残らず海の藻屑となったのだ。ローハーの地を踏んだ者さえいなかった。これはユリシアのひどい侮りが招いたことだ。北の大国の思惑をはるかに超えて、ローハーの魔導師の力は恐ろしく強かったのだ。これを百隻戦争という。この戦いでユリシアが失った船が、百を超えると言われたからだ。この戦争で、それまで頑なに他国との関わりを避けてきたローハーの力が、全世界に知れ渡ることとなった。獅子はついに眠りから醒めたのだ。
「ユリシア国王が来るというのか。このローハーに」
グレイスの声は怒り半分、驚き半分というところ。まだ流れた血も渇ききらぬといううちに、ユリシアは一体なにを考えているのか。
国土を踏みにじられることこそ防いだものの、ローハー側に損害がなかったわけではない。むしろ大きく損なわれた。国を守れと魔法を使いすぎるあまり、魔導師の多くが“精霊化”してしまったのだ。精霊化とは、涼やかな音の響きからは考えられないほど恐ろしい、死に直結する傷である。
疲弊した魂は、強大な力を持つ精霊の使役に耐えきれなくなったとき、逆に彼女らに食われてしまう恐れがある。食われた魂はその精霊の肥しとなるのだ。魂があれば、生き物は何度でも現世に舞い戻ることができるが、精霊化によって奪われた魂は命の輪廻から外される。消滅。この世からもあの世からも消えてしまうのだ。残された体はただ虚しく朽ちるのみ。
「皇尊から御聞きしたことがある。百隻戦争の後、精霊化した魔導師らがその場に倒れ、北の港は魂のない人で溢れていたと」
「はい。私も絵巻にその光景をみたことがあります。惨いものでした」
「彼らの体は生きたまま腐ったのだ。それを看取らねばならぬ家族は……」
グレイスの拳に力がこもる。思わず立っていたことに気づき、グレイスは少しうろたえながら再び椅子に腰を下ろした。大臣は静かな目でそれをみている。
「皇尊には、その遺恨を忘れるなかれとの御言葉だった。ユリシア国王には会えぬ」
「しかし、御会いなさるようにと仰せられたのもまた皇尊なのです」
「なんだと!?」
ついにグレイスは声を荒げた。聞き耳だけを立てていた大臣らが、これにびくりと反応する。グレイスはまた立った。立って、彼の怒鳴り声に畏縮しきりの大臣を睨みつける。
「義父上がそのようなことを仰せられたと? 馬鹿な! ローハー国民を一に考えていた御方だぞ。惨状の記憶も薄れぬうちに、かの国の人と近しく語らえとなど申されるものか!」
「し、しかし、そういう御遺言なのです。ユリシア、並びレジア両国王とは添うように、と」
グレイスは怒りが治まらない。息も荒く背中を向ける。その背に追いすがるようにして、大臣が哀れな声を出した。
「す、皇尊にも、先に御二方とは卓を囲まれたこともあられ……」
もはやグレイスは言葉もなかった。ひゅっと短く息を吸い、髪が頬を打つほどの勢いでふり返る。
「共に御食事なされたと」
大臣は壊れた人形のようにこくこく頷く。グレイスは張りつけられたようにその様子を眺めていたが、やがてふっと気が抜けたように椅子に身を落とした。従者が慌てて駆けより、右に傾いた彼の体を支える。青褪めた従者をやんわりと押しのけ、グレイスは片手で顔を覆った。深い吐息が漏れる。
「……分かった」
やっと彼が言葉を発するまで、玉座のある間は恐ろしく重い空気に満たされた。
「会おう。それが皇尊の御遺志ならば」
「はっ」
「……続きを」
グレイスに促され、大臣は一寸ばかり跳ねあがった。十七日午前、と読み上げる声が、すっかり震えてしまっている。
