2 三流の男
依頼の打ち切りを伝えられたとき、ゼンは千切った草を風に遊ばせていた。
毎年この季節には、決まって北西からの風が吹く。時折それはもう激しく吹きつけるのだが、まだ骨の細い子どもたちは布を広げ、風に逆らいながら丘を駆けおりる。そうすると、機が合いさえすれば、しばらくの間体が浮かんでしまうのだ。それで子どもはこの季節風をことさらに喜ぶのだが、大人にとっては迷惑以外の何物でもない。農作物の苗は折れるし、若木さえあっけなく倒れてしまう。国民のほとんどが農耕を生業とするバレリア国で、これは大きな痛手になる。おまけに海を挟んだ隣国のローハーは、これが風上にあたるのだが、しょっちゅう石を削っているとみえ、季節風に乗って灰色の粉がびゅうびゅうと飛んでくるのだ。これがご婦人たちには目下の悩みとなっている。なにせ、生乾きの洗濯物にも粉は容赦なく降りかかるのだ。シャツなどパリパリに萎びてしまい、とても着られたものではない。それに、風に乗るという子どもの遊びも、危なっかしくてみていられない。子が目の細かい布を持って家を忍び出るのをみつけると、母親たちは目くじらを立てて叱る。しかし大人が怒るから、いけないことと言われるからこそ、蜜はよりその甘みを増すのだ。
「よせと言われりゃ体がうずく、いけないことほど面白い……ふあーぁ」
適当な節をつけて口ずさみ、ゼンは生欠伸をかみ殺す。庭は広く、引けど抜けども雑草は一向に減る気配がない。
「その日暮らしの霞のお行き、口食やいっぱい夢追いの――っと」
そこでようやく人の気配に気づき、慌てて作業を再開させるも、下男はとうに彼のなまけをみつけていたらしい。広い額には深い皺が三本刻まれていて、口を開かないままでも、ゼンには彼が不幸の使者のように思われた。
第二話 三流の男
「糞ったれ! 契約違反で役所に訴えるぞ!」
いくらがなりたてようと、鉄の門はぴくりとも動かない。それどころか、鈍色の光は躍起になるゼンを笑っているようにさえみえる。
「この腐れ金持ち! ちびっ禿げ! びちびち白豚!」
持てる限りの悪言で罵っていると、門に駆けてくる足音が聞こえた。ゼンは逃げださんと身構える。しかしやはり門は開かず、代わりになにかペッと吐き出された物がある。布袋だ。警戒しながら拾いあげ、中身を検めてみると、銅貨ばかりが五十枚ほど入っていた。実に銀貨一枚と半分に相当する額である。ゼンは目を丸くして門をみやった。これはなにかの罠かしら?
「旦那様からだ」
門の覗き窓から顔をみせたのは、先ほどゼンを追い出した下男だった。
「それをくれてやるから、さっさと失せろとのお達しだ。のろまの役立たずなど、声を聞くのもおぞましい、と仰っている」
ゼンはあんぐりと口を開けていたが、これを聞くと怒りがかっかと湧いてきた。元より沸点の低い男なのだ。道理がどちらにあるかなど、彼の考えの範疇ではない。
「けっ。いい年して小男共の頭がせいぜいのくせして偉そうに。偉いのはあんたでもなくあんたの主人でもなく、お金様のくせしてよ」
なかなか切れのある言いっぷりである。こと毒吐きにかけて、ゼンは一流の舌を持っているのだ。
「役立たずはどっちだい。え? あんたらが決まったお遣いしかできないから、俺たち“なんでも屋”が必要なんじゃねえのかい!」
「言ったな!」
相手も相手で怒りだすのが早い。これはもはやバレリアの国民性と言ってもいい。広大さにかけてはエルヴァニア全六大国の頂点に立つバレリアだが、その広すぎる国土のために、多種多様な話し口調、訛りが氾濫していて大変なのだ。ひとつ山を越えてしまえば、言葉がてんで通じない、なんていう珍事だってありうる。そんなだから、話し合うよりも先に、つい手が出てしまうのも仕方ないのかもしれない。とにかく、喧嘩っ早さはなにもゼンに限ったことではないということだ。
門が重厚な音をたてる。きっと鉄の錠が外されたのだろう。しかしゼンは下男が飛び出してくるより早く、音が鳴ったときにはもう駆けだしていた。もちろん、手には布袋をしっかりと握りしめて。
