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最終話 バレリアの朝霞に星は降りて

   最終話  バレリアの朝霞に星は降りて


 片や奇才と呼ばれた魔法学校の才女にして現皇太后、片や唯一彼女を下した女の血を継ぐ魂食らいの半魔である。慎みないが、彼らの他を挟まぬ命がけの対峙は、魔導師共の好奇を駆り立てて止まぬ。およそ自分などが入り込む隙のない戦いに、彼らは皆一様に息を呑むのだ。命と命のせめぎ合い、個と個の偽らぬ対話である。その壮絶さは時に、一種の恍惚を伴って、敵味方の概念すら溶かす。

 先ずダレスが動いた。

 彼女が使役する火の精霊サルマンは、命や輝けとその炎に勢いを加え、細腕を翅翼のように羽ばたかせてユアを襲う。それを迎え撃つは同じく火のサルマン、水のアキュロス、地のラジネである。数で勝るユアであるが、魔法とは言わば己を映す鏡である。彼の命さえ心許ない今、三体の精霊は春先の残雪のように儚い。

「食い殺しておしまい!」

 敬われるべき身分の女とは、とても思えぬ口の利きよう。だがダレスの気迫はサルマンに乗り移り、水の精霊アキュロスを襲う。

 サルマンが噴き出す烈火の炎を、アキュロスは辛くも避けた。胸を反らせた鮮やかな後転。だがその足先を恐ろしい熱が焦がす。鳥のような声で叫び、アキュロスは身を捩らせた。

 間髪入れず身を急旋回させ、再び襲わんと体勢を立て直すサルマンだったが、ラジネはこれをよく翼衛して防ぐ。長い爪と爪とが絡み合い、互いの身から火花が飛んだ。競りあいながら、サルマンの衣は伸びてラジネの細首を締めんと揺れ動く。

 強く噛み締めるあまり、ユアの奥歯が削れていく。切れた唇から血が垂れる。だが息をつくことは許されぬ。魔法は心の戦いなのだ。隙を作れば脆くも崩れる。

「サル、マン――サルマン!」

 身を切るようなユアの叫びに、彼のサルマンが勇躍する。火と火のぶつかり合いである。噴き上がる灼熱は、地獄がこの世に口を開けたかという有様。叢は彼女らの放つ熱気に中てられ、萎れていく。さながら身を燃やす鳳凰が二羽、空を舞ってようであるが、それが鋭く交差する度に赤い光が散る。それはまるで彼女らが流す血のようだ。

 一見拮抗して見える力量であるが、彼女らの姿には歴然の差がある。生命力の違いだ。ダレスが使役するサルマンは、唇の端に余裕の笑みを浮かべなどする。その性質上、戦いに身を置くことの多いサルマンは、肉躍り血沸き立つこの闘争を、心から愉しんでいるようなのだ。

 ダレスもまた、この戦いを面白がっている。かつて己を下した女の遺子を、手の平で転がしているも同然なのだ。彼女に敗北の意識はない。それは決して思い上がりではなかった。正常であれば彼女に劣るユアではない。が、彼の身は一秒ごとに呪いに食われつつある。薔薇は濡れそぼつ花弁の色を、一刻一刻深めているのだ。事実、ユアは端から防戦一方である。

 喉の奥で咳き込み、一瞬息を詰まらせると、ユアは鮮やかな血を吐いた。手で口を押さえるも、指の隙間から朱は零れる。ユアの視界が白む。鋭すぎる彼の五感も、もはや煙に巻かれたように不確かだ。ゼンが何か叫んだ声も、きっと彼には届いていまい。

 だがユアは倒れなかった。震える膝を鼓舞し、彼は立ち続けた。ダレスから目を逸らさなかった。荒く手を振れば、五本の指の先から血の滴が飛んだ。

「頑張るのね。いいわ、期待以上よ」

 ダレスは大口を開けて笑う。既に狂狡の体である。荒ぶるサルマンの狂気が、使役者である彼女をも食らっているのだ。

「死を前にして、惨めに踊り狂うがよい! 下賤なる魂食らいめ!」

 サルマンがさっと身を引き、ユアを囲うように叢を走る。グレイスはゼンの首根っこを掴み、氈鹿のごとき跳躍で後ろへと飛び退った。その直後、彼らがいた場所を炎が駆け抜ける。ゼンは息苦しさすら忘れて目を見張った。これが、これが精霊同士の戦い。燃え盛る炎は、青草の瑞々しさなどまるで感じさせない。彼らが蓄えていた命の水など、地獄の劫火が一瞬で奪ってしまったのだ。