詰まりに詰まった訪問客との会食の予定を聞きながら、グレイスの頭はすっかり困惑している。猫のいたずらですっかり縫い糸が絡まったかのようだ。グレイスの脳裏で、亡き養父の笑顔が揺れる。グレイスは彼を怨んでいた。日に灼けた手で触れられるたび、きめ細やかな肌を粟立たせていた。だがそれは一人の男としてレザフをみた場合のことで、皇帝という冠を戴いてみれば、確かに彼は素晴らしい人物であったとは言えないか。グレイスは彼を憎みながら、一方では深く尊敬していたのだ。それなのに。
震える声が予定をなぞる。十八日、十九日――二十八日。大臣が巻物をしまう。グレイスは頷き、手を振って彼を下がらせた。グレイスは、通過儀礼をついに乗り切ったのだ。やっと休める。
私室に戻ってもグレイスの背筋から力が抜けることはなかった。天に向かってしゃんと伸びている。従者たちは感服してため息すらついてしまう。なんと強靭な精神をもった御方だろう、と。しかし、この徹底して隙をみせないグレイスの姿勢は、時に彼から人を遠ざけもする。あまりに近寄りがたいのだ。彼をみていると、どうにも自分がつまらぬ小物に思えて仕方なくなってしまう。恥じ入って引きこもりたくなる。それで、グレイスに接する人はどうしても緊張を解くことができないのだ。
「では、私どもはこれで」
頭を下げて退出する従者たちに、グレイスは鷹揚に頷いた。静かに扉が閉められる。するとようやく、それまで張っていたグレイスの表情が緩んだ。荒らぶる海が、突然凪いでしまったかのような変わりようだ。
卓に肘をつき、グレイスは眉間のあたりを指で押さえた。頭が痛い。目を閉じてさえ、羊皮紙に整然と並ぶ文字がみえるようだ。思考がひどく鈍っている。まだ若いとはいえ、丸三日もろくに眠っていないのだ。皇尊が生前言っていた分には、通過儀礼は一日で終わったというから、今度のこの仕事量は異常である。実はここにダレスが一枚噛んでいるのだが、その嫌がらせを除いても、きっとグレイスは軽く二日は休めずいただろう。書類の多さは、つまりそれだけ新皇帝が期待されているということだ。それにもちろん先帝の徳も。
――先帝。
閉じていた目を細く開ける。
グレイスには訳が分からない。レザフ皇帝。臣民を第一に考え、人生をローハーに尽くした。堅実な手法と独創的な発想をうまく織り交ぜることのできる人で、彼の政策は多くの臣民の支持を得た。閉鎖的で、他国とは頑として交流を持たなかったローハーに、貿易という新しい風を呼びこんだのもレザフである。狭い国土での自給自足には限度があり、飢死とまではいかなくとも、ローハー臣民の生活には常に栄養失調の気がつきまとっていたが、海を挟んだ隣国バレリアと交流を持ち、緑豊かなその国の野菜類(「果実の国」という別名を持つだけあり、バレリア産の果物は格別に甘く、野菜さえほろりと甘いのだ)を輸入することで、臣民らの健康は格段に増した。そんな、名実ともに名君とされるレザフが、なぜ。どうしてユリシアやレジア――こちらは武具の精製に長けた国と聞く――などと物騒な国と、好んで関わろうとするのか。
グレイスは静かに立ちあがった。右手には寝室に続く扉があるのだが、しかしグレイスの足はマ逆に向かう。例の隠し小部屋だ。柔らかな羽根布団は魅力的だったが、なによりもまず気持ちを落ちつけたかった。小部屋にはもう愉快な老人はいないが、彼の残り香をかぐだけで、すこしは胸騒ぎも治まろう。
そっと扉を開けると、いつもと変わらぬ匂いがした。古びた本の匂い。結局出したままにしてあった御伽話を手にとる。他に、机には一枚の羊皮紙と、先をコルクに刺した針がある。グレイスは目を閉じ、埃が舞うのも構わず空気を吸いこんだ。ニンフの匂いだ。知的で、よく澄んだ、それでいてどこか優しい――。
「肺に埃は悪いぞ、皇帝陛下」
砂の詰まった布袋で、後頭部を激しく殴られたかのような衝撃がグレイスを襲う。あまりのことに息が詰まり、グレイスの喉は妙な音をたてた。