太陽は滞ることなく進んでいく。冬の暮れは早い。空の端に闇が滲むと後はあっという間だった。
ゼンは継ぎ接ぎだらけのマントを体に巻きつけた。綿の入っていない三流品で、比較的温暖なバレリアの冬には耐えれども、夜に入って冷たさを増したこの季節風だけは我慢できそうにない。ゼンは小柄で、それ以上に痩せぎすだ。それもそのはず、まともな飯などこの数日間ろくすっぽ食っていないのだから。寒さを遮ってくれる厚い脂肪などどこにあろう。一年中日に灼けた肌を、ゼンはしっかと抱きしめた。
この国の人間は二通りの肌色に分けられる。一方は白、一方は黒。前者はよく肥えていて、後者はひどく骨ばっているのもお決まりだ。いわゆる富裕層と貧困層である。ゼンのような“なんでも屋”は、日暮らしの銭稼ぎが掲げるわりと一般的な職業だ。言葉のとおり、なんだってする。屋根の修繕にレンガ積み、壁塗りに、お守りだって。朝の水汲みから夜の買い出しに至るまで、彼らはわずかな賃金で本当にたくさんのことをこなすが、なんでもすると謳いながら、その実なにもできないというあたりが面白い。彼らは実際、なにもできない人々なのだ。腕がたつわけでも、計算が早いわけでも、商売の才覚があるわけでもない。なにもできないからなんでもする。それが“なんでも屋”だ。年間で数百人の“なんでも屋”が飢えで死に、数千人の新たな“なんでも屋”が生まれる。バレリアはそういう国だ。
寒さのなかで、しかしゼンの口元は綻んでいた。気を抜こうものなら涎が垂れる。なにせ、銅貨六十三枚だ。あれから木の陰でこっそり数えたのだ。何度数え直しても間違いなく六十三枚、布袋には銅貨が詰まってあった。銅貨三十枚が一枚の銀貨に相当するから、これだけあれば、肉に温かいスープにパンもついた料理が一度、いやきつきつで二度は食べられるというものだ。
そのうえゼンの目はいいものを捉えた。小屋だ。同業者が廃材をかき集めて作ったのだろう、みすぼらしく、とても住めたものではない。しかし一夜の宿としては十分だ。ゼンはそろそろと木の棒を拾った。望まない先客が入りこんでいる可能性は高い。
――先手必勝だ。
目に異様な光を宿し、ゼンはにじるように小屋へ近づいていく。
扉を蹴ると、朽ちかけた木材は粉となって砕けた。もくもくと立つ粉塵のなか、ゼンは必死に目をこらす。小屋は狭い。隠れる場所などありもしない。はたして、扉とちょうど対面する壁に、ゼンはひとつの人影をみつけた。
けたたましい音にも関わらず、人影は一寸も動かない。一歩足を踏み出し、ゼンはぎょっとして竦みあがった。まさか、死んでいるのだろうか。探りながら近づくうちに、ちらと光るものを認めてゼンは足を止めた。
それは一対の目だった。影の正体はまだ幼い少年だったのだ。少年は死んでなどいなかった。ただ歯を食いしばり、近づいてくるゼンをじっと睨みつけていたのだ。痩せこけた膝を抱き、寒さと恐怖にうち震えながら。
そうと気づいたとたん、ゼンの手から木の棒が滑り落ちた。激しい衝撃がゼンの胸をつく。少年はゼンよりもずっとか細く、ずっと弱い存在だった。そしていまにも目を閉じてしまいそうだった。
「あんた……」
少年は動かない。
ゼンは迷った。この少年は死ぬ。間違いなく。ここにいれば、ゼンの後にやってくるだろう同業者たちに殺される。乞食や浮浪者、貧しい日銭稼ぎの類は、水面下ではひっそり助け合いながら、一定以上に寄れば相手を食わんと牙を剥くのだ。それはこの少年だって知っているはず。だのに膝を抱えて動かないのは、もはや逃げる気力すらないからだ。腰帯に結んだ布袋がずっしりと重い。ゼンは唇を噛む。こいつはもう手遅れだ。一度や二度満足な飯を食ったところで、働けるだけの元気を取り戻せるはずがない。みろ、あの肌。褐色の斑点があちこちに浮いている。あれはもう駄目だ。なにをしたって助かるはずが――。