 炎の壁がユアを取り巻く。熱風が彼を襲う。

 吹きつける熱から身を守らんと、ユアは反射的に手を交差した。――と、その瞬間、濁流のごとき勢いで蘇った記憶がある。うなる鞭に怯え、両腕で顔を覆った幼少の頃。冷たい壁、陽の差さぬ地下牢、そして血の臭い。

 ユアの瞳が力を取り戻す。精霊は再び舞い上がった。

「ラジネ! 地を砕け!」

 命を受けて地の精霊が舞う。彼女の飛翔に伴って大地が揺れた。命ある者のように立ち上がった土壌が、草を食って憚らぬ火に圧し掛かる。まるで大地そのものが、彼が育む命を蝕む害虫に怒り、身を震わせたかのようである。

「アキュロス、水を!」

 土の勢いに怯んだところを、続けて冷えた水が襲う。小さくなった火は助けを求める手のように揺れ、だが逃げることも敵わずついに消えた。それを見たダレスの目が見開かれる。この男、不死身かと。

「いいえ、まだよ! サルマン! 何度も彼を炎に包みなさい! 柱を、炎の柱を!」

 両手を広げ、空を仰ぐダレスの姿は、神の名を隠れ蓑に狂った蜜を吸う教祖のようだ。すっかり我を失った皇太后の姿に、魔導師共は心臓を縮み上がらせる。

「饗宴よ! さあ、宴の席に火を!」

 サルマンは再び地を這う。掘り崩されたばかりの新しい土も、彼女の前では意味を成さない。炎の壁は、前よりも更に勢い、高さを増してユアを囲う。前後左右、彼にもはや逃げ場はない。

「ユア! くそっ、焼け死んじまう……!」

 ゼンの足は震えて止まらぬ。猛る炎に射すくめられたように、彼はその場から動けない。仮に動けたとて何になろう。ユアやダレスほどの者同士の戦いとなれば、魔法を知らぬ者は、その上ゼンのように身体能力に絶対の信を置ける訳でもない者は、口を挟むことすら許されないのだ。その隣で、グレイスは瞬きもせずにユアを見つめる。炎の向こうに揺れる、我が弟の、細い背中を。

 ――やはり私は罪深い男だ。

 グレイスは思う。

 ――いくら肉親とて、彼が殺めた臣民の魂は数知れぬというのに、それでも彼に――打ち勝って欲しいと望むとは。

 彼は無意識に、ユアの姿に己を重ねているのかもしれぬ。義母の、陰湿な厭味や仕打ちに耐えるしかなかった、いや、耐えるという“可哀想な自分”に逃げてきた、臆病な自身の姿を、彼に。

 ――今誓おう。もう、私も逃げぬ。

 彼がそう心で約する相手は誰か。ニンフか、かの従者か、それともユアか。

 勝て。勝て、ユアと。その気持ちは手放しで受け入れられるものではない。ユアに殺された者の遺族は、声を嗄らしてダレス様よ勝て、と叫んだろう。断ち切れぬ兄弟の繋がりが何だ。我々は彼に愛する者を奪われたのだ、と。

 戦いはいつも一つの正義の元に起こるとは限らない。二つ、いや三つ四つの思いが絡み、誰もが神の加護を信じて剣を取る。ダレスとて、哀れな女に違いはないだろうが、自身が正義と信ずる世界に生きたという点において、彼女ほど一途な人物もそうおるまい。

 ダレスが手を掲げると、飼い馴らされた鷹のように、サルマンは彼女の傍らへと舞い戻る。それが肩の辺りを漂ったのも束の間、ダレスの動作に合わせてサルマンの身が揺れる。

 ――来た。

 ユアに火を消し去る力はもはやない。ローブの端を火に焦がしながら、しかしユアはしっかりと見た。ダレスが弓を引き絞り、炎の矢が三本番えられるのを。

 自尊心の高い彼女である。抵抗の余地もないほどにユアを苛め抜いた後で、彼女が絶対の信頼を置くこの技を繰り出すことは、容易に想像できた。ユアはただ、この一瞬を待っていたのだ。反撃し得る可能性を孕む、この唯一の時を。