矢の勢いでふり返ると、狭い小部屋のちょうど対面する壁の前に、なんと少年が立っている。グレイスは青い目をこれ以上なく見開いた。いつ入ってきたというのだ。いや、どうやって入ってきたというのだ、この少年は。扉はグレイスのすぐ左手にある。グレイスに気取られぬまま、少年がここを通れたはずがない。
何者、なぜ、どうやって。糾したいことが多すぎて、グレイスは一言も喋れない。ただ、力の抜けた手から本が滑り落ちた。
――まずい。
不用意に音をたてるわけにはいかない。怪しんだ従者たちが、きっと部屋に飛びこんでくる。そして姿のみえないグレイスを危ぶみ、この隠し小部屋をみつけ、その用途を詮索にかかるだろう。ニンフの存在が明るみになれば、芋蔓式に、彼が手引きしたユアの逃走劇さえ周囲の知るところとなりかねないのだ。しかし、分かっているのに体が動かない。
本の落下するさまが、その影を追うように、ひとつひとつ、くっきりした絵で目に飛びこんでくる。グレイスは覚悟を決めた。
しかし、本はついに落ちなかった。止まったのだ、落下の最中で。グレイスは思わず後ずさりした。あり得ない。本が浮く話など、これまでついぞ聞いたことがない。しかし、いくら目を凝らしても本は中空に留まっている。春先の蝶がはばたくように、ページがひらひらと揺れている。
「本を乱雑に扱うのはいけないな。これは手に触れられる歴史だ。大切にしなければ」
少年はくつくつと喉を鳴らした。笑っているらしい。
らしい、というのは彼の容貌があまりに奇抜なせいで、少年は妙な被り物ですっかり頭を覆ってしまっているのだ。大きなそれは、頭だけでなく顔のほとんども隠してしまっている。グレイスが窺えるのは、尖った顎がわずかばかり。
「貴様は……」
呟くグレイスの顔の横を、本がふよりふよりと通りすぎていく。まるで意思を持った生き物のように。息を荒げながら目で追っていると、本は勝手にぱたりと閉じて、元のように机の上に落ちついた。本がすっかり動きを止めてしまうと、グレイスは再び少年に向き直る。
「貴様、奇術師か」
すると少年は鼻を鳴らした。
「お疲れだな、グレイス皇帝。忙劇にお頭が弱ったか」
グレイスの眉がぴくりと動く。
「どういうことだ」
「いまのは奇術などではない。歴とした魔法だ。魔法はきみたちの専売特許だろう」
そう言ってまた喉を鳴らす。
「馬鹿な。魔法とは精霊を使役して起こす奇跡の業。貴様のそれは、詠唱もおろか、精霊は姿さえみせなかったではないか」
魔法とは精霊を使役して起こす奇跡の業。少年はグレイスの言葉をそのままくり返した。
「まるで本の一文を読み上げているようだな。その記憶力には拍手を送りたいが、本が全てを語っているとは限らんよ」
「では本が語らぬところを教えてもらおう」
「おや、洒落も多少いける口か。まあいい。つまり、精霊の姿を隠したままに、その力を駆使することも可能ではある、ということだよ。もっとも、ぼく以外にそんな離れ業をなせる者がいるとは思えんがね」
少年は自分の足元を指さした。
「さっきのは風の精霊ウィンディーネの力だ。彼女と僕はあまりに長く時間を共にしたせいで、もはや同化していてな。強いて言うなら、彼女は僕の足元にいる」
グレイスはその言葉に誘われて少年の指さす先をみた。穴の開いたローブ――この季節の着物としては薄すぎる代物だ――からは細い足が二本突き出ていて、息をのむばかりに白い。裸足なのに土に汚れているようすなど欠片もなくて、しかもおまけに――浮いている。
「馬鹿な……」
「その台詞は二度目だ」
そう言う少年の体は、今度こそはっきりと浮きあがった。目の錯覚かと思っていたグレイスは、あまりのことに口をあんぐりと開けてしまう。少年はまるでみえない糸に吊るされたかのようだ。そこに床があるのだと言わんばかりの確かさで、なにもない宙に立つ。