気づけばゼンは、布袋に手を突っこんでいた。突っこみながら、それでもまだ指は迷う。銅貨の確かな感触がゼンを誘う。布袋の中で銅貨同士がこすれ合い、ちゃり、とわずかな音をたてた。
「ぐおあああぁ! があっ!」
そのときだ。それまで静寂を守っていた少年が、目を見張る勢いで跳ね起きたのだ。ゼンに向かい、一直線に突進してくる。骨と皮ばかりの足が、これほど鋭敏に動くだろうか。
ゼンはすっかり不意を突かれた。布袋から手を抜く暇すらない。少年の体当たりをまともにくらい、ゼンは後ろにひとつでんぐり返った。少年は体重が軽すぎるものだから、衝撃のほどは大して強くないのだが、なにしろ痛い。言わば骨の砲弾が飛びこんできたようなものだ。ゼンは目を白黒させて飛び起きたが、布袋はすでに彼の手を離れていた。袋の口を開けていたせいで、六十三の銅貨はみすぼらしい小屋の床にばらばらと転がる。
「ああ! 俺の全財産!」
金持ちが聞けば笑っただろう。銅貨など、彼らにとっては土くれも同じなのだ。しかしゼンにとっては大金だ。明日を生きる命の糧だ。床に這いつくばるようにして、ゼンは散らばる銅貨をかき集めた。
しかし少年がそれを許さない。もはや言葉もなくしたのか、獣のように吠え喚きながら、少年はゼンに飛びついてその腕を噛む。ゼンだってひどい痩せぎすだ。痛みは骨の髄をじかに刺す。
「このっ、糞やろう! 死にぞこない! かすっかすの、骸骨め!」
叫びながらゼンは拳を振るう。いままで振って当たった例のないゼンの拳だったが、このときばかりは見事に当たった。少年の右っ面に、めりこむほどの勢いである。
激しくもんどりうって、少年の体は小屋の壁に叩きつけられた。ぱっと木屑が舞う。伸びたかと思ったのも束の間、これぞ火事場の馬鹿力というべきか、少年はすぐさま四つん這いに体勢を整えたのだ。これにはゼンも心底恐れ入った。素早く屈み、手近の銅貨をむんずと掴むと、ゼンは壊れた扉をもう一度蹴り飛ばす勢いで小屋を出た。
空はもうすっかり夜の帳に包まれている。ゼンが逃げ去ってしまってからも、小屋からはしばらくの間、少年の唸り声が漏れていた。
湯浴みなど、もう何日もしていない。あまり汗をかかない季節とはいえ、さすがに限度というものがある。老人に連れられて食堂に入ると、給仕女が露骨に嫌そうな顔でゼンを睨んだ。いつものゼンなら、これですっかりへそを曲げているところだ。こんな応対の店で飯が食えるか、などと大口叩いて出ていくだろう。しかし今日ばかりはどうも大人しい。というのも、彼はいま夢見心地で、現世よりちょっとばかり浮いたあたりを、ふわふわと浮いていたからである。無理もない。小粒金を手のなかにちらつかせる老人が、これをくれてやると誘いかけてきたのだから。
昨夜、ゼンが食べたのは味気ないパンひとつだけだった。もう太陽は中天をすぎているから、ゼンの腹の虫はぐうぐうと鳴いて騒がしい。
いま思い返してもゼンの腹は煮えくりかえる。と言っても空っぽの腹である、煮汁ばかりで具さえないのはご愛嬌というところ。もっとも、それも全部あの少年のせいなのだ。獣じみた少年に追っ払われたとき、かろうじてゼンが掴み得た銅貨はたったの三枚。もっと掴んだ気でいたが、なんということはない、ゼンが後生大事に握っていたのは木の屑だったのだ。三枚ぽっちの銅貨で買えるものといえば、穴の開いたズックが片方か萎びたパンひとつがせいぜいといったところだ。
それがいまはどうだ。卓に並べられた料理の数々ときたら。崩れそうなほどじっくり煮こまれた肉(タンという。牛の舌だよ、とは老人が後で教えてくれた)のシチュー、皮にいい具合の焼き目がついたバゲット、玉ねぎが半分蕩けた琥珀色のスープ。ゼンは幻かと我が目を疑った。料理を、老人を、そして不機嫌な給仕女までを交互にみる。老人は人の好い笑顔を浮かべている。それをみたゼンは、息をつく間もなく次から次へと料理をがっつき始めた。すこしでも休めば幻が消えると恐れるかのような食べっぷりだ。とても褒められた行儀ではないが、老人はすこしの文句も言わなかった。ただ、ゼンが満足するのをじっと待っている。