 ユアは腰の鞘を引き抜く。目の前に構え、添えた右手をゆっくりと引く。サルマン、アキュロス、ラジネの三体が僅かに身じろぎし、一筋の光に姿を変えるとユアの周りを取り囲む。その時、ユアははっと息を呑んだ。

「おまえ達……」

 温かいのだ。彼を取り囲む憎悪の炎とはまるで違う、撫でるように優しい。

「そう……おれはずっと、気付かなかったんだ、おまえ達の温もりにも」

 淋しげな笑みを浮かべる使役者に、精霊らは柔らかく微笑む。そして一層輝きを増すと、それぞれ一本の矢となった。火、水、地。彼の全てを掛けた三本の矢。奇しくもダレスの技と同じである。

「――小癪。打ち破ってくれるわ!」

 絶叫と同時に解き放たれた炎の矢。風を切り、唸りながらユアを目掛けて一直線に飛ぶ。ユアも引き絞った右手の五指を弾く。燃え盛る壁を突き破り、三種三様の矢が空を駆ける。

 蕩けるような温もりを残してそれらが放たれるのを見送ると、ユアはついに膝から崩れた。力なく開いた口から鮮血が迸る。

 ――ごめんね。

 薄れていく意識の中で、ユアは思う。

 ――おれは嘘つきでした。最後の、最後まで。

 地の精霊ラジネ。緑の光を宿した彼女は、ダレス第一の矢と当たって砕ける。――相殺。

 ――本当は……。

 水の精霊アキュロス。冴えた青の矢は、続く第二の矢と正面から絡み合う。空気が裂けるような音と共に、二本の矢は大小の火花となって散った。

 ――本当は、最後にこう言いたかった。

 たくさんの命を奪った。望まない殺戮も、自ら選んだ殺生もあった。許される身ではない。なのに助けようとした、愛すると言ってくれた君達は、やはり本物の馬鹿らしい。まるで身勝手極まりない。臣民を愛すべき皇帝が、それを害して憚らぬ魂食らいを想うだなんて。愚かだ。まだ出会って間もない、実質的繋がりのない兄のために、目を腫らして泣くだなんて。だけど、

「ありがとう……」

 色のない唇が微かに震える。彼の言葉は、しかしついに空気を震わせることなく――消えた。

 火の精霊サルマン。同じく地深くより湧き上がる炎を纏った矢を目前に、彼女の姿は突として失せた。風が雲を散らすように、静かだった水面に波紋が広がるように、僅かな余韻を残して。

 ユアの力はついに尽きた。膝をついて座り込み、空を見上げる。こぽこぽと音をたて、血が泡となって口の端から零れる。

 ――滑稽だ。

 自嘲的な笑みが漏れた。十年間思い続けた、願い続けた結末から大きく道を逸れ、己と同じ痛みを与えんと期していた女の手で殺されるとは。滑稽は彼らではなく、自分自身であったか。

 目を閉じる。だが体は太陽の下で尚温かい。ああ、これが安らぎ。冷えていく彼の体さえ、天道は見捨てず照らし続ける……。

 矢が胸板を貫く。皇一族の紋章が施された豪奢なマント留めを砕き、よく鍛えられた――よく、鍛えられた厚い胸板を――ああ、これは……彼は――……、

「……グレ、イス……」

 華よ珠よと大切にされた体から、鈴のような血の滴が落ちた。


 一瞬の出来事であった。


 グレイスは刹那、ユアの勝利を思った。彼のサルマンが輝きに満ち、より一層その速度を増したからだ。その勢いはダレスの矢を呑んで尚余るかと見えた。が、それは最後の、本当に最後の光だったのだ。力が燃え尽きる瞬間の、散り際の美しさであったのだ。グレイスが知らず拳を握り締めたその直後、サルマンの姿は煙と消えた。その時に彼の体は動いていたのだ。考える暇などなかった。

 地を蹴ったグレイスと、地に張りつけられたゼン。炎の壁すら突き破ったグレイスと、炎に怯え竦んだゼン。その違いは何であったのだろう。

 それはグレイス自身の負い目だ。義母に反抗らしい反抗もせず、大人しく従い続けた自分への負い目。それが彼を突き動かした。義母と戦うだけの力はあったはず。足りないのは彼の度胸であった。男グレイス、そのまま終わっていいものか。ユアを守ろうという気持ちも確かにあっただろう。だが彼は、ついに彼自身の正義のために走ったのだ。