「ぼくとウィンディーネは常に共にいる。扉は開かれたままなのだ。これで分かったか? それとも頬を捻ってやらねば信じられんか?」
いまやグレイスと少年の目線はまっすぐに等しい。被り物の下に、刀で入れた切れ目のような口があるのをグレイスはみた。
「しかし、まさか……」
精霊たちは白の世界に住む。使役するためにはその扉(白の扉とも呼ばれる)を開き、我々の世に召喚せねばならない――。本の一文がグレイスの脳裏をかすめる。白の世界にせよ扉にせよ、実際にそれが存在するわけではなく、もちろん現に手で押し開けるわけもなく、ただ便宜上そう呼ばれるだけなのだがそれはともかく。扉が開いたままだと? そんな芸当は、
「出来るはずがない。開くだけでも神経を使う扉と聞く。無理をすれば精霊化の危険も孕むのに」
貴様のような子どもが、という言葉は呑みこんだ。なぜだろう。この少年、見た目は十かそこらにみえるのに、そんな段階の生き物ではないと思えてしまうのだ。
「精霊化、か。ぼくには無縁の言葉だな。いくら弱れど、ぼくの魂は精霊に食われるほど軟ではない」
「貴様」
グレイスは唇を舐めた。すっかり渇いている。
「何者だ」
順番がすっかり前後している。仕方ない。あまりに信じがたいことが立て続けに起こったのだ。
「そうだな。お近づきの第一歩として名乗っておこう。ぼくはリヒィ=ミヒィ。永遠の子どもだ。そしてきっときみのいい友人になる」
グレイスの眉間が曇る。友人だと?
「人は自分の欲求を満たす者の傍にいたがるものだ。御世辞、御追従。強欲な者の傍には、口を開けばこればかりの佞人が多いだろう。――養母の顔が浮かんだか? 無理もない。まあ、なんにせよきみが求めるのはこの類ではないな。知識であろう」
「知識……」
「そうだ。きみは知りたいはずだ。ユア=A=フロイアントに惹かれる理由、ダレス皇太后の謎かけにも似た言葉の意味、皇尊の遺徳の陰にちらつく不穏な姿の真実を」
グレイスの鼓動が速くなる。――知りたい。リヒィ=ミヒィはにやりと笑った。
「ぼくはその答えを教えてやれる。きみに真実をみせてやれる。どうだ、ぼくたちはいい友人になれるとは思わないか」
グレイスは迷った。心がふたつに割れている。
リヒィ=ミヒィの誘惑は甘い。グレイスはすべてを知りたいと思う。しかし、ここで頷いてはいけないと、一方で心はそう叫ぶのだ。得体の知れないこの少年は、信を置くにはあまりにも危険すぎる気がしてならない。
グレイスが黙っていると、リヒィ=ミヒィはすとりと降りた。裾の切れたローブが風をはらむ。しかし、それでも足はわずかに浮いているのだ。床には触れていない。道理で足がそう綺麗なわけだ。
「まあいい。一度に多くがありすぎて、きみも混乱しているのだろう。きみが落ちついた頃にまた来よう。そのときはきっと友人として迎えてくれるな?」
リヒィ=ミヒィの声は笑っている。グレイスを試しているかのようだ。グレイスはじっと堪えた。視線は決して逸らさず、その力も緩めず、隙なくリヒィ=ミヒィを睨みつける。体の芯が震えていたが、それでもグレイスは耐えた。
リヒィ=ミヒィはその挑戦的な目つきを気にいったらしい。愉快そうに喉を鳴らした。そして、グレイスがひとつ息をした一瞬のうちに、跡形もなく消えてしまった。グレイスはうろたえて視線を巡らせる。すると、頭上のほうで何かがキィと音をたてて、みれば天窓が開いている。
グレイスは呆けたように窓をみつめた。空が赤い。太陽はじきに沈むだろう。気づけば口はカラカラに渇いていて、目についた水差しが強くグレイスの胸を打った。ニンフとすごした最後の夜、彼はグレイスのためにこれで水を注いでくれた。
「情に囚われて、真実を見逃すことでもあればどうなさる!」
まるで昨日聞いたかのような鮮やかさで、ニンフの声が蘇る。きっぱりと立ちあがり、グレイスは隠し小部屋を後にした。