「それで」
唇の端にパン屑をつけたまま、ゼンはもごもごと口を動かした。
「俺になにをしろって言うのよ」
簡単なことじゃ、と老人は言う。澄んだ発音だ。まず、かなりの金持ちとみて間違いない。
「害獣を追っ払ってほしいんじゃよ」
「害獣を」
老人は小さく頷いた。
「化け鼠を知っておるかの」
ああ、とゼンは答えた。答えながら色鮮やかなサラダに手を伸ばす。ああ、知ってら。体が異様に大きいっていう鼠だろ。たしか成獣は二メートルを超えるとか。
「そうじゃ。しかし結局はただの鼠、魔物の端くれにもならん。害獣というのはこれじゃよ」
わしの山に、断りもなく住みつきおって。老人が毒づくのを眺めながら、ゼンは音をたててスープを飲み干した。ちょっちょと舌を鳴らし、最後の一滴まで喉に流しこむ。あまりの行儀悪さに、近くのテーブルの若い女が金切り声をあげた。
「だけど俺、自慢じゃねえけど腕はあんまりたたねえのよ。そううまく追っ払えるかどうか」
老人はからからと笑った。皺だらけの首で喉仏が揺れる。
「ただの鼠と言ったじゃろう。奴らの小さいお仲間がそうであるように、化け鼠も根っからの臆病ものじゃ。恐れることはない。巣穴に飛びこみ、棒を持って振り回してやればすぐに済む」
「ふうん」
「な、簡単な仕事じゃろう。それで小粒金ふたつだ。おまえさん、小粒金がいったい銅貨何枚分の価値かご存知かね。およそ八十枚じゃ。八十枚の銅貨が詰まった布袋がふたつ、これがおまえさんの物になるんじゃぞ。えっ?」
老人の熱気がゼンに伝染する。興奮でゼンの尻はそわそわした。
「仕事の前には湯も貸してさしあげる。気づいておらんかもしれんが、おまえさん、なかなか酷い臭いじゃぞ。わしの家には石鹸がある」
「せっけんだって?」
「知らんか。乳白色の、妙にずっしりと重い塊じゃ。水に濡らすとぬるぬるとしおって、不思議な色の泡がたつ。これがまたいい匂いでの。化け鼠はこの匂いを嫌うとか聞く。今回は特別。特別じゃぞ。特別にこれを使ってもよろしい」
さすがにゼンが怪訝な顔をしたからなのか、老人はまたもやにっこりと笑った。顔中の皺がよりいっそう深みを増し、細い目などは埋もれてしまいそうだ。
「お疑いかの」
ゼンは肉を噛みながら曖昧な声を出した。
「疑うっていうか、ちょっぴり怖くなるのよ。綺麗な花にはなんとやらってやつ。飯は美味いわ安いわだったら、そりゃお客も並ぶだろうけどさ、あんたの話はそれどころじゃないよ。美味い飯をただでばら撒こうってくらいの大振舞だ。いい話だが、さすがにちょっとあれ? って思うわけ」
そう言いながらも、ゼンはこの溜飲を下げる一言を切に欲しているようすである。
実際、迷わず飛びつきたくなる旨い話だ。ゼンは化け鼠についての知識などないに等しいが、老人の話を聞く限りだと、これは十年ほどそこら中をうろついても巡りあえない儲け話のようである。あとはひとつ、ただちょっと顔をもたげる、この疑問を晴らしてくれさえすればいい。なぜ、そんなに羽振りがいいのかと。
老人はそのあたりにめっぽう聡かった。老獪な人物である。禿げあがった頭をぺちりと叩き、いっそう目を垂れ下げた。
「いや、恥ずかしい話じゃがの。おまえさんはわしの孫に似とるんじゃ。目のあたりだとか」
目? ゼンは意固地さを大声で喚いているような目元をさらりと撫でた。ほとんど逆三角形の、それは鋭い目つきである。
「そんなおまえさんが腹を鳴らして通りを歩いているのをみるとの、これがもう放っておけなくて。なんとか援助したいと思うが、訳もなく金を与えては俺も俺もと他が騒ぐ。それでこうして簡単な仕事を振り、報奨という形で金をさしあげようと考えたわけじゃ」
ゼンはぽんと両手を打った。うんよし、決まりだ! この老人は類まれなるお節介、いやさ、お人好しなのだ!