 人垣から絶叫が漏れる。劫火をその身に宿したのは、彼らが愛する皇帝その人であった。信じられぬ結末である。彼らは泣き叫び、彼の体から呪われた矢を抜かんと熱り立った。が、体が動かぬ。足は地に縫いつけられたかのよう。

 身悶えする臣下らを、グレイスは薄絹を通して見るように感じた。声が、遠くに聞こえる。誰かに名を呼ばれたような気もした。が、分からぬ。

 ダレスは茫然と手を下ろす。憎きユアめを刺し貫いたかと思われた刹那、黒い影が躍るように矢の行く手を遮ったのだ。糠喜びも甚だしい。その上それが何かと煩わしい我が養子とくれば。

 だが、燃える炎に身を包まれていくグレイスを見ていると、彼女の腹の底から震えるような笑いが湧き上がってきた。そうだ、そうではないか。この男こそ憎むべき男。皇尊の愛を一身に受け、皇帝の座を実子ヤマから奪い取り、臣民の歓声を一人攫う面憎き男。そう……そうだ、グレイス=C=イスケ。彼もスージーの子ではなかったか!

「はは、は、あははははは!」

 突然の笑い声。絶望の声を漏らしていた魔導師共は、その狂態に言葉を失う。

「あはははは! グレイス、喜劇の最後はおまえが締めるか。ははは! 馬鹿馬鹿しい! 放っておいても死ぬ男を助けて何が楽しい。何が得られる?」

 身を揺らしながらの大笑である。正気の沙汰とは思えない。

「ああ、おまえが最後に間抜けをしてくれてよかったよ。御蔭で妙な謀を企む手間が省けた。空いた皇帝の椅子は、我が愛するヤマの物! あれはわたくしの子! 富も、権力も、全てわたくしの物となる! あはははは!」

 炎が舐めるように全身を包む。小麦色の髪が熱風に渦巻く。が、不思議と苦痛は感じない。あるいは既に麻痺したか。グレイスは体を揺する義母を、どこか哀れむような目で見た。

「――ひとつ、申し上げたいことがあります」

 ふふ、ふ、と苦しげに息を吐き、ダレスが唇を吊り上げる。

「我が名を御忘れでしょうか、義母上。二十二年前、あなた方に戴いた我が称号を」

 ダレスの笑い声がぴたりと止まる。唇も持ち上げられたまま制止する。

「グレイス=E=ロウ。ただ数日の事とはいえ、私は確かに皇帝でありました」

 言い切る前に、絶叫がグレイスの言葉を遮った。白粉を塗った頬を掻きむしり、ダレスがこの世の者とは思えぬ声を上げるのだ。もはや言葉すら成さぬ有様に、彼女の気狂いはその部下共にまで浸透する。

「義母上。いえ、ダレス。ダレス=R=タバサと御呼びしてもよろしいでしょうか。――汝は、皇帝殺しの罪に問われる」

「嫌! 嫌よ! 何かの間違いだわ!」

 ダレスは泣き叫んだ。

「嫌よ! わたくしが殺そうとしたのはユア! ユア=A=フロイアントよ! あなたではないわ!」

 まるで子どもの戯言である。虎を射ようとして猪が斃れたが、我が欲する処は別にあったのだからこれは虎の毛皮と言い張るようなものだ。

「ではその目で御確かめ下さい。あなたの訴えが天に届けば、御身に薔薇が刻まれることはありますまい」

 ダレスは我が背を見ようと首を捻り、挙句見えぬ見えぬとその場で狂狂くるくる回る始末。果てには貴様が確かめよと手近な者をひっ掴まえて、事もあろうに男の手に衣服を剥がさせんとする有様であるから呆れる。勿論男がそのような無体を働ける訳がなく、畏れて平伏すばかりであるから、ダレスは余計喚き散らした。

「どうして……どうして」

 縋るような声に、グレイスは静かにふり返る。ユアが茫然とこちらを見上げ、瞳をしとりと湿らせている。ああ、泣いてくれるなよ。グレイスは心の内で思った。

「よく分からぬ。考える前に体が動いていた。おまえの楯になろうとしてか……ただ義母の思惑通りに事が運ぶのを見ているのが悔しかったからなのか、それすらも……分からぬ」

 そう言ってグレイスはにこと笑った。炎に包まれ、肌は泡を吹いたかのような様子。凄惨極まりないその姿に似合わぬ、それは穏やかな笑みであった。

「だが、妙な気持ちだ。善しとされる行動では……ないのに、なぜか……心が、軽い」

 ――なぜか、心が軽い。

 炎が彼の厚貌を溶かしたか。その真実の言葉が、グレイス=E=ロウ、いやグレイス=C=イスケ最後の言葉となった。熱で反り返った彼の体は、ユアを避けるようにしてどうと倒れた。そしてそのまま静かに燃えた。

「グレイス皇帝! 皇帝陛下!」

 呪縛が解けたかのように、魔導師団が我先にと彼に駆け寄る。治癒の魔法などと都合のいいものがある訳でもないのに、精霊を呼び出す者などもいる。

 人の群れが押し寄せる中で、ユアはただ静かに血を流していた。とろとろと顎を伝う血は、彼の涙のようですらある。

 ゼンは地面に座り込み、滂沱と流るる涙を拭うことすらもなく、たださっき兄と知れた男が燃える様を見ていた。膝が、手が、体が髄から震えている。その彼の隣に立つ者があった。リヒィ=ミヒィである。

「じき、ここは焼けるぞ」

 ゼンはゆっくりと声の方を見遣る。妙な被り物の――どうやら少年らしい――彼を、ゼンは知らない。誰、という声は掠れて上手く響かなかった。

「説明したところで今の君の耳には入らんだろうが、僕の名はリヒィ=ミヒィだ。ただ、ゼン・デイアフォードよ。哀れな皇帝の身を包む炎は、すぐにも叢一体に広がる。このままでは血の繋がらない君の兄、ユアは、意識を僅かに残したまま焼け死ぬことになるぞ」

 またゆっくりとユアに目を向けるゼンを、リヒィ=ミヒィは口を歪めて見つめる。

「ゼンよ。君のその性質をお人好しと呼ぶべきか、ただの偽善者と呼ぶべきかは迷う処だ。きみは己より弱い存在に対してのみ英雄となり得る。まったくちっぽけなことよ。だが今、その下らん自己陶酔も、後少しは役に立つのではないかね。ユアを見たまえ。あれこそ救いを求めている者の姿ではないかね?」

「あんた……」

 ゼンは夢から醒めきらぬかの如き口調である。

「あんた……俺は、あんた、嫌いだ……」

 リヒィ=ミヒィは少年特有の高い声で笑った。

「構わんよ。むしろその方が正常で、僕にとっても有難い。そんなことよりもさあ、行きたまえ、その終焉に向かって」

 促されるままゼンは立ち上がる。もはや重みすら感じさせないユアを背負い、南へ、南へと。


「ゼン……」

 ゼンの背に負われ、ユアはか細い声で言った。おれね、最初からこうするつもりだったんだ。

「こうって」

「グレイスを、楯にするの。ダレスの、矢を」

 言葉を紡ぐのすら苦しそうである。一言一言を、ようやく絞り出すといった様子で、しかしユアは話を続ける。

「結局、おれの……思う通りに、なった、はずなんだ。なのに、なんだか……」

 グレイスがゼンを殺すように仕向けさせ、その上で彼らの血の繋がりを明かして彼を懺悔させ、その彼を楯にダレスの矢を受けん。ユアに巣食う呪いがダレスをも襲い、ユアが心から憎む人物、そしてその血は、この日を限りに滅息する。自らの命を葬ることも含めて、ユアがお膳立てしたおぞましい舞台は、こうして幕を閉じるはずだったのだ。ゼンの死以外、結局はユアが思い描く夢をなぞるように進んだ。なのに、なのになんだか、