「よし乗った。そこまで言われちゃ俺だって信じざるを得ないよ。あんたいい人だ。これからはじいさんって呼んじゃおうかね」
老人は愉快そうに笑った。孫が増えるか、こいつはいい。
と、そのときだ。不意に食堂の入口が騒がしくなった。皿が落ちたのだろう、けたたましい音が鳴って、ゼンをうんと睨んだ給仕女が、木の盆を口に当ててきゃっと叫んだ。
「おい兄ちゃん。いつまでも変なぁこと言っとったら許さんど。金がねえたぁどういうことだ」
店主だろうか。ひどい訛である。
「ありゃろくな教育受けちゃいねえな」
首を伸ばして騒ぎのほうを窺いながらゼンが言う。自分のことは棚上げだ。
どうやら無銭飲食がどうとかで揉めているらしい。よくある光景だ。俺ならば見事に逃げ切ってみせるがね、とゼンは思う。逃げ足の速さにかけては自信があるのだ。しかし今回はどうやら運悪く掴まってしまった者がいるらしく、店主らしい恰幅のいい男は、扉の前に立って出口を塞いでしまっている。
それに対峙するのは若い少年だった。年のころ十七、八。いや、もっと若いだろうか。ゼンとそう変わらない年にもみえるし、もっと成長した体つきにも思える。推し量りづらい容貌である。顔はひどくあどけないのに、背ばかりがすらりと高く、丈のみをみれば店主とだってそう変わりない。薄茶の髪はふわふわと柔らかそうで、陽光を浴びれば白にだって金にだってみえる。きれいな色だ。ゼンの強情っぱりの固い黒髪とは大違いだ。夜の闇に似た色のマントを肩にかけていて、遠目でみても上質のものらしいことが分かる。剣を帯びているから、もしかすると衛兵を生業とする者だろうか。しかしとても腕がたつようにはみえない。なにせ、風が吹けば倒れてしまいそうなほどに細いのだ。なまっ白い首筋は小枝のように寒々しくて頼りない。彼は立っているだけでもふらふら揺れているではないか。
「こら、兄ちゃん」
すると、ずっとだんまりだった少年がようやく口を開いた。にーちゃんじゃないよ、と言う。ようようの抗弁にしては、ずいぶんと舌っ足らずである。
「おれはユア。ユア=A=フロイアント」
「ンなこたぁ知らん。それよりよぅ、他になんど言うことあるんと違うか。おう、兄ちゃんよぅ」
少年はこっくりと頷いた。そして素っとん狂にもこう言ったのだ。
「ごちそうさまでした」
店中がどっと沸いた。もちろん、店主ひとりを除いて、である。
店主のこめかみには太い血管が浮きあがっている。噂に聞く魔物もかくや、という形相だ。だのに少年はへらへら笑って動じない。なんなのだろう、あの愛想のよさは。ふと気を抜けばそのまま店主の肩に手をまわし、よう相棒、とも言いかねない。いまや客も給仕人も彼らの動向に目をこらしている。
「おおぅ! いい度胸だぁ、このやろう。その小憎い面ぁに拳固かましてやろうかぇ!」
給仕女がまた短く悲鳴をあげた。木盆をさらに引きあげる。それでいて目だけは隠さずしっかりと成り行きをみているのだから抜け目ない。
丸太のような腕を振りあげ、店主はいましも少年に殴りかかるかと思われた。少年が抗うようすはない。ゼンは興味半分、恐ろしさ半分で激しく瞬きをくり返している。心臓がどくどくと震える。ああ、あの少年どうなるんだろう。どうなるんだろうどうなるんだろうどうなるんだろう……。
「あい待った!」
ゼンは座ったまま数センチほど飛びあがった。打たれてもいないのにぎゃっと声をあげすらもした。
活きのいい語調で叫んだのは、いまのいままで相好を崩していたあの老人だ。老人はいまや立ちあがり、きっと鋭く店主を睨みつけている。しかし敵意はあるようでなく、どこか芝居じみた目つきだ。それでも食堂はぴしゃりと冷水をかけられたかのように静まりかえった。視線という視線が店主と少年、それから老人の間をいったりきたりして忙しない。
打って変わったような沈黙のなかで、老人はまたふにゃりと笑みを浮かべた。それだけで不思議な安堵感と、老人に対する手放しの好意がふつふつと湧いてくる。なにかしら人の心を掴む術に長けた人物である。
「そんな細腕を捕まえてなんとする。な? 金が必要ならわしが払おう。騒ぎ分の色だってつけよう。しかしその子の身はわしが預かる。のう? どちらにとっても悪い話ではあるまい」
げっとゼンは舌を出した。厳しい世界に長く身を置いてきた分、先の展開を読む力には長けるのだ。ゼンが思うにこの老人、きっとあの少年も放っておけんとか言いだすぞ。
そう考えていると、老人は悪戯っぽく笑ってゼンに目配せなどしてきた。
「旅は道連れ世は情け。旅ではないが、仲間が増えるのはいいことじゃ。人生何事もお導き。えっ? おまえさんにとっても悪い話じゃなかろうが」
ゼンは盛大なため息をついた。はいはい。類まれなるお人好し、ね。