「なんだか、不思議な気持ち……」

 手を打って喜べない。グレイスの、炎の向こうで揺れる笑顔が胸を騒がせる。

「ずっと、望んでいたはず、だった。グレイスが……憎かった。あんな、一時だけ、いい顔を見せられたからって……それで、許せるはずが……ないのに」

 ゼンはすんと鼻を鳴らした。小さく跳ねて、ずり落ちるユアの体を抱え直す。

「――どうしようもなく許せない相手なのに、つい愛してしまうことも、あるんだろうよ」

「…………」

「皇帝さんはあんたを愛した。あんたも、最後の最後に、ようやくあの人を愛せたんだ。そうだろう? じゃなきゃあんた、泣かないよな」

 ユアは困ったように笑う。どうして見てもないのに分かるかな、と。その顔は涙に濡れている。

 会話はそれを終いに雪のように溶けた。ゼンはただ歩き続ける。どこへ行こうという考えはない。だが時間が許す限り進もうではないか。言葉はもはや必要ない。彼らが共に過ごした時間はあまりにも短かった。が、十年でも語り尽くせないような深い思いを、拳を通して交わし合えた、ような気がする。そう思うのは不遜だろうか。だが現に、今、背を通じて感じるユアの温もりは、百の言葉よりも雄弁だ。そしてとても優しい。

 静かな歩みは激しいユアの咳によって止まる。降ろして、と呟くユアの声は酷く儚い。

「……ゼン」

 木の幹に背を凭せ掛け、なんとか体勢を保ちながら。

「ああ」

「お願いが、あるんだけど」

 なんだよ改まって、と言うとユアはゆっくりと両手を持ち上げる。半ば閉じられた目が柔らかく微笑む。ゼンの胸が詰まる。熱い涙が更に勢いを増して流れ落ちる。

 ゼンは黙って頷くと膝をつき、ユアの体を抱き締めた。細く、頼りない体だった。震えるユアの手が、そっとゼンの背に重ねられる。とくとくと感じるユアの鼓動は、生まれたての雛のようであった。

 くぐもった声が漏れる。食い縛った歯の隙間から、苦しく、切ない声が。


 頬をくすぐるユアの髪は、太陽の日差しのように柔らかかった。


   ◇


 これが後に、皇の血事件と呼ばれた惨劇の全貌である。レザフ=E=ロウの惨殺から始まり、その後を継いだ養子グレイス=E=ロウも又海を経たバレリアの地で息絶え――優れた長にならんと臣民の期待を集めた彼の在位は僅か十日にも満たなかった――、その義母たる皇太后までもが身に呪いを受けて絶命した。バレリアの朝が血に染まった、あれから十一日後のことである。

 グレイス皇帝の御亡骸は、ローハーに葬る事さえ叶わなかった。彼はただ一片の骨すら残さず炎の糧となったのだ。彼の身を食らい終えた劫火は、それだけでは飽き足らず、バレリアの首都スプダイの外れの叢一帯をも焼き尽くした。最後までグレイス皇帝の元を離れず、火に呑まれたという魔導師もいたと言うが、大抵はそんな度胸もなく逃げ散っている。茫然自失の体でローハーに帰るか、何もかもを見失ってバレリアの地を彷徨うか、どちらにせよ彼らの末路も又哀れであったことに変わりはない。

 これを受けて新しく起ったヤマ=E=ロウは、二十三歳の若者である。が、若さゆえの気鋭という雰囲気とは程遠い、慈愛に満ちた人物であった。あまりに柔な物腰のため、本当にあの皇太后の御子かと陰口されるほどである。両親に続き、敬愛する義兄までをも失った彼の悲嘆は尽きることがなかったが、だがローハーは指導者を欠く事ができぬ。青褪めた顔のまま即位した彼は、ユリシア国から王女ユナ・イーシアを妻に迎え、立派な男児二人と女児三人に恵まれる。やがてこの長子が齢二十にも届かぬうちに、外柔内柔とも言うべき父を蹴落とし、皇帝の座を手に入れることで、ローハーの色向きが大きく変わっていくのだが……それはまた別の話。

 皇の血事件について、真実を知っている者は数少ない。グレイスはリヒィ=ミヒィに勾引かどわかされてバレリアへ渡り、そこで土匪の凶刃に斃れたとされ、ダレスは流行り病という事で済まされている。が、強欲の皇太后の背に、烈火の如き薔薇の彫り物が浮かんで癒えなかったという噂は実しやかに皇城を巡り、大臣らがその口を防ごうとて無駄な事であった。

 しかし、彼らがついに知る事ができない事実がここに、もう一つ。

 彼は悲劇の主人公か、はたまた救い難いただの悪鬼か、それは判別しかねる処だが、ユア=A=フロイアント。間違いなくこの物語の中心に立っていたその彼が、この大事件とは場違いな優しい腕に抱かれ、愛の中で静かに息を引き取った事――これはフロイアント公だけの、秘密。